七海の場合・中

 歌声喫茶うたごえきっさの会から三日が過ぎた。
 会は大成功だった。
 七海ななみが密かに期待していた、ある一点さえ除けば。
『小泉レコード店』のカウンターのなかに腰をおろしながら、七海はあのときのことをぼんやり頭に浮べる。
 集まってくれた人は六十人をこえ、採算の面からみても黒字となって、会場を貸してくれた『田園』を始め、支援をしてくれた人たちに支払いをしてもまだ余裕があった。
 和彦かずひこたち独り身会のメンバーも大喜びで、客が帰ったあと、関係者全員が居残って飲み会ということになった。
 乾杯の音頭おんどを取ったのは田園のマスターの洞口ほらぐちだ。
「思った以上に人がきてくれて、ほっとしました。でもこれは、第一回目の御祝儀ごしゅうぎ相場そうばのようなものかもしれません。七海ちゃんの話では月に二回程度は、この歌声喫茶の会を開きたいということなので、次はよほどふんどしを締めてかからないと――」
 といったとたん、傍らの桐子きりこが声を張りあげた。
「じいちゃん、下品すぎ」
茶々ちゃちゃが入ったようなので、固い話はこれぐらいにして」
 洞口は座の一点に目をやり、
「それから、レコード会社からわざわざ参加してくれた溝口みぞぐちさんと演歌の堀北ほりきたしのぶさん、本当にありがとうございました」
 頭を深々と下げてから「乾杯」とって、みんながグラスを高くかかげた。
 そのあとは礼講れいこうになった。
「けどよ、あのおとなしそうというか真面目そうというか、鈴蘭すずらんシネマの奥さんがリクエスト曲を出して、マイクの前で音頭を取って歌うとは思わなかったよな」
 源次げんじが感心したような声でいった。
「そうそう。頼子よりこさん、ちょっと涙ぐんで歌っていましたよ。あの奥さんにも、青春の思い出というのが、いろいろあったんでしょうね」
 しみじみした調子で川辺かわべがいうと、
「確か、リクエスト曲は、幸子ゆきこさんとマヒナスターズの『北上きたかみ夜曲やきょく』でしたね」
 七海があとを引きついだ。
「いい歌だよな、あれは。映画にもなったんだよな、純愛ものの」
 遠くを見るような目でいう和彦に、
「他の曲でも涙ぐんでいる人が、けっこういたような気がするな。青山和子の『愛と死をみつめて』とか、ペギー葉山の『学生時代』とかな。舟木一夫の『高校三年生』で、泣いているオバサンがいたのには驚いたがな」
 相槌あいづちを打ちながら洞口がいった。
「ところで、俺のリクエストした『愛の奇跡』は出てこなかったけど」
 和彦が七海を見つめる。
「あっ、すみません。けっこう、リクエストが多くて忘れちゃいました」
 七海は軽く頭を下げるが、決して忘れたわけではない。しょうのことを考えると、出すわけにはいかなかったというのが本音ほんねだった。『愛の奇跡』の最後のフレーズは――別れても私は信じたい、いつの日か、あなたに愛される、愛の奇跡――こんな曲を歌えるはずがなかった。
 その翔太のほうに目をやると、テーブルに視線を落して黙ってウーロン茶を飲んでいる。やはり、この子は自分と溝口のことを……そんなことを考えていると、かなりくせのある日本語が耳を打った。
「でも、俺たちの思い出の曲だった『故郷』は、ちゃんと流れたけどな」
 日系ブラジル人のヒロシだ。
「あれは、けっこう感動したな。ばあちゃんたちが歌ってた曲を、みんなで大合唱だもんな。胸にじんじんきたな」
 コウタロウが後をつづけた。
『故郷』が流れたのは会の一番最後だった。この曲をフィナーレとして、歌声喫茶の会は幕を閉じたのだ。
「ところで、お前らの料理。けっこういい味を出してたようで、よく売れてたみたいじゃねえか」
 源次が大声でいった。
 意外なことにこの二人のつくった、ブラジルの家庭料理は好評で、かなりの数の注文があった。特によく出たのが、ブラジル風の餃子ともいえる『パステウ』という料理で、ひき肉や野菜を炒めた具を小麦粉を練った薄皮で包み、油で揚げたものだった。
「すげえな、おめえらよ」
 顔をほころばせる源次に、
「俺たちは日本にくる前はワルにも染まらず、向こうで真面目にこつこつ、コック見習いをやってたから」
 本当か嘘かわからないことを、さらっとヒロシがいった。
「申しわけないですが、私たちはそろそろ。まだ、仕事がありますので」
 溝口が声をあげたのは、こんなときだ。
 会が始まって、まだ十五分ほどしか経っていなかった。
「えっ、もう帰っちゃうんですか、溝口さん」
 驚いた声をあげて立ちあがる七海に、
「明日から地方のイベント場とレコード店巡りだから、その打ちあわせもあるし」
 弁解べんかいじみたことを溝口はいった。
「でも……」
 と引き止めの言葉を出す七海に「じゃあ」と溝口は手をあげ、みんなに軽く頭を下げてからさっと背中を向けた。すぐに堀北忍がそのあとにつづく。
 溝口は苛立いらだっているように見えた。
 会が終ってから溝口は忍のCDを田園の扉の前で販売にかかったのだが、それが思うように売れなかった。だから――しかし、CDが売れなかったのは自分のせいではない。自分は少しでも溝口のためになるようにと、この歌声喫茶の会を利用して販売の場をもうけたのだ。
 もちろん、七海が今回のもよおしを開こうとしたのは溝口のためだけではない。歌声喫茶は昭和歌謡のファンだった七海の、夢ともいえるものだった。そのために、新宿にある業界の草分けともいえる店に何度も足を運んで、そのノウハウを学んだり、小さなころからやっていて、一時中断していたピアノの稽古けいこを数年前から復活させたりもした。七海は昭和歌謡が大好きだった。
 そして今回、ようやく歌声喫茶の開催にこぎつけた。それなら、新人歌手のプロデュースをしている溝口に声をかけて少しでも力になろうと考えたのだが、それが、どうやら裏目に出たようだった。喜んでもらえるはずが、苛立ちの原因をつくっただけで、七海の期待はみごとに外れた。
 七海は溝口が好きだった。
 その溝口との仲が壊れかけていた。今回の催しは溝口とりを戻す、いいチャンスのように思えたのだが、それもどうやら空回りに終ったようだ。
 七海は溝口の消えた田園の扉を、まだ見つづけている。ぼんやりと突っ立ったまま小さないきをもらしたとき、ふと誰かの視線を感じて目をそちらに向けた。
 和彦だ。和彦が心配そうな表情で七海を見ていた。そして、もう一人、源次がしんげな視線を七海に向けていた。ひょっとしたら、溝口との仲を悟られたのかもしれないと思ったが、それならそれでいいとも思った。ばちな気持が七海の胸を一瞬つつみこんだ。
 二人に目礼をして、そっと腰をおろした。


「七海さん――」
 カウンターの向こうで声がして七海は我に返り、慌てて視線を上に向ける。笑顔を浮べた翔太が立っていた。
「何だか自分の世界に入りこんでいるようで、なかなか声が、かけづらくって」
 はにかんだような表情で翔太はいった。
「あっ、この前の歌声喫茶の会のことを考えていて、それでね」
 早口でいってから、その場に立ちあがった。
「大成功でよかったですね。あんなにみんなが喜んでくれるなんて、予想以上の結果で僕も嬉しくなりました」
 本当に嬉しそうに翔太はいう。
「翔太君は、昭和歌謡が大好きだもんね」
 七海はそう口にしてから、
「私も、そうなんだけどね」
 ほんの少しみを浮べた。
「二回目が楽しみですね。というより、勝負ですね、どれだけの人がきてくれるのか。心配でもありますけど」
 妙に真剣な表情で翔太はいうが、いっていることは正論だった。一回目は御祝儀相場だったが、それが二回目ともなると。そして、そのとき溝口がきてくれるのかどうか。
 溝口には次の日の昼、ケータイに電話して礼はいっておいたが、
大盛況だいせいきょうで、おめでとう。二度目もああなるといいね」
 という言葉が返ってきて、そのあと二言三言ほど言葉をかわしただけで電話は切れた。前夜の苛立ちは消えているようだったが、素気ないといえば、そうもいえた。
「ところで今日は、翔太君は――いつものレコードあさりかな」
 胸のうちを悟られないように、ゆっくりした口調でいうと、
「はい、何か掘出し物はないかと思って、きてみたんですが」
 はっきりした調子の答えが返ってきた。
「何か、お目当てのレコードはあるの?」
 何気なく訊く七海に、
「あっ、それは特段――」
 妙に慌てた様子の言葉が口から出た。
「それよりも、小母さんは今日も留守のようですね」
 奥のほうをうかがうような素振りで、翔太は話題を変えるようにいった。
「そう、いないの。お母さんは今、オーストラリア。格安航空の飛行機に乗って五日前に出かけたわ」
 首を振りながら七海はいう。
「オーストラリアですか?」
 呆気あっけにとられたような表情の翔太に、
「ここ何年か、お母さんはあっちへ行ったりこっちへ行ったりの、貧乏旅行三昧。普段は国内が多いんだけど、今はオーストラリアの友達んところ。いったい、どこでそんな友達を見つけてくるのやら。あの人は、今も昔も謎の人」
 さらに首を振って七海はいう。
「オーストラリアの友達ですか。それはまあ、何といったらいいのか、謎の人ですね。じゃあ、僕はちょっと、奥のレコード売場をのぞかせてもらいますので」
 そういって奥に向かう翔太の背中を見ながら、七海はまた首を振る。
 母親の恵子けいこから突然、
「この店は七海にゆずるから、あなたの好きなようにやってくれる。私はこれから、気ままに生きるから」
 こういわれたのは、七海が成人式を迎えてから十日ほどがたったときだった。
 小さなころから店の手伝いをして、この業界のあれこれは大体わかってはいたものの、それにしても、このころの七海はまだ都内の短大の二年生で、就職もすでに流通関係の会社に決まっていた。
「手におえなければ、つぶしてもいいから。でも、七海ならできるような気がする。何たって、ほんの小さなころから、歌の大好きだった子なんだから、大丈夫よ」
 何が大丈夫かわからないまま、こんなやりとりが親子の間であって小泉レコード店は七海がぐことになった。話し合いではなく、一方的な母からの押しつけだったが、不思議に七海は恵子に対してさからう気はおきなかった。理由は簡単だ。自分は恵子がいったように、歌が大好きだったから、それしかなかった。
 そして、ぼくな疑問がもうひとつあった。
 なぜ、あのとき母は、もう店は閉めるからといわずに自分に継げといったのか――これも推測ではあるけれど、答えはすぐに見つかった。母自身も歌が大好きだったから。その点だけは、似たもの親子だと七海は思う。
 この日を境に、恵子は家を空ける日が多くなった。ボストンバッグをひとつ手にして、予定も告げずに日本中のあちらこちらへと旅行に出るようになった。
 もっとも恵子にいわせると、
「旅行じゃなくて、これは旅。私は旅に出かけるの」
 ということになるらしいが、その違いが七海にはよくわからない。
 十五年ほど前から小泉レコード店は昭和の中古レコードに目をつけ、その買いつけやら情報収集で恵子には日本中を飛び回っていた時期があったが、その際に知り合った人の家に恵子はどうやら転がりこんで、居候いそうろうをきめこんでいるらしい。居候先の住人が男なのか女なのかは、まったくわからなかったが。
 元々恵子はさっぱりとした裏表のない性格で筋が一本通っていて、それに反発する人間もいたが、好かれるとなると、とことん気に入られるところがあった。それに、年は取ったといっても、あの容姿である。それが大いにプラスになっているのは確かといえた。
 いずれにしても、恵子はわからない部分の多い人間だった。それは娘の七海から見ても同様で恵子は今も昔も、
「お母さんは、謎の人」
 やはり、こういうことになってしまう。
「今頃、オーストラリアで、いったい何をしてるのやら」
 独り言のようにつぶやく七海の脳裏に、そのとき何の脈略もなく、オーストラリアの大平原で、カンガルーと四つに組んで、相撲を取っている母親の姿が浮んだ。突拍子とっぴょうしもないがらだったが、あの母ならやりかねない。
 とたんにおかしくなって、七海の顔がくしゃりと崩れた。顔中が笑いになった。声を出すのを必死になってこらえた。何しろ、カンガルーと相撲を取る恵子なのだ。
「機嫌よさそうですね」
 突然、かたわらから声がかかった。
 翔太が、これも嬉しそうな顔をして立っていた。
「歌声喫茶の夜は、随分ふさぎこんでいるようで心配だったんですけど、その顔を見て安心しました。七海さんは、まだまだ大丈夫なんだって」
 ほっとしたような口調でいった。
「私は大丈夫よ。ちっとやそっとのことでは、へこたれないからね。これでも、小泉レコード店の主なんだからね」
 おどけたようにいって翔太の手元を見ると、レコードジャケットを持っている。四十五回転のドーナッツ盤だ。
「あっ、何か気に入ったものがあったんだ。いったい、何を見つけてきたの」
 手を伸ばすと、翔太はそのドーナッツ盤を七海に差し出した。ジャケットには男と女が二人印刷されている。タイトルはデザイン文字で読みづらかったが……どきっとした。ヒデとロザンナの『愛の奇跡』だ。
「翔太君は、このレコードを探しにきたの?」
 恐る恐るいた。
「はい。ぼりさんが、いい唄だって推奨すいしょうしてましたし。七海さんも、この曲をリクエストしたらと、あのときいってましたから」
 教科書を読むように、すらすらと答えた。
「あれは言葉のあやというか、成りゆきというか。ただ、それだけのことで、深い意味なんてないから」
「深い意味はなくても、七海さんの口から出た言葉であるのは確かですから。それで一度、じっくり聴いてみようと思って」
 言葉をみしめるように、ゆっくりと口にした。
「じっくり聴かなくていい。翔太君の感性には合わない歌だと思うから」
 叫ぶようにいう七海に、翔太は悲しそうな表情で首を横に振った。
「最後の詩がよくないわ……別れても私は信じたい、いつの日か、あなたに愛される、愛の奇跡なんて嘘ばっかり。そんなこと、あるはずないから」
 口にしながら七海は、この詩は自分のことを歌っていると思った。そして翔太にしたら、この詩は……。
「一度壊れてしまったら、愛なんて、もう二度と戻らない、もう二度と」
 かすれた声でいうと、
「別れたほうがいいと思います」
 ぽつりと翔太はいった。
 最初は何をいわれたかわからなかったが、やがて、それが自分と溝口のことをいっているのだと気がついた。
「翔太君は、あの人のことを……」
 翔太の顔を正面から見ると、翔太もまともに見返してきた。
「知っています。盆踊りの夜、七海さんとあの男がっているのを見ました。駅裏の横町で……」
 ああっと七海の口から吐息がもれた。
 やはりこの子は知っていたのだ。あのれ場を、この子は自分の目で見ていたのだ。やはり、そうなのだ。七海は翔太の顔から視線をさっとそらした。
「あの、溝口さんという人には、奥さんや子供がいるんじゃないですか。そんな人とつきあっていても不幸になるだけで、得るものは何もありません。だから――」
 声を荒げて翔太はいい、
「だから、あの人とは別れてください」
 今度は泣き出しそうな声でいった。
「奥さんや子供があっても、得られるものはちゃんとあるわ」
 七海の目が再び翔太の顔を見た。
「いったい、何が得られるっていうんですか、あの人から」
「それは……」
 七海は言葉につまった。すぐに出てくると思った言葉が出てこなかった。いや、出せなかった。何か他の言葉をと探してみたが何も見つからなかった。
「残念ですけど、あの人に、愛はありません」
 七海の心を見透かしたような言葉を翔太は出した。
 あの人に愛はない。そんなことは最初からわかっていた。わかっていて、私は溝口と逢っていたはずだった。私のほうに愛があれば、それで充分だと。いや違う。その自分の愛がいつか溝口を――。
「あの人に愛がなくても、私のほうには充分すぎるほどの愛があるわ。私はそれでいいと思っているから」
 低い声でいった。
「一方的な愛なんか、愛とはいいません。それは狂信きょうしん妄信もうしんたぐいで、そこから得るものは何もありません。七海さんは、あの人にだまされてるんです」
 翔太の顔がゆがんだ。
「騙されてたって、心地いい愛はあるわ。翔太君はまだ子供だから、それがわからないだけ。もう少し大人になればわかるわ。世の中には負の愛だってあることが」
 七海が叫んだ。
「負の愛なんて、そんなこと……」
 翔太の両肩がすとんと落ちた。
「ごめん、翔太君。今日はもう、何もいわずに帰って。お願いだから、今日はもう」
 哀願あいがんするようにいった。
「七海さんが、そういうのなら」
 翔太はぼそっとした声を出し、うなだれたまま七海に背中を向けた。
「私はまだ、あの人のことをかばっている」
 そう思った。とたんに、涙が両目にあふれた。七海は声を殺して泣いた。途方もないさみしさが体中をおおっていた。                        (つづく)