第二章 否認〈承前〉
三郎は首をひねり、探偵にでもなったように顎に手をやった。そして大げさに膝を打って、
「こんな推理はどうですか」
と正太の顔を見た。
「サブちゃん、これはドラマのシナリオとはちゃうで。実際の事件なんやからな」
「分かってます。でも、こう考えると何となく可能な気がするんです」
三郎の考えはこうだった。
由那に付きまとっていた尾藤は、隣接する一軒家に住む岡本がアパートの管理をしていることに気づいた。管理人ならマスターキーを保管しているはずだと、今度は岡本の生活パターンを観察しはじめた。
「それでキーの在処を知ったおっさんは、大胆な行動に出たんです」
「岡本さんが鍵の紐を結ぶとこを盗み見たんか」
と正太が訊く。
「いくらなんでも、それは無理ですよ。岡本さんがマスターキーを使うことも滅多にないでしょう。手元の動きや結び方を知るほど接近はできないでしょうしね。粘土か何かで象りして複製したんだと思うんです。それならフックから外さなくてもできるんじゃないですか」
時代劇に夢中になる時間帯を狙って、キーボックスに近づいた、と三郎はしたり顔を向けてきた。
「それやったら、結び方のほうは解決やな。けど残念ながらスペアキーを作るのが」
「なんです?」
「ディンプルのキーで、そう簡単に複製できないんや。刑事もそう言うてた」
「決めつけていいんですかね」
不満げに正太を見る。
「そら分からへん。ストーカーが鍵を作ってて、小倉さんを殺したあと鍵を閉めて逃げたと考えるんが、一番納得できるんやさかい」
「殺しておいて、鍵をかけて自殺に見せかけたってことですよね。計画的で凶悪な犯人だということですよ」
「恐ろしいやっちゃ」
テレビのニュースでは連日殺人事件を報じているが、どこか絵空事のような感覚でいた。殺人犯が身近に存在すると思うだけで背筋が寒い。
「でも、あのおっさん、やっぱりそこまではできないんじゃ」
三郎がつぶやいた。
「あらら、サブちゃん。象ってスペアキーを作ったと言うたんは、誰や。急に弱気になるなよ」
「だってストーカーが相手の部屋に忍び込んで、盗聴器とか盗撮カメラを仕掛けて、暮らしぶりを覗くのと、人殺しをするのとはまったくちがうと思いませんか」
「あのストーカー男が犯人やなかったら、小倉さんの周りに、ストーカーとは別に殺人犯がいたということになるんやで。そんな不運、あんまりやないか」
研究熱心で手際もよく、真面目でいい子だと、ことあるごとに真理子が由那を褒めていた。そんな女性が、なぜこれほどまでの不幸に見舞われなければならなかったのか。
「確かに可哀そ過ぎます、由那さん」
三郎は悲しげな目をした。
「うちの店の社員寮に使ってるアパートで殺人事件があっただけでも人聞き悪いのに、周辺に二人も犯罪者がうろついてるなんてことになったら、社員のなり手がなくなる。そんなこと言わんといてくれ。最近アルバイトの募集にも、なかなか集まらへんのや」
「そうだ、おっさんが犯人だとしても、遺書はどうしたんですか。由那さんの手書きの遺書があったんですよね」
「ああ、あのメモな」
「発見した店長は、 文章読まれたんでしょう?」
「うん『もう限界です。これ以上は耐えられません』とあった」
「そんなに悩んでるなら、僕に相談してくれてもよかったのに。やっぱり自殺なのかなぁ。僕なんか頼りにならないと思われてたんでしょうかね」
三郎の表情が陰った。
「そんなこともないやろけど。そうや、小倉さんの部屋の片付けにきたお姉さんと一緒に、精神科医がおったんや。小倉さんの友人やと言うてたけれど、相談は専門家にしてたんとちがうか」
四十代半ばなのに若作りで、長めの髪の毛に鋭角的な顎をした本宮慶太郎の顔を思い浮かべた。
「精神科医の友人だなんて、そんなこと彼女から聞いたことないです」
三郎はかむりを振った。
「そうか。友人やないのかもしれへんな」
「診察を受けていたってことですか」
「それは分からへん」
自分が精神科医にかかっていることを、誰彼なしに口にできるとも思えない。
「そうや、そのお医者さんがつかんだ情報がな」
と続ける。
「何でも小倉さんが死んでしまうその日に、彼女を見かけた者がいるっていうもんや。とても自殺するようには見えへんかったみたいやな。それでその医者も自殺に疑問をもって、いろいろ調べてるんやそうや」
「お医者さんがそこまで?」
「何かあるんやろ。その医者が引っかかってるのが、スナフキンの言葉。サブちゃんはムーミンって知ってるか」
正太は、由那のノートとエプロンのポケットにあった、ムーミンに出てくるスナフキンのことを持ち出した。
「それ、知ってます。その、ここで、これを見てたんです、由那さんは」
三郎は、デスクにある黒いノートパソコンに目をやった。
「ここで?」
「ごくごくたまにですよ」
三郎は言いにくそうだった。客が映った防犯カメラ映像があるため、プライバシーの観点から、警備員室には正社員以外、極力出入りしないよう言っているからだ。三郎は警備員室で休憩時間に、自分のパソコンでシナリオを書いていた。女性の気持ちがちゃんと書けているのかを由那に読んでもらうこともあったという。
「困ったもんや。逢い引きしてたんとちゃうやろな」
「ちがいます、絶対そんなことないです」
三郎は真っ赤な顔をして否定した。シナリオのチェックの合間、野菜の栄養価などを調べたいという由那に、パソコンを貸したこともあるそうだ。
「ほんでスナフキンを?」
「ムーミンの話に出てくる料理を調べてるんだと思ってたんですが」
「けど、ちがったんやな」
「見てたのは、台詞ばかりが紹介されているページでした」
「閲覧してたんやったら履歴が残ってるやろ?」
「それは……」
詮索するのは由那に悪い気がする、と三郎が難色を示した。
「無理強いはせんけど、ここでスナフキンの台詞を調べてたんはいつ頃のことや?」
「亡くなる少し前やったと思います」
「それは重要やで。文面、覚えてないけど、強くて前向きなもんやった。自宅のノートにも書かれてたし、店でつけるエプロンにメモしたのを忍ばせてた。調べた台詞がそれやったら、何か意味があるんやないか」
「そうですね、ここでパソコンを見ながらメモしてたかもしれません」
三郎は目を細めて、そのときの由那の様子を思い出そうとしているのが分かった。
「履歴からならアクセスした正確な時間が分かるやろ。それにスナフキンの台詞、知りたくないか」
「うーん」
「自殺やないという情報を刑事は欲しがってた。裏を返せば、何もなかったらこのまま捜査は終わるいうことや。殺人犯を野放しにしてしまうんやで、サブちゃん」
この言葉に、三郎は渋々パソコンを引き寄せて開き、メインスイッチを押した。
そのとき正太の携帯が鳴った。親父からだ。
第三章 罪責感
1
慶太郎は、麻那に許しを得て由那の部屋にあった今年の分のノートを、クリニックに持ち帰っていた。
ほとんどのページは創作料理のレシピが占めていたのだけれど、欄外に由那の短い言葉が記されているのを見つけたからだ。
それは日付もなく、いつ書いたものか判然としなかったし、本人しか分からない言葉も少なくなかった。それでも慶太郎は、そこに由那の心の叫びのようなものを感じたのだ。
欄外の言葉だけをホワイトボードに書き出してみた。少し離れてソファーに座り、全体を俯瞰する。
『やっぱり凄いひとだ』
『情熱がちがう』
『あの舌には勝てない』
『また残っちゃったか』
『いたんでないし、美味しいのに捨てる、捨てる』
『よだかのこころ』
『もう分からないよ』
『私のほうがまちがってるのかも』
『おもしろ、おかしく、おろかしく』
『可愛がって、育てて、殺しちゃう』
『夢への一歩だと信じよう』
『もしものことがあったら』
『やっぱり限界だ』
ボードには書き写していないが、『やっぱり限界だ』と記した次のページに、一ページを使って、『本当の勇気とは自分の弱い心に打ち勝つことだよ。包み隠さず本当のことを正々堂々と言える者こそ本当の勇気のある強い者なんだ』というスナフキンの言葉があった。
限界という語句は、遺書とされるメモにもあった。
『もう限界です。これ以上は耐えられません。ただ自分が楽になりたいだけじゃなく、支えてくれた人たちのために決心したんです。覚悟を決めて今日のうちに行動に移します。迷惑をおかけすることになるもしれませんが、私の気持ちを分かってください ゆな』
慶太郎はテーブルにメモのコピーを置いて、ソファーの背にもたれた。
限界がきて、勇気を振り絞り正々堂々と言える強い者になりたいと思っていた。その由那が、耐えられないと覚悟を決めた。いったい何に対して限界を感じ、耐えられなくなって、覚悟を決めたのだろうか。それが分かれば、由那の心の地図は見えてくる。いったいどこに向かって行こうとしていたのかもつかめるはずだ。
ノックの音がして、澄子が盆にコーヒーカップを二つ載せて入ってきた。
「また探偵ごっこ?」
そう言いながら澄子もソファーに腰を下ろした。
「いまは診察時間外で、営業にも行けない時刻だからね」
小言をもらう前に慶太郎は言い訳して、柱時計を大仰に見る。午後九時過ぎだ。
クライアント数は微増なのに、慶太郎の労働時間が大幅に増えていた。澄子は費用対効果に疑問があると言い出した。本来なら営業に回す時間を、由那の事件に割いていることに不満を感じているらしい。
「営業できないなら、尊の面倒みてやって。あなたが教えたんでしょうプラモデル。またテレビゲームに戻ってしまうわ」
テレビゲームばかりする息子に、慶太郎が子供の頃夢中になった戦艦のプラモデルを見せた。最初は眺めているだけだった。けれど慶太郎が新しく買ってきたものを作っていると、手伝うと言って部品を切り離し出したのだった。いまは、部品の接着を任せられるほど上達している。
「声はかけてるし、あいつが作った箇所も点検してるよ。四年生にしては上手いほうだ」
「言い出した以上、完成まで付き合ってやって」
「当然さ。完成した達成感が、大事なんだ」
「それなら、小倉さんのことは、もういい加減警察に任せてしまってよ」
「この前、刑事に会ったんだ。警察としての捜査は終わったようだけど、垣内さんていう刑事さんが一人粘ってくれている。それで情報を提供することになっていて、自殺ではないとなれば、殺人事件として再び捜査をしてもらえる」
春来にその旨を伝えて、拒食症を経過観察する、と今後の治療方針を口にした。
「それで、本当に棚辺春来さん、改善するのかしらね」
「どういうこと?」
「いまは、自分を励ましてくれた人が自殺するはずがないって、思い込んでいるのよね。なのに自殺だと決めつけられている。それをどうすることもできなくて自分を責めて摂食障害になった。自殺なんかしない人だったってことが証明されれば、自責の念が薄まると慶さんは思ってる。これで合ってる?」
「もうひとつ、小倉さんは、春来さんにとって自分を応援してくれた大事な味方なんだ。ただ自殺をする人イコール弱い人間だ、と思っているところがある。自分の味方だった人は強くあってほしいという願望もあるんだと思う」
「それはいいんだけど、私の心配は、その味方が誰かに殺されたという事実を、どう春来さんが受け取るかなの」
とても怖いことよ、と澄子は身ぶるいする格好をして見せた。
「それは……」
慶太郎は、言葉に詰まった。
澄子の言う通り、殺人という事実がもたらす精神的衝撃が、自殺よりも小さいわけはない。今度は大切な由那の命が、殺人犯に奪われた怒りの感情をコントロールできなくなる危険性があるのだ。
怒りや恨みの感情は、大の大人でも制御できず、精神のバランスを崩してしまいがちだ。ましてや十六歳の多感な女の子なら、なおさら慎重を要する。
「どうなの?」
澄子の声が慶太郎の胸に突き刺さる。
「自殺でないと分かった段階で、調査は終わるよ。その事実を告げて、治療に傾注したほうがいいよな」
「約束よ」
「うん分かった。澄子」
「何?」
「ありがとう」
「とにかくこのクリニックを好転させないと、ね」
微笑みながら、澄子はカップに口をつけた。そしてソファーに身を沈め、ホワイトボートに目をやり、
「これ、小倉さんの?」
と尋ねた。
「うん。思いついた料理のレシピなんかを書き留めていたノートがあるんだ。その欄外に走り書きされてた。食べ物に関係はするんだろうけど、思ったこと、考えたことがそのまま表れている気がしてね」
慶太郎は大学ノートを持ち上げた。
「小倉さんの心模様ね。ざっと見た感じだけど、何かに苦しんでるっていうのが伝わってくるわ」
「まず、小倉さんには自分と比べる誰かがいた。それは『やっぱり凄いひとだ』『情熱がちがう』『あの舌には勝てない』が示している。その人の舌、つまり味覚に感服している。次の『また残っちゃったか』は、自分が発案したか実際に作った惣菜が残ってしまったことがあったんだろう、そのことを気にしている。『いたんでないし、美味しいのに捨てる、捨てる』は売れ残った惣菜を捨てることへの罪悪感も覗かせているね。それから、『可愛がって、育てて、殺しちゃう』は、家畜のことだろうか。生き物の命を食べることに思いを馳せて……うーん、そんな根本的なことを悩んでいたのかな」
「もしそうなら、根深いわよ」
「すぐに解決できるような問題じゃないからね。家畜のことを可哀そうだと思えば、食材から肉類を外さないといけなくなる」
「菜食主義にでもなっちゃったのかしら」
「でもレシピを見たかぎり、それはないようだ」
慶太郎はノートを澄子に差し出した。
澄子はノートを開き、
「牛も豚も鶏も使ってる。この京都祇園の黄金一味の肉味噌、美味しそうだわ」
澄子が微笑む。
「何だ、黄金一味って」
「黄色い唐辛子なの。赤い唐辛子の一〇倍も辛い。日本一辛いの。だからほんのひとつまみで効く。安いものじゃないけど、コスパはいいはず。何より黄金一味の肉味噌ってネーミングもいいわ」
澄子は由那のセンスを褒めた。
「菜食主義なんかじゃないってことだ」
「そうね」
澄子がカップを手に、もうひと口飲んだ。
「この『よだかのこころ』って何だろう」
慶太郎は再度ボードに目をやり、凝りをほぐそうと首を回す。
他の言葉は何となく想像がつくが、これだけは意味が分からなかった。
「そうね、どこかで聞いたことあるような、ないような」
澄子が額を指で叩く。
「やっぱり食べ物に関係あるんだろうか」
「食べるもので『よだかのこころ』? 『すずめの学校』とか『かもめの玉子』っていうお菓子はある……『すずめの学校』は豆菓子、『かもめの玉子』は白あんが入っていてホワイトチョコレートでコーティングした焼き菓子、そうよ、お菓子よ」
「お菓子の名前だったのか」
「かもめの玉子で思い出したんだけど、同じ岩手県のお菓子で平べったいかりんとうをおみやげにもらったじゃない。それが確か『よだかの星』っていったわ」
「あれは美味しかったな。だけど『よだかのこころ』じゃないじゃないか」
「そうね、『よだかの星』は、そもそも食べ物じゃなくて宮沢賢治の童話の題名だわね」
「『よだかの星』か。小学校の教科書にも載ってたな」
その童話を読んだ頃のことを思い出すと、慶太郎の通っていた小学校では鶏を飼っていて、その小屋の匂いが蘇った。
「なんとなく覚えてるんだけど、どんな話だったっけ」
「うーん、主人公の夜鷹が虫を食べることに苦しむ……あっ、もしかするとこの『よだかのこころ』はお菓子の名前じゃなくて、童話の主人公よだかの気持ちってことかもしれないわ。ちょっと待って」
澄子がテーブルにある慶太郎愛用のタブレットを取り上げた。そして、
「やっぱり青空文庫にあるわ」
と黙読し始めた。
「没後五〇年以上経ってるからな」
「確か八〇年以上経つんじゃないかしら」
しばらくして、黙ったまま澄子がタブレットをよこした。
あらすじを話してくれるものとばかり思っていて、当てが外れた慶太郎は仕方なく『よだかの星』を読む。
童話の主人公は、外見や運動能力にも自信のない「よだか」だ。味噌をつけたようにまだら文様の顔には、平らで耳まで裂けたくちばしがついていた。足もよぼよぼで、ろくに歩けない。他の鳥からは鳥仲間の面汚しだ、顔を見るのもいやだと嫌われていた。めじろのヒナが巣から落ちたのを助けたことがあるが、そのめじろの親からは感謝されるどころか、子供を奪いとるようにして馬鹿にされた。属する科目は違うが、同じように「鷹」という名前が付いていることが気にくわない鷹は、ある日よだかに「市蔵」に改名しろと迫る。さもないと殺す、と脅すのだ。
よだかの苦しみは、いじめられることではなく、自分が生きてゆくために虫などを食べないといけない、つまり殺生をしなければならないことへの罪責感だった。いくら食べるのをやめようとしても、彼の本能は自然に虫を食らう。
鷹に殺されるのを恐れている自分が、虫の命を奪っている。この矛盾に耐えられなくなったよだかは星になる決心をした。お日様にお願いするが、よだかは夜の鳥だから星に訊けといわれる。西のオリオン座、南の大犬座、北の大熊星、東の鷲の星にお願いしたけれど、金銭が必要だとあしらわれる。
誰の助けも得られないよだかは、ある覚悟を決めて、天空を目指して飛んでいく。そして命をかけて、星になるのだった。
「重いテーマだったんだ」
と慶太郎はタブレットから顔を上げ、冷めたコーヒーを飲んだ。
「子供の頃読んだときも悲しかったけど、いま読むと胸が痛いわ」
「とくにラストの『それからしばらくたってよだかははっきりまなこをひらきました。そして自分のからだがいま燐の火のような青い美しい光になって、しずかに燃えているのを見ました。すぐとなりは、カシオピア座でした。天の川の青じろいひかりが、すぐうしろになっていました。そしてよだかの星は燃えつづけました。いつまでもいつまでも燃えつづけました。今でもまだ燃えています』は、よだかにとってはよかったのだろうけれど、こっちは辛いよな」
「自分で決心したんだしね」
「『よだかの星』が食物連鎖をテーマの一つにしているのを考えると、やっぱり、このよだかのことだろうな。小倉さんが『よだかのこころ』って書いているのは、殺生をしたくないってことなんだろうか。それとも星に……」
「なに? 星になりたいって思ったってこと? 慶さん、自分のやろうとしてるのと正反対のことを言ってるわよ」
強い口調で澄子が言った。
「いや、それはちがう。あくまでこの記述をした時点での小倉さんの気持ちを分析しているだけだから」
「でも、よだかのこころって、書いてるのよ。人間も他の命を食べないと生きていけないじゃない? だけど小倉さんはお肉を使ったお料理のレシピをたくさん考え出している。考えられるのは」
澄子が立ち上がり、ホワイトボードの前に移動した。教師のように腰に手をやると、赤いマーカーのキャップを抜き、『いたんでないし、美味しいのに捨てる、捨てる』『よだかのこころ』『もう分からないよ』『私のほうがまちがってるかも』を大きく丸で囲んで、続けた。
「これらをひとくくりにすれば、小倉さんの悩みは食べ物を粗末にすること、食品ロスを憂いてたんじゃないかしら。書かれた順番はこの通りなんでしょう」
「順番は変えていない。なるほど食品ロスは、究極の命の無駄遣いだ」
食べるため、生きていくために仕方なく殺生をする。どうせ奪った命なら、手を合わせて感謝し、大切にいただくべきだ。なのに人間が勝手に決めた消費期限がきたから、いたんでもいないのに廃棄してしまう。それは、奪った命への冒涜だ、そう考えたのかもしれない。
「消費者としては消費期限は大切よ。安心して食べられるのは、それがあるからだわ」
「そうだな」
「冷蔵庫から、消費期限切れちゃったのが出てくることがあるでしょ? 捨てるのは抵抗があるのよ。だから少しぐらいなら日が経ってても火を通して食べちゃう。ダメなものは、見なかったフリして奥に突っ込んで、諦めがつくくらいまでダメにしてから捨てる」
「おい、おい」
「それくらい、いやなことなの、食べ物を捨てるってことは。でも人間ってずるいっていうか、卵を買うとき、できるだけ新しいものを手に取ってるわ」
「それはそうだろう」
買い物客のほとんどが、古いものを避けるのは当然だ。同じ対価を払うのに何もわざわざ古くなったものを選ぶ人間は稀だろう。
〈つづく〉