七海の場合・下

 七海ななみ溝口みぞぐちと知り合ったのは二年近く前。『小泉レコード』の新しい担当ということで、前任の中年女性と入れ替って店にやってきたのが始まりだった。
 溝口の第一印象は優しさと頼もしさ。
 大きくてまった体の持主だったが、その上に乗っている顔は丸っぽく、笑うと目が糸のように細くなった。口調も柔らかく声を荒げることは皆無かいむで、性格もおっとりしていた。むろん結婚していて年は四十五歳、子供も二人いた。
 そんな溝口に七海は好感を持った。
 七海は父を知らない娘だった。物心がついたころから母親と二人暮しで、父というものの感触をまったく知らないまま成長した。そんな環境が溝口に好意の思いを抱かせたのかもしれない。
 母親の恵子けいこは、七海が生まれる直前に夫の勇治ゆうじと離婚した。だから戸籍上の父親は勇治ということになっていたが、七海が中学生になったとき妙な噂を耳にした。
「七海ちゃんのお父さんは、別の人なんだって……」
 たまたま遊びに行った同級生の家の母親がこんな言葉をぽろりともらして、すぐに口をつぐんだ。
 気になった。胸が騒いだ。体中がすうっと寒くなった。
 家に戻って七海はすぐにこのことを母親の恵子にただしてつめよった。
「世間っていうのはなあ……」
 恵子はこんな言葉を口にしてから、
「七海は正真正銘、私の子――それでいいじゃない。それ以上、どんな説明がいるっていうの。これで充分」
 大きくうなずいて、七海にみを見せた。
 それからは何をいても一言も答えず、笑っているだけだった。こうなったら頑固者の恵子は金輪際こんりんざい口を開かない。七海は父親の詮索せんさくを諦めた。もやもやしたものだけが、胸の底に残った。
 そんな七海の前に、優しさと頼もしさを併せ持った中年男が現れたのだ。七海は溝口に甘えの気持で接し、溝口も七海の甘えを鷹揚おうように受けとめた。
 甘えが好意になって、やがてそれが思慕し ぼに変った。そんな心の変化を見透したように溝口は七海をホテルに誘った。七海は素直にそれに応じ二人は深い関係になった。
 これが一年ちょっと前のことだった。
 深い関係になってから、七海に対する溝口の態度が徐々に変っていった。口調から柔らかさが消え、命令口調の物言いになった。優しさの代名詞だった笑顔も見せなくなり、不機嫌な表情を七海に見せるようになった。そして、溝口は七海に自社のCDの買取りを迫った。
 元々CDの類いは委託販売が普通で、それが買取りということになると、かなりの重荷をレコード店は背負うことになる。それでも七海は無理をして溝口の言葉に従った。溝口に嫌われたくなかった。
「俺はデカパイの女が好きなんだ。七海のようなせた女は、本当は好みじゃねえんだ」
 そのころ溝口は、こんな言葉をよく口にした。この言葉を聞くたびに七海の心はちぢこまり、不安感が全身をつつんだ。
 限界がきたのは四カ月ほど前。
 CDが売れない時代に小泉レコード店が何とかやっていけているのは店頭はもちろん、ネットなどを駆使して中古レコードを効率よく販売しているからだった。しかしその利益も、溝口のいう通りにCDの買取りをつづけている限り、あやうくなるのは目に見えていた。というより、それが目の前に迫っていた。溝口の持ってくる買取りのCDの数は月を追うごとに増えていた。
「もう、ちょっと無理みたい」
 いつも利用するラブホテルのベッドの上で、七海はこう溝口に訴えた。
「無理って――もうCDの買取りはできないっていうのか」
 怒気ど きを含んだ声で溝口は答えた。
「これ以上つづけてたら、店が立ち行かなくなってしまう恐れが……」
「その分、中古レコードのほうで頑張ればいいんじゃないか。簡単なことだろうが」
「頑張ってます。頑張ってるけど、もうこれ以上は」
 泣き出しそうな声を七海は出した。
「そうか」
 ぼそっとした声で溝口はいい、
「じゃあ、俺たちの関係もこれまでにしよう。CDを買い取ってくれないあんたと、こんな関係をつづけていても時間の無駄ということになる。これからはメーカーと販売店、それだけのつきあいということで」
 冷たくいい放った。
 優しくて頼もしい溝口は、もうそこにはいなかった。自分勝手な中年男が、ふんぞり返っているだけだった。
「じゃあ、俺はもう帰る。何かまた、いい話があったら連絡してくれ。それ以外の連絡は無用だから」
 溝口はベッドからあっさり立ちあがって、七海に背中を向けた。大きな背中が七海のすべてを拒否しているように見えた。冷たい背中だった。それでも七海は溝口が好きだった。
 七海が溝口のケータイに連絡を入れたのは八月の中頃、お盆のときだった。
 七海はこのとき、歌声喫茶を開く計画があるから、そこでCDの実演販売をしたらどうかという提案を溝口にした。溝口はすぐにそれに乗ってきた。七海は久しぶりに溝口に逢い、ホテルに誘われた。嬉しかった。そして、今回の歌声喫茶の会の開催を迎えたのだ。


 午後の三時を過ぎたころ、和彦かずひこ源次げん じが連れ立って小泉レコード店にやってきた。
 二人は顔中に笑みを浮べ、
「歌声喫茶の会、大成功でおめでとう」
 こんなことをいい、そのあと少し雑談をしてから、
「七海ちゃん。ちょっと外へコーヒーでも飲みにいかないか。ちょうど、お客さんも一段落する時間帯だろうし」
 と和彦が口にして目を細めた。
 優しい笑顔だった。溝口とは違い、本物の笑顔に見えた。思わず首を縦に振り、七海も笑顔で返す。そしてこのとき、この人が本当のお父さんだったら……そんな思いがふと、頭のなかをかすめた。しかし和彦は親切な町内のおじさんで、七海の父親ではない。残念な思いが胸のすべてをおおい、七海は反射的に首を左右に振った。
「何だよ、行かねえのか、七海ちゃんよ」
 すぐに源次がダミ声をあげた。
「あ、行きます。ちょっと、ほかごとを考えていて」
 七海はそういい、たくをしてきますからと声を張りあげて奥に入った。
 二人が連れていったのは『エデン』ではなく、商店街の外れの『ジロウ』という喫茶店だった。奥の席に座り、三人は熱いコーヒーをすすることに専念する。温かい飲み物が心地よく感じる季節になっていた。
 和彦がコーヒー茶碗をそっと皿に戻して、七海の顔を見た。さっきまでとは何やら雰囲気が違う。真剣そのものの顔だ。
「実は七海ちゃんをここに誘ったのは、ちょっと心配事があって、それで」
 いいづらそうにいった。
 七海の胸がざわっと騒いだ。
 ひょっとしたら、溝口のこと。あの夜、溝口を見送る自分の顔を、和彦と源次は妙な目をしてうかがっていた……。
「つまり、あれだ。先日の歌声喫茶の会のとき、うわつらだけはヘラヘラと愛想のよかった、あの溝口とかいう中年男のことだ」
 源次が単刀直入にいった。
「あっ」
 と七海は低い声をあげてから、
「溝口さんはやっぱり、上っ面だけの人ですか」
 念を押すように訊いた。
「失礼ないいかただけど、修羅場しゅら ばをくぐってきた大人の目から見れば、溝口さんという人は、どこからどう見てもそういうことになってしまう。申しわけない……」
 すまなそうに和彦がいった。
「そうですか……」
 ぽつんと七海はいい、ちゃんとした大人の目から見れば溝口は上っ面だけの人間。やはり、そう映るのだ。再認識はしたものの、自分にとって溝口はやはり、かけがえのない人間だった。たとえ溝口が、どんなにひどい男であっても自分にとっては。
「あの、翔太しょうた君がお二人のところに行って、それで私のところへ?」
 もうひとつ気になっていることを訊いてみた。いったいこの二人は、どこまで真相を知っているのか。今更どうでもいいことのようでもあったが妙に気になった。
「なんで、ここに翔太が出てくるんだ。七海ちゃんは何か翔太に相談事でもしたのか。まあ、あいつはわしたちよりも数段頭がいいから、相談相手には最適かもしれんがよ」
 源次はちょっとふくれっづらだ。どうやら、この件に翔太はからんでいない。和彦と源次は二人だけの考えで自分に会いにきたようだ。
「いえ、翔太君からも、お二人と同じようなことをいわれましたから」
 あわてて話をごまかした。
「なるほど、あいつも気づいていたか。そりゃあまあ仕方がねえよな。ことさら勉強しなくても、東大現役合格は確実といわれているやつだからな」
 源次は一人でうなずいている。
「その、翔太君も気づいたという事柄ことがらなんだが、七海ちゃんはあの溝口という男と、何というか、深い関係というか交わりというか、そんなものがあるんだろうか」
 視線を落して遠慮ぎみに和彦がいった。 
 辺りが静まり返った。
「はい、すみません」
 しばらくして七海は素直にうなずいた。
 この期に及んで隠していても仕方のないことだった。
「何だよ。てっきり、思いすごしだったという笑い話ですむかと思ってたのに。そういうことかよ、七海ちゃん」
 源次がおろおろ声を出した。
 二人とも両肩が落ちていた。
「やっぱりそうか。でもまあ、すんでしまったことを、とやかくいってもしようがない。要はこれから、どうするかということなんだが、先方には、奥さんや子供は」
 しぼり出すような声を和彦はあげた。
「います」
 また、頭を下げた。
「あの野郎、妻子がありながら、こんな若い娘に手を出すとは。何という人でなしの不埒者 ふ らちものなのか」
 大時代的な言葉でえる源次を、和彦が静かにと慌てて制した。
「聞くところによると恵子ちゃんはずっと旅行三昧ざんまいで、今はオーストラリアに行っているそうじゃないか、そんなときに――」
 ぽつりと和彦は言葉を切った。
 どうやら恵子の旅行三昧の件は翔太から聞いているようだ。
「そんなときに、とんでもない間違いを七海ちゃんに犯させるわけにはいかない。何といっても七海ちゃんは俺たちにとって、実の子同様の存在なんだから」
 和彦は七海のことを実の子同様といった。だが、同様であって決して実の子ではない。こんな父親が小さなころからいてくれたら、あるいは、溝口のような男に心をよせることもなかったのかもしれない。そんなことを七海はふと思う。
綺麗き れいさっぱり、別れるのがいちばん」
 強い声で源次がいった。
「そうだな。ここはどんな立場であれ、別れるのがいちばんいいと俺も思う。というより、それしか道はない。理屈もへったくれもなく、道はそれしかない。それは七海ちゃんにもわかっていると思うが、俺たちや翔太君の言葉を後押しにして、ここはいい機会ときっぱり。なあ、七海ちゃん」
 んで含めるような和彦の言葉に、
「はい、でも」
 と七海は一瞬口ごもり、その言葉に源次がすぐに反応した。
「あの野郎に何か弱みでも握られておどされてるのか。そんなら、わしの出番じゃねえか。あの野郎のところにいって、足腰立たぬようにしてやってもいいが。何なら背骨をへし折って半身不随ふ ずいにしてやってもよ」
 物騒ぶっそうなことをいい出した。
 本気のように聞こえた。
 町内のうわさでは源次は古武術の達人で、近頃いろいろな所でその技を用いて暴れまくり連戦連勝だと聞いた。そんな源次が溝口のところに乗りこんだら……七海は、ぶるっと体をふるわせた。
「いえ、そんなことじゃありません」
 慌てて首を左右に振り、
「ただ、十日後に迫った、第二回目の歌声喫茶のことです」
 押し殺した声を出した。
「歌声喫茶が何か?」
 怪訝け げんな表情を見せる和彦に、
「二回目の歌声喫茶の司会も、溝口さんに頼んであります。ですから、それがすんだら必ず……私なりの筋だけは通したいんです。約束だけはきちんと守りたいんです。それがすめば必ず。ですから、それだけは許してもらえませんか」
 七海は二人に向かって深々と頭を下げるが、今いったことはうそだった。三回目ぐらいまでは司会をお願いしますと物語ものがたりでいった覚えはあるが、先日のあの電話の口振りではこない公算のほうが高かった。
 こなければこないで、司会を翔太に頼めば事は収まるはずだったが、七海は溝口にきてほしかった。きてくれた溝口に何を望んでいるのか。七海自身にもわからなかったが、溝口の顔だけでもいいので見たかった。機嫌のいい声を聞きたかった。
「七海ちゃんが、そこまでいうのなら、今回の歌声喫茶のときまではりゅうにしよう。七海ちゃんには七海ちゃんの決心のしようがあるだろうから」
 和彦がこういって、源次も渋々これに同意した。
「しかしよ。何だって七海ちゃんは、あんなしょぼくれた中年男と――いったい、あの男のどこが気にいってよ」
 唇を尖らせて源次がいった。
「あの、それは父親代りというか。私はずっと母一人子一人の暮しだったから。それで、その、溝口さんに」
 つかえつかえ、いった。
「父親代りなら、わしたちがいるじゃねえか。なあ、和ちゃん」
「もちろん、そうだ。特に俺は七海ちゃんを実の子のように思っているさ」
 妙に真剣な顔つきで和彦はいうが、何をいおうが、所詮しょせんは実の子のよう。そういうことなのだ。
「お二人が親身になってくれてるのはわかりますけど、あまりに身近すぎて、どう甘えていいのか見当もつきません。そこへいくと、溝口さんはよその人ですから、恥も外聞がいぶんもなく甘えることができますから」
 視線を落していった。
「甘えたかったのか、七海ちゃんは父親に。要するに、ファザコンなのか――」
 源次がそこまでいったとき、ふいに和彦がよく通る声を出した。
「あの溝口という男。先日連れてきた、堀北ほりきたしのぶという若い新人歌手とも関係があるように見えたが」
 はっきりした口調だった。
「あっ」
 七海は胸のなかで驚きの声をあげた。
 あの新人歌手と溝口が……そういわれてみれば、そんな雰囲気ふんい きが確かにあった。つまり、溝口は七海の体にきて、忍の新鮮な体に乗り換えたともいえた。七海の目の前がすうっと暗くなった。悲しかった。さびしかった。腹が立った。それでも七海は溝口が好きだった。


 二回目の歌声喫茶の会が迫っていた。
 溝口にどう司会役を頼んだらいいのか考えあぐねていると、夜になって当の溝口のほうから七海のケータイに電話があった。店を閉める直前だった。
「あっ溝口さん。先日はお世話になり、本当にありがとうございました。実はこちらから電話をしなければと思っていたところで、ちょうどよかったです。実は今回の司会も溝口さんにお頼みしようと」
 うわずった声で一気にいった。
 一気にいわないと言葉が逃げていってしまう気がした。怒鳴るような声で七海は溝口に向かってしゃべった。
「今度の歌声喫茶の司会か――その件は後で話すとして。いったい、あの五十嵐いがらし翔太という小僧は、お前の何なんだ。会社に乗りこんできて、偉そうに意見じみた説教を俺にしていったが」
 嘲笑ちょうしょうするようにいった。
「翔太君が!」
 驚きの声をあげる七海に、
「小泉レコード店からの代理と受付でいわれれば出ないわけにはいかねえから、下のロビーまで降りていったが」
 溝口はそういって、翔太とのあれこれの一部始終を七海に話し出した。
 ロビーに降りた溝口は社内ではまずいと咄嗟とっさに思い、翔太を近所の喫茶店に誘った。
 コーヒーを前に奥の席に陣取った溝口は強い口調でこういった。
「小泉レコード店の代理と聞いたが、お前はいったい七海の何なのだ」
 これに対し翔太は自分の名前と身分、住んでいるのが七海の家の近所だといい、
「僕は七海さんの、いちばんのファンです」
 こんな言葉を口にしたという。
「ファンなあ。その七海のファンの翔太君が、いったい俺に何の用なんだ。小泉レコード店の名前までかたって俺に会いにくるとはよ。それともこれは、七海の差し金なのか」
「七海さんは関係ありません。すべては僕の一存でやってきました。溝口さんに頼み事があって、ここまで」
 声を張りあげる翔太を前に、溝口はいうにいわれない優越感を覚えた。要するにこいつは七海が好きなのだ。そうであれば、頼み事の内容は容易に想像できた。この小僧は自分と七海の関係を知って、それを解消してほしいと頼みにきたのだ。七海が俺に抱かれるのが我慢が まんならないのだ。
「それで、七海のファンの翔太君の頼み事というのはどんなものなんだ」
 余裕を持って訊いてみた。
「七海さんと別れてください。お願いします」
 こういって、翔太は頭を思いきり下げたという。
「別れてくれって、いったいお前はどこまで知ってるんだ」
「お盆の夜、溝口さんと七海さんが暗い路地で抱きあっているのを見ました」
 低い声でいう翔太の顔を見ながら、
「なるほど、そういうことか」
 と溝口は納得する。
「つまり、お前は、七海が自分以外の人間とやるのが我慢ならない。だから別れてほしい。そういっているわけだな。お前と七海はそういう関係なんだな」
 そんなことはないだろうと思いつつ、溝口はカマをかけてみた。
「僕と七海さんはそんな関係じゃありません。それは七海さんに対して失礼すぎる言葉です」
 想像した通りの言葉が返ってきた。
 こいつは七海に対して片思いをしているのだ。それも熱烈な片思いだ。このとき溝口の胸に残忍な思いが湧いた。この真直まっすぐで一途な若者をいたぶりたい。打ちのめしてやりたい。そんな気持に襲われた。
「そういうことなら、翔太君は七海の裸の体を見たことがないんだな。じゃあ、特別に詳細を教えてやるよ」
 いったとたん、翔太の体がぴくりと震えるのがわかった。
「あいつはスタイルがいいが、スタイルがいいということは痩せっぽちだということだ。その分、オッパイも小さく尻も小さい。つまり子供のような体だということだ」
 翔太がこぶしを握りしめるのがわかったが、この拳は俺を殴るためのものではない。耐えるためのものだ。
「だが、子供の体にしてはあそこの吸いつきもよく、れ具合も驚くほどだ。まあ、それだけ俺にれているということだけどな。知ってるか翔太君、女は惚れた男の要求なら、どんな恥ずかしいことでもする。たとえば――」
 といったところで、翔太が両の拳でテーブルをどんと叩いた。
「やめてください。僕はそんな話が聞きたくてここにきたわけじゃない。僕は人として人間として、七海さんと別れてくださいと溝口さんに頼みにきただけです。ちゃんとした、大人の分別を見せてくださいといいにきたんです」
 翔太の顔は蒼白そうはくに変っていたという。
「大人の分別なあ」
 溝口は鼻でわらうようにいい、
「お前なあ、ひとつ間違えてほしくないのは惚れてるのは七海のほうで、俺は七海のことなど何とも思っちゃいないということだ。それを承知で別れてくれっていってるのか。抱かれたがっているのは七海のほうで、俺じゃねえ。そこんところを、わかっていっているのか、純情青少年よ」
 一気にいった。本当のことだった。
「わかっています。ですから、七海さんから連絡があっても無視してほしいんです。相手にしなければ七海さんも諦めるより仕方がないはずですから」
 必死の思いが翔太の顔には見られた。
「なるほどな、よくわかった。お前のいっていることは正しい。青臭い若者にしかいえないことだが、正しいことに間違いない。だが、世の中、正しいことがまかり通るとは限らん。というより、そんなことは通らないというのが、この世の中というもんだ」
 必死の形相の翔太の顔を薄ら笑いを浮べて凝視ぎょうししてから、
「別れないといったら、どうする。純情青少年さんよ」
 溝口は顔中を笑いにしていった。
「こんなことは本当はしたくありませんが、溝口さんの家族とレコード会社のほうにすべてを話して、判断をあおぎます」
 初めて溝口の胸が騒ぎ出した。
「それは……」
 狼狽ろうばいの声が出た。
「家族と会社に話すというが、何かそれを証拠立てる物はあるのか。こっちは七海に惚れまくった、ストーカー小僧の戯言ざれごとだと反論もできるがよ」
「七海さんに、に入りさいに入り証言してもらえば周囲に納得はしてもらえると信じていますが」
 翔太の言葉に溝口はうなった。
 あの七海がそんな証言をするとは考えられないが。それにしてもこの、クソ小僧。溝口の胸に突然怒りのようなものが湧きおこった。翔太が憎らしかった。
「いちおう、よく考えてみるよ」
 吐き出すようにいった。
「いちおうでは困ります。きちんと真面目に考えて、別れるという結論を出してもらわないと。このままでは、七海さんが壊れてしまいます。七海さんが」
 突然、翔太が悲痛な声をあげた。
 同時に椅子から転げるようにおり、溝口の前に正座してひたいを床にこすりつけた。
 翔太は溝口に土下座して懇願こんがんした。
 立場がまた逆転した。
「きちんと真面目に考えてやってもいい――その代り、お前。そのまま俺の靴をめてみるか。さっき、トイレに行ってきたばかりだけどよ。舐めれば真面目に考えてやるぞ」
 怒りをこめた目で正座している翔太の姿を見た。
 翔太がもぞっと動いた。正座したまま、溝口の靴に近づいた。
「それで、本当に七海さんを解放してくれるのなら、やります」
 くぐもった声が聞こえた。
 翔太は溝口の靴に唇を押しつけた。


 溝口の長い話は終った。
 七海は声も出なかった。
 あの子が溝口の靴を……衝撃しょうげきだった。自分のために翔太がそんなことを。すまないと思った。ありがたいと思った。申しわけないと思った。目の奥がうるんだ。でも、自分は……でも自分は。
「七海、お前。まさか俺を売るような真似はしねえよな。いくら別れるかもしれんからといって、一度はお互い心から愛しあった、 、 、 、 、 、 、 、俺をよ。そんな真似は金輪際しねえよな」
 怒鳴るように溝口はいった。
「あっ、はい、そんなことは私――」
 七海は咄嗟に口に出す。
「それから最初の話の歌声喫茶の司会の件だが、持ちこんだ堀北忍のCDを全部買い取ってくれるなら、やってもいいが。百枚ほどだけどな」
 とんでもないことをいい出した。
「百枚って、そんなお金……」
 絶望的な声を七海は出す。
「なければつくれ。それから、もし俺と別れたくなかったら、これまでのように持ちこむCDは全部買いとること。そうしてくれれば、別れずに、その痩せた体を抱いてやるよ」
 勝ち誇ったように溝口はいった。
「それを断ったら私をすてて、堀北忍さん一筋ですか」
 こんな言葉が口から飛び出した。
「気がついてたのか……まあ、そういうことだな。返事は今じゃなくてもいい、といっても歌声喫茶の会も迫っているし、一両日中に決めて電話をくれ。いい返事なら、スケジュールは空けておくからな」
 その言葉を最後に電話は切れた。
 七海はその場にうずくまった。
 何もかもが理不尽だった。
 自分が情けなかった。
 女の体が憎かった。
 涙がこぼれて床にシミをつくった。
「七海さん」
 そのとき、誰かの声が響いた。
 顔をあげると、心配そうな表情で翔太が立っていた。
「いつから、いたの」
 泣きじゃくりながらいった。
「七海さんが溝口の電話に出た、すぐのときから」
 ということは、すべての会話を聞かれていたということだ。頭のいい翔太のことだ。七海の受け答えだけで、電話の内容は把握したに違いない。
「駄目ですね、あの男は」
 静かすぎるほどの声で翔太はいった。
 この子のいう通り、あいつは駄目男だ。今度ばかりは身にしみてわかった。七海にとっていちばんのショックは堀北忍のことだった。あまりにもひどすぎた。そして、翔太が溝口の靴を舐めた件……あれも衝撃だった。ひょっとしたら、今なら別れることが。だけど、もうひとつ何かが欲しかった。この心のうつろさを埋めてくれる何かが。
「立ってください、七海さん。座りこんでいてもしようがない」
 七海の両脇に両手を入れ、渾身こんしんの力で翔太は七海を立ちあがらせた。
 翔太の顔がすぐ前にあった。
 自分のために溝口の靴まで舐めた翔太の顔が。
 ふいにいとしさが湧いた。
 何もかも翔太にぶつけたかった。
「翔太君、私を抱いて」
 口から、ほとばしり出た。
 翔太にしがみついた。
「私を抱いて。私を押し倒して。そうすれば、あの駄目男と別れられるかもしれない。私を好きなようにして翔太君」
 しがみついた両腕に力をいれた。
「駄目ですよ、七海さん。そんなこと絶対に駄目です。僕はあの人の代りは、もう嫌です。そんなことをしなくても、七海さんはあの男と別れられるはずです。そんなことをしなくても」
 さとすように翔太はいった。
 でも、七海は翔太に抱いてほしかった。
 一途な心を持った翔太の体で、自分の体をきよめてほしかった。そうすれば必ず……。
 翔太の胸に顔を埋め、七海はいつまでも嗚咽お えつをもらしつづけた。                                                                             (つづく)