第二章 否認〈承前〉
慶太郎は麻那に希望を持たせたかった。
「先生、事件性があると分かって、警察が動かないことはありません。私もそれを信じている。それに今日は、本宮先生という由那さんのご友人にも会えた。私としては収穫です。今後も協力をお願いします」
垣内が慶太郎に会釈して、
「そうだ、名田さんにお願いがあるんですよ」
と正太のほうを向いて言った。
「なんでしょう?」
名田は垣内の顔を見て、せわしなく耳たぶを引っ張る。話の内容に興味がないか、あまり聞きたくない話であるときに見られるしぐさだ。
「再度、この部屋のマスターキーの管理について調べたいんです。管理人さんは隣にお住まいですね。その後、事務所に伺って、店長さんにもお話を」
「いまから、ですか」
「ええ、私には時間がないんでね。手間はとらせません」
「うちの人間を疑ってるってことですか」
体型通り、正太は大きな声を出した。
「とんでもない。ただ原点に戻って洗い直そうと思っているだけですよ、名田さん」
疑問を放置しては必ず後悔します、と垣内が自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
慶太郎はその言葉を耳にして、垣内の捜査の継続に強い意欲を感じた。同時に、不安な気持ちも抱く。
マスターキーが使える人間が犯人だとして、確実に死ぬかどうか分からない毒を使用したのでは密室にする意味がないからだ。
毒物を飲んだ由那が、ただ気分が悪くなる程度で回復すれば、たちまち誰の犯行だったのかバレてしまう。事実、由那は彼岸花の毒で死んだのではなく、アナフィラキシーショックによる窒息だった。
こんな情況を明日までに打開できるとは思えなかった。時間がなさ過ぎる。
「あの刑事さん、疑うんやったら小倉さんを追い回してた男が先だと思いますよ」
正太が、さらに大きな声を張り上げた。
「ストーカーをしていた男性でしょう?」
尾藤のことを垣内は知っていた。
「ご存じでしたら、そいつを何とかしてください。うちの店の人間を疑う前に」
「ある証言を元に、マークはしてます」
マークしている──? 尾藤がクリニックを受診したことも警察は知っているということなのか。垣内は知らないふりをしたことになるのか。
「電機メーカーに勤めてるって言うじゃないですか。鍵の小細工かて得意と違いますか」
正太はドア付近を見た。
「技術系ではないので、それは何とも言えません。しかしきちんと視野に入れてます。こうしている時間がもったいない。名田さんに立ち会ってもらったほうがスムーズにいくと思っただけで、同行してもらわなくても調べは進められます。では、大槻さん、先生、私はこれで失礼します」
と素早く立ち上がって、垣内は玄関へ向かう。
「分かりました。一緒に行きますよ」
ふてくされたように正太は言い、体を揺すって後を追う。
「ご協力、感謝します」
と、垣内は正太と共に部屋を出て行った。
名田の巨体の重圧、それとも垣内の職業柄醸し出す威圧感が消え去ったせいなのか、急に秋の風が窓から入り、ドアへと通り抜けていった気がした。
廊下のほうで正太が何やら言っている声がしていたが、内容までは分からない。
麻那は卓袱台の前に座り直し、カーディガンの袖を合わせてこすりながら、
「なんか、怖くなってきました」
とつぶやいた。
「怖い?」
「私、由那が自殺するはずないと思っていました。大人しい子ですが、芯はしっかりしてて、安易に逃げ出すようなことはせえへんと。けど、自殺やないということは犯人がいて、ここで由那を殺したんやと思たら……」
「そうですね、ここが現場なんだ」
慶太郎は卓袱台の前に正座し、
「正直にいいます、聞いてください。亡くなった日に由那さんが手を振るのを見た人の話を聞いたときは、思い込みか勘違いではないかと思いました。ですが、いまは犯人が存在すると確信しています。そうなると私は無性に憤りを感じるんです。その目撃者も精神的にダメージを負っているし、お姉さんの喪失感も計り知れない。犯人の愚行が、由那さんの尊い命を奪い、多くの人の心まで傷つけていることが許せない。この犯人を野放しにはできません」
と、言った。
「先生、ありがとうございます。心強いです」
「……なんとか犯人逮捕の役に立ちたい」
慶太郎は、そこに出したままになっている由那のノートを手に取り、スナフキンの言葉が記してあるページを開く。
同じ言葉をメモした紙を、エプロンに忍ばせていた。何か意味があるはずだ。
「ムーミンの絵本どれやろ」
そう言いながら、麻那が書棚に近づいた。彼女はこのスナフキンの言葉が載っている本を探しているようだ。ざっと見渡して、
「ここにはないです」
と慶太郎を見た。
慶太郎も書棚を確認したが、ムーミン関係の書籍だけでなく、スナフキンの言葉が載っていそうな本も見当たらなかった。
「気に入った台詞だから、覚えていたんでしょう」
「こんな細かく覚えてるもんでしょうか」
麻那は、妹はどちらかと言えば記憶系の科目が苦手だったと言った。
「好きなものは、また違うものですよ。好き嫌いで動くのが脳なんです」
この言葉に一言一句間違いがなければ、そうとうお気に入りの台詞だったことになる。
慶太郎は机のブックエンドにあった八冊の大学ノートをすべて確かめてみた。
「毎日書いているんじゃないんで、日付を見るとこれで約三年分になりますね」
いつの間にか隣にいた麻那に言った。
ざっと見た感じでは、スナフキンの言葉も、ムーミンに関する文言もなかった。
「ハッピーショッピーで働き始めたのが、そんなものです。今年で三年」
「それまでは?」
「大阪で就職して、一度転職したのは知ってますが、後は……」仕事に関しては言いたがらなかったそうだ。
「ハッピーショッピーで働くことは、聞いていたんですね」
「ここに引っ越すのに、保証人が必要だったんです」
「押し入れの中にノート類はなかったですか」
「ありませんでした」
「なら、これだけか」
計九冊のノートに目を落とした。
由那は何かあったら書き留めるのが習慣になっていたと思われる。それを一旦中断していたのか、それとも引っ越しの際に捨ててしまったのか。
いずれにしても人の習慣は、簡単にやめられないものだ。そこには必ず何か理由がある。
カウンセリングでは、クライアントの情報が増えれば増えるほど、問題点が見えてくる。むろんすべてが分かることはないけれど、病巣の輪郭くらいはつかめてくる。
まだまだ由那に関する情報が足りない。
「もっと連絡を取り合っていたらよかったんですけど……」
「違う土地で暮らしているんです。家族といえどもおのずと限界があるもんなんですよ。それより親しい友人はご存じないですか」
「それなら幼稚園から高校までずっと一緒だった福井友紀子ちゃん、いまは結婚して白波瀬さんです」
「白波瀬さんは綾部にいらっしゃるんですか」
「いえ、旦那さんの仕事の関係で、山梨県の石和のほうに住んだはります。お葬式には都合で行けなかったとお線香を送ってきてくれました」
添えられていた手紙には、由那の死を受け入れられない気持ちが綴られていたそうだ。その礼を電話でしたとき、直接お線香を上げにいきたいと思ってはいるが、そちらに向かおうとすると胸が苦しくなって動けなくなると言ったそうだ。
「拒否反応を起こしてるんです。由那さんが亡くなった事実を自分の目で確認したくない、という状態です」
動悸が速くなり胸に痛みが走るようになって、生活に支障が出てくれば、治療が必要だ。
「一緒に大きくなったという感じです。友紀子ちゃんにやったらいろんなことを話してたかもしれません」
「山梨、か。まずは電話で話を聞きましょう」
慶太郎は、自分のことを友紀子に話してくれるよう麻那に頼んだ。
「怪しい者ではないことを示すために、このノートを手にしている写真を白波瀬さんに写メしてもらえますか。こんな顔でも、分かったほうが安心感があるでしょう」
と微笑んでみせた。
由那の文字が見えるよう、ノートを持った慶太郎を、麻那は携帯電話で撮った。
5
「どういうことなんや、正太」
刑事が帰っていった後、親父にしては珍しく大声を出した。
三人の女性事務員と母親が一斉に顔を上げ、親父のデスクの前に立っている正太を見た。それは、まるで先生に叱責されるクラスメートを見るような目だった。
「どうもこうも、あの刑事が言うた通りです」
垣内はアパートの鍵の管理について、しつこく訊いた。アパートの別棟に住んでいる管理人がマスターキーを保管しているが、キーボックスの構造や位置など、その管理の甘さに対して厳重に注意を受けたのだった。
「岡本さんの声、震えてたで」
親父は今年八十一歳になるアパートの管理を任せている男性の名を出した。岡本は、ハッピーショッピー立ち上げ当時に協力してくれた農家だと聞かされている。息子や娘はみんな彼の元を離れ、農家を継ぐ者もおらず、妻にも先立たれた寂しい独居老人だ。親父はこういう人を放っておけない質なのだ。それが経営を圧迫しているのも知らず。いや分かっているはずで、見て見ぬふりを決め込んでいるのだろう。
「何もあの刑事だって、岡本さんなんか疑ってません。ただ、鍵の管理がずさんやったんやからしょうがないでしょう」
「刑事を連れてくる前に、知らせてほしかったな」
「僕も連絡できるもんやったらしてますよ。ほんまに急やったんです」
「小倉さんは自殺やったんと違うのか」
「警察はそない思てます。けどあの刑事だけが疑問を持ってるみたいで」
そう言ってから、親父に顔を近づけ、
「うちの店と関係がない犯人やったら、そのほうが都合ええんや」
と家でしゃべる口調で説明した。
「外部の人間に決まってるやろ」
親父も声をひそめた。
「店にマイナスなんは、店内でのトラブルで自殺したということになったときや。これまでみんなへの聞き取り調査では、そんな心配ないんやさかい」
「まあええ。岡本さんにあんじょう説明してあげてくれ。頼むわ」
「分かりました」
正太は大きく息を吐き、事務所から出た。
親父の言いなりになるのももう少しの辛抱だ。熊井産業との事業が動き出せば、この店は代表者も含めてすべて変わる。
真理子が期限切れ食材と惣菜の残り物、さらにフードコートの廃棄食材の中から、セロリとほうれん草、ニンジンをふんだんに使った鰯のつみれをつくった。これを「脳活惣菜」としてフクスケホールディングスに提案していたのだが、食感も味も、ネーミングもいいということで、商品化への色よい返事があった、とついいましがた熊井から連絡がきた。受験生の夜食にも、高齢者の認知症対策としてのシリーズ化も検討されているという。
あまりの嬉しさに顔がほころび、目の前にいた垣内に変に思われないようにするのに苦労した。親父に呼び止められなければ、一目散に真理子に知らせてやりたかった。
検品しながら店内を通って、惣菜部の前までやってきた。
丁寧に頭を下げてきた新しい若いアルバイトに真理子を呼んでほしいと告げると、慌てて調理場に飛んでいった。由那のやっていた仕事は新人二人が分担していた。それでも真理子の片腕には到底なり得ず、残業費が嵩んでいる。
もっと気にかけておくべきだった。
真理子が調理帽と手袋をしたまま、厨房から出てきた。
「すまんな、忙しいときに」
と目配せすると、バックヤードからいつもの駐車場の喫煙場所に出た。
「つみれ、どうでした?」
真理子が眉を寄せ、息を飲んだのが分かった。
「平岡さん、もうサワさんの立派な後継者やな」
「ということは?」
真理子が調理帽を脱ぐと、しまい込んであった髪が頬へと落ちた。シャンプーと除菌液の香りが混ざって、鼻に届く。知り合いのキャバ嬢とはまったく違う香りに、なぜか安堵感を覚えた。
「そうや、もうじき商品化されそうなところまできてる。熊井さんも、フクスケホールディングスも大いに気に入ってる。それだけやない」
「なんですか」
細い目をこれ以上は無理というほど真理子は開いて、正太をじっと見た。彼女は薄い口紅以外化粧をしていない。調理のこと、惣菜のことしか頭にないようだ。
しかしブランド化に成功すれば、平岡の平凡な顔立ちがかえって味で勝負している凄みに変わる、と熊井は言っていた。
そう思って彼女を見ると、親しみやすい美人に見えてくるから不思議だ。
四つ年上のバツイチ、三人の子持ち。親父もお袋も、反対するだろう──。
「じらさないでください、名田さん」
「すまん、すまん。脳活っちゅうネーミングがよかったようで、シリーズ化も検討してるらしいんや」
「本当ですか……」
「野球でいうたらクリーンヒットや」
「そう、ですか、ヒットですか」
真理子がさっと後ろを向いた。
感極まったようだ。
「もうひと頑張りやで。とにかく平岡さん、あんたにすべてがかかってる」
「名田さん、私、頑張ります」
「小倉さんがいなくなったけど、いけるか」
「ひとりなんで、時間が……」
熊井のプラントで行う調理は、ハッピーショッピーでの仕事を終えてからとなるため、由那がいなくなって以降、帰宅は朝方になっていた。送り迎えは、熊井産業の若い社員がしてくれている。
「そやろな。けどにわか調理人ではどうもならんし。お子さんのほうは大丈夫か」
「高一の娘が、気張ってお兄ちゃんと弟の面倒みてくれてますんで」
娘が料理に目覚めたみたいで、結構味もいいのだと微笑む真理子の顔が、みるみるうちに母になる。
「お兄ちゃんは確か受験生やな」
「そうですけど、ちゃんと勉強してるんかどうか」
経済的なことを考えれば国公立に入ってもらわないと、と真理子が真顔になった。
「辛抱や、もうちょっとだけ。お嬢ちゃんも弟くんもみんな大学に行かせられるようになるさかい」
「名田さん、ありがとうございます」
「いまあんたに倒れられたらどんならんさかいな。新人はともかく、レギュラーの四人の中からあんたの助手になるもんおらんか」
真理子は考える間もなく、首を振った。
「ほな、これはどうや。……僕のことちょっと知ってるやろ、お兄ちゃんは」
「真一は、よう知ってます。中学生の頃相撲とってもろたこともありますし」
「四年前や。親睦会で久美浜のキャンプ場へ行ったときにな」
これを最後に親睦会は行っていない。如実に経営が悪化していたからだ。そもそも赤字に転じたのは七年前だった。日用雑貨がまったくといっていいほど売れなくなった。次いで豆腐や卵、牛乳など「日配」と呼ばれる生鮮品が動かなくなり、鮮魚、青果、精肉は日和見で売り上げのばらつきが大きくなっていく。百円ショップや大手スーパーの値引き競争に勝てるはずもないから、惣菜で勝負をかけるべきだと何度も親父に進言した。
「地域の人に頼られるよろず屋がモットーなんや」
と、親父は惣菜以外の売り場を縮小することに反対した。
従業員の親睦会もどんどんやって、働くみんながハッピーになる会社、それを自分の手で実現する。
「また、行けるようにする」
「えっ」
「親睦会の話や。あのとき結構、力があった。いや、もう一回相撲とろうという話と違うて、僕が勉強みたろか、と思て」
「名田さんが?」
「東京六大学や。受験してから二〇年も経ってるさかい、だいぶん忘れてるけど教科書見たら思い出すやろ」
「立教出たはることは知ってます。そんなこと心配してるんやありません。お店以外でお手を煩わせるなんて、とんでもないです」
真理子が調理手袋の手を激しく振ると、カサカサと鳴った。
「僕はかまへんねん。真一くんに訊いてみてくれるか。こんなおっちゃんでもよかったら、ちょっとくらい役に立つよって。それくらいさせてもらう、事業を成功させなあかんのやから」
「はあ……ありがとうございます。ええ料理つくって、期待にそえるよう頑張ります。私、料理が生きがいやから」
「真剣に訊いといてや、真一くんに」
そう念を押して、正太はバックヤードへと入った。これ以上は照れくさく、真理子の顔を見ていられなかった。
正太はまた警備員室に三郎を訪ねた。ストーカーの尾藤の情報を得るためだ。
「アパートにも現れたと言ってたけど、岡本さんの家のほうには行ってへんかったか」
尾藤が管理人の家を探り当て、そこにマスターキーがあることを知っていたとすれば、彼の犯行の確率は高くなる。
ストーカー行為の末、殺害したとなれば、店の評判を落とすことはない。
アパートの鍵をピッキングしにくいタイプに交換しておいてよかった。セキュリティに神経を使っていても防げなかった事件だと印象づけられる。
「岡本さんとこですか……あそこが管理人の家だと分かりますか」
思案しながら、三郎が言った。
「例えば、さぶちゃんが岡本さんになんかのメンテナンスを頼んだりとか、小倉さん本人が岡本さんちを訪ねたところを見てたってことも考えられるやろ?」
「なるほど、それはあり得ます。あのおっさん、ようアパートの周りに出没してたみたいやから。訊いてみたんですよ、あいつのこと」
三郎は、正太と話してから尾藤がますます怪しいと思えてきて、アパートの他の住人から話を訊いて回ったのだそうだ。気の弱そうな細身の男だと言うと、だいたいの人が自転車に乗った男ではないか、と思い出してくれたと言った。
「岡本さん、アパートの廊下とか階段の掃除してくれてるから、少なくともそれ見たらアパートの関係者やとすぐ分かるな」
と言いながら、正太は目に付いた椅子に座った。
「それが分かったら何か不味いことでもあるんですか」
デスクの前は二人並ぶと窮屈で、三郎が正面からはずれスペースを空けてくれた。
「刑事がきて、マスターキーの管理がずさんやと言いよった」
「警察もあいつが犯人やと思ってるんですね」
三郎が張りのある声で言った。
「それがどうもはっきりせん」
正太は、垣内刑事の話を三郎にした。
「何か証拠がないと、自殺で終わるってことか」
三郎はつぶやき、
「密室だったから自殺だと判断したんなら、誰かがマスターキーを使ったことが分かれば、自殺じゃなかったってことになりますよね」
と訊いてきた。
「なんや刑事みたいなこと言うなぁ。でもその通りや。もしストーカーがマスターキーの在りかを知ってたとしたら、さぶちゃんもそいつが犯人やと思うやろ?」
「決まりじゃないですか」
「刑事がな、岡本さんにその日のことを訊いたら、いつものように時代劇に夢中やったと言うた」
午後三時くらいから、時代劇専門チャンネルを観ていた。六時になって、うちの店で昼間買っておいた日替わり弁当と、いつものように日本酒を二合飲んだ。そのまま七時にニュース、その後はまた時代劇を楽しむのが彼の日課だった。
四時の仕込みにこなかったのだから、由那はそのときもう死んでいたとすると、マスターキーを持ち出したのは岡本がテレビを観ている最中だと考えられる。
キーボックスは、テレビのある居間に続く、玄関の上がり口の柱に設置してあった。ただテレビを観ていると背中を向けた格好になり、岡本に気づかれずボックスに近づくことは可能だ。やや耳が遠くなった岡本は大音量でテレビを観るため、呼び鈴さえ聞こえないことがある。
キーボックスはアルミ製で、それ自体に鍵は付いていない。横並びの突起にひっかけられているキーは、六部屋分と物置のものの計七本。左から二本は空き部屋で、三本目が三郎、四本目が由那の部屋のものだった。
「それがな、岡本さんが、こう言うた。自分が持ち出すまで、誰もマスターキーには触れてないって」
「それは自分が気づかなかったことを隠してるんですよ。ミスを認めたくないから」
「そう思って、何度も確かめた」
岡本は震えながら、絶対に誰もキーに触れてないと垣内刑事に言い張った。
「刑事が根負けしてしもた。最後は鍵の管理を強化するようにってことで収まったんや」
「岡本さんが、そこまで言うのには何か根拠があるんでしょうね」
三郎は怒ったような顔で言った。
「キーに付けた紐なんやけど、フックにかけるときヒバリ結びにするそうなんや」
「なんですか、それ」
「牛の鼻輪みたいな結び目や。さぶちゃんのケイタイ見てみぃ。ストラップを付けるときやってる結び方や」
「スマホなんで、ストラップは付けないです」
「思い出せ、ガラケー時代にけっこう苦労して付けたやろ」
「へえ、あれ、ヒバリ結びっていうんですか。知らなかった。でもそれが?」
「フックからそれを引き抜いたら、紐はほどける。さっと引き抜けるさかい、そんな結び方されてたなんて、誰も気がつかへんって言うんや」
事件の当日、親父から連絡を受けてマスターキーを手にしたとき、ちゃんと自分が結んだようになっていた。いや、いままで一度も違う結び方になっていたことはない、と岡本は主張したのだった。 〈つづく〉