七海の場合・上

 時計に目を走らせると五時少し前。
 あと一時間余りで、週に一度の歌声喫茶うたごえきっさの始まりだ。七海ななみは軽く下腹したばらに力を入れ、店のなかをゆっくりと見回す。
 店に備えつけの椅子だけでは、既定の人数が確保できないため、丸椅子を二十脚ほど用意して空いている空間に配置した。これで収容人数は五十人ほどに増え、赤字を出すことは避けられることになるのだが、これも客の入りによっては……。
「いよいよですね、七海さん」 
 となりから声がかかり、顔を向けるとはにかんだような顔をしたしょうが立っていた。
「あっ、おかげさまで。今回は翔太君を初め、商店街の推進委員会の人たちにはお世話になりっぱなしで、本当にありがとう」
 七海は翔太に向かって頭を下げる。
「いえ、僕なんか。精々せいぜいツイッターなんかを使った宣伝と、ビラづくりをやったぐらいですから。そんなに頭を下げられると」
 照れたようにいう翔太の目の奥に熱いものがあるのを、七海は感じとっていた。
 あのせいだ。
 あの翔太とのキス。
 いくら死にたいぐらい寂しかったからといって、あれはやってはいけないことだった。翔太が自分に好意を寄せているということは前から知っていた。自分はその翔太の思いを利用した。まだ高校生のあの子に。
 だが、あのときは――しかし、どんな理由があるにしろ、あれは決して許されることではない。あの後、とっさの判断で、あれはなかったことにしてしまい、二人の間ではあの件に関する会話は、これまで一切出さないようにしてきたが。
「そのつくったビラを、翔太君は何百枚もこの界隈かいわいの人たちや道行く人に一枚一枚、配ってくれたんじゃない。簡単にできることじゃないってことは、よくわかってる。本当に感謝してるわ」
 七海はまた頭を下げる。
「僕だけじゃなく、ぼりさんや川辺かわべさんたちもビラ配りには奔走ほんそうしてくれました」
「そうね。本当に、みんなにはお世話になってしまって。この場を快く提供してくれた、『田園』のマスターの洞口ほらぐちさんには足を向けて寝られないし、源次げんじさんは──」
 といって七海はちらっとちゅうぼうのなかに視線を移す。
 厨房のなかにいる人間は三人。一人は洞口で、あとの二人は日本人との混血こんけつっぽい外国人である。しんみょうな顔をして突っ立って、こっちを見ている。
「あの二人は料理が得意だっていうことで、源次さんが了解して厨房に――」
 という翔太の言葉に、
「この連中は俺の子分だから、何でもいいからこき使ってやってくれといって、五人のブラジル人を連れてきて。そうしたら、料理のほうも任せてくれっていう要望が二人から出てきて」
 ちょっとまどいぎみに七海はいう。
 そう、厨房のなかにいるのは、以前アメリカの海兵隊員に喧嘩けんかを売られて源次に助けられた五人のうちの、ヒロシとコウタロウで、あとのヨシオ、ヒトシ、ツネフミは裏方に回されていた。つまり、今回のもよおしのメニューにはブラジル料理もあるということで、普通の料理の担当は洞口である。
「本当に、あの二人のブラジルの若者は料理が得意なのかどうなのか。そこのところがイマイチわからなくて、少し心配してるのは確かだけどね」
 本音をぽつりという。
「あっ、それは僕にもちょっと……」
 困ったような顔をする翔太に、
「でも、力仕事はみんな、あの人たちがやってくれたから感謝しないと。うちのレコード店から音響機器のたぐいや電子ピアノなど、いろんな重い物を全部運んでくれてセッティングもしてくれたし……でも、料理の腕のほうは……」
 なおも七海が心配げな口調でいうと、かたわらから声がかかった。
「七海ちゃんの心配も分かるけどよ。本人たちが腕に自信があるって自分からいってんだから、ある程度は信用してやらねえとな。なあに、傍らにはしゅうちゃんもいるんだから何とかなるだろうよ」
 源次である。隣には小堀と川辺、それに桐子きりこも立っている。
「あっ、そうですね。手伝ってくれる人を疑ったりしたらですね。信頼して任せておくのがいちばんですね」
 慌てて七海がいうと、源次が厨房に近づいてダミ声をあげた。
「おめえらよ。へたな料理なんぞ出したら金縛りの術で、一生そこのガスコンロから離れられなくしてやるから覚悟しとけよ」
 とたんに二人の背筋がぴんと伸びた。
「はいっ――でも、俺たち名コック・ ・ ・ ・だから、多分大丈夫」
 おろおろ声でいった。
「頼んだぞ、修ちゃん」と源次が洞口にも声をかけて戻ってくると、
「あの、金縛りの術って……それに源次さんと、あのブラジルの若い人たちとはどういう関係なんですか」
 七海はげんな表情を浮べる。
 当の五人の若者たちにいても、
「源次さんは、俺たちの先生です」
 というだけで、あとは何も話してくれない状況になっていて七海には何がどうなっているのか、さっぱり見当もつかない。
「簡単にいえば、わしはあいつらの命の恩人というところじゃな。祖父様直伝の、古武術でちょこちょこっとな。金縛りというのもその類じゃから、何の心配もないな」
 訳のわからない答えに「はあっ」としか七海にはいいようがない。
「いずれにしても、厨房のほうは何とでもなるはずだから心配はいらないと思うよ。それよりも、司会をしてくれる溝口みぞぐちさんという人が、まだ顔を見せてないけど、そっちのほうは」
 和彦かずひこが心配そうな口振りでいった。
「そうそう。ピアノをくのが七海ちゃんで、司会は大手レコード会社に勤めていて、こういうことには慣れている溝口という人とは聞いてましたが、私たちはまだ一度も会ったこともありませんし」
 川辺の目が壁にかかっている時計を見る。時間は五時半になろうとしていた。
「それは、さっきケータイに電話があって、少し遅れるとのことでした。打合せはすでにすんでますから、ギリギリに顔を見せても大丈夫ですので」
 ケータイからの話では、別の仕事の打合せが長引いているため少し遅れるかもしれないとのことだったが、溝口は全体的にのんびりした性格の持主で、あくせくしない人間でもあった。
「新人歌手も一人連れてきて途中で、その人の紹介と歌もあるんでしょ。いったい、どんな人を連れてくるんだろ。ちょっと楽しみだよね」
 桐子の言葉に、
「桐ちゃん、それは期待しないほうが――溝口さんの担当は、ほとんどが若い人に縁のない演歌の人だから」
 申しわけなさそうに七海はいう。
「会の進行の要点は、飲み物や料理を頼んでくれたお客さんに歌詞見本とリクエストカードを渡し、そのなかから司会の溝口さんという人が曲を選んで、みんなで七海さんのピアノに合せて歌うということでしたよね」
 念を押すように翔太が口にする。
「そう。飲んで食べて歌うというのが、昭和の歌声喫茶のだいだから。みんなでというところが、カラオケとはいちばん違うところで、そのために知らない人との一体感というか仲間意識というか、そういったものが段々芽生えてきて――」
 歌うようにいう七海に、和彦がすぐに口を開く。
「孤独さは解消されるかもしれないな。都会のなかの、独りぼっち感は。昭和の日本人はシャイな人間が多かったから、それでいやされる若者も沢山いたんだろうなあ――というか、ちょうど俺たちの年代が、いちばんその恩恵おんけいにあずかったんだろうけど」
「和ちゃんも、その恩恵にあずかった口なのか」
 ずけずけと訊く桐子に、
「数回、新宿の歌声喫茶に行ったことがあるな。しかし、みんなで歌うということがなかなか。エイヤッの気持で大声を出してしまえば何とでもなるんだろうけど、そのエイヤッがなかなかなあ」
 昔を思い出すように、しみじみした口調で和彦はいう。
「私はすぐに溶けこみましたよ。時には隣の人と肩をくみながら歌ったことも。それが若い女性で美人だったりすると、すごく得をした気持になったりしましたね」
 嬉しそうに、ただでさえ垂れぎみの目尻をさらに下げる川辺に、
「お前は昔から調子だけはよかったからよ。だから、癒しというよりは肩をくむのが目的で通ってたんじゃねえのか」
 茶化ちゃかすように源次がいった。
「そういう源ジイは、どうだったんですか。けっこう通ってたんじゃないですか。隣に座る若い子を目当てに」
いえ。わしは修行のさまたげになるようなおんぎょくの類は、一切シャットアウトしてたわい。だから、そういう場所へは一度も足を踏みいれたことはねえよ」
 源次はぼそっといってから、口をへの字に曲げた。
「ところで、みなさんの思い出になっているような曲というのは何ですか。よかったら教えてくれますか」
 興味深そうな口調で七海はいった。
「私は、そうですね……『希望』という曲ですね。ちょっと暗いですけどね」
 しんみりした口調で川辺がいった。
「フォー・セインツというグループも歌っていますが、ヒットしたのは岸洋子さんの唄ですね。確かこのとき岸さんはお祖母さんを亡くした直後で、その悲しみから三番の歌詞にめず、作詞家の藤田敏雄先生に詞を直してもらって歌っているはずです。胸にしみる、いい唄です。私も大好きです」
 昭和歌謡の専門家らしいことを七海はいった。
「俺は何だろう」
 和彦が天井を見上げて何かを考える素振りを見せた。
「やっぱり、あれだ。ヒデとロザンナの『愛の奇跡』だな。あの二番の歌詞が俺は大好きでな、胸にジーンとひびくというか、じょうけいがすぐに浮んでくるというか」
 少年のような表情を見せる和彦の顔を見て、七海がふいに歌を口ずさみ出した。


 たそがれを
 ひとり歩く君の
 横顔が
 とても好きだった
 別れても 私は信じたい
 いつの日か あなたに
 愛される
 愛の奇※1……


 愛の奇跡の一節だった。
「そう、そこだよ。その横顔云々のくだりが妙に胸を打ってね」
 高い声でいう和彦に、
「その、小堀のおじさんの胸のなかにある、横顔の主って誰なんですか。よかったら教えてくれますか」
 はっきりした口調で七海はいった。
 真直ぐ和彦の顔を見た。
「それは……」
 和彦がいいよどんでいると、突然厨房のなかから叫び声が飛んだ。
「俺たちの思い出の一曲は『故郷』だよ――うさぎ追いし、かの山だよ」
 日系ブラジル人のヒロシだった。
「そうだよ。じいちゃんや、ばあちゃんがよく歌っていた曲だよ。それこそ耳にタコができるぐらいに」
 これはコウタロウだ。
 何だか泣き出しそうな声に聞こえた。
 辺りが一瞬静かになり、それを打ち破って七海が声をあげた。
「歌おうよ。あとで絶対に歌おう。みんなで力一杯声を張りあげて歌おうよ」
 これも叫ぶような声だった。
 二人のブラジル人の口から歓声があがった。
 周囲から拍手が湧きおこった。
 すでに客が入りかけているのだ。
 席に腰をおろしている者もいる。
「七海さん。溝口さんって人、本当にきてくれるんですよね」
 切羽せっぱつまった声を翔太があげた。
「のんびりした人だけど、約束はきちんと守る人だから――それより、まず、お客さんの対応をしないと。みなさん、お願いします」
 七海の声に推進委員会の面々が客席に散った。客から注文を取って飲み物と料理を運び、出されたリクエストカードをまとめるのは強面の源次を除いた、推進委員会の四人の仕事なのだ。
 店のなかにざわめきが走り、ホールと厨房は大忙しになった。開演まであと十五分だった。今のところ客の入りは六分、このまま順調に増えつづけてくれれば。
 七海は大きく深呼吸して、店の奥にある電子ピアノの前にそっと座った。ピアノの脇にはマイクロフォンが立っていて、ここで溝口が司会をし、リクエストカードにそって、マイクの前で声をあげたい客にはリーダーとなってここで歌ってもらうはずだった。


 開演十分前。
 溝口はまだこない。
 さすがに七海の心も不安になる。
 もし溝口が遅れるようなことになれば、いったい誰が司会をやればいいのか。推進委員会の年寄りたちには無理だ。素人に歌声喫茶の司会はつとまらない。七海はピアノを弾かなければならないから、むろん無理。そうなると……。
 翔太という名前が七海の胸に浮んだ。
 あの子なら並の歌好きよりも昭和歌謡には詳しいし、それよりも何よりも、ずば抜けた頭脳の持主だ。会の流れやシステムはこれまでの打合せでわかっているはずだった。何とかしてくれるはずだった。しかし、また私はあの子を利用しようとしている。さっき反省したばかりの私が、しょうりもなく、またあの子に。しかし、それしか方法が……。
 開演五分前になった。
 七海は心配そうな表情で店内を動きまわる翔太を手招きして、ピアノ脇に呼んだ。
「もし、溝口さんが遅れるようなことになったら、悪いけど翔太君、司会をしてくれる。このなかで頼めるのは翔太君しかいないから。お願い」
 手を合せた。
「いいですよ。僕で役に立つなら、どんなことでもしますよ。七海さんの夢だった、この歌声喫茶の企画をつぶすわけにはいきませんから、絶対に」
 即座に答えが返ってきた。
 何の迷いもない、力強い口調だった。
 溝口が若い女性を連れて姿を現したのは、その直後だった。
 新人歌手らしき若い女性を入口に残したまま、溝口はすぐにピアノ脇に飛んできた。
「ごめん、七海ちゃん。遅くなっちゃったけど、すぐにかかるから。時間通りに、ちゃんと会は進めるから」
 謝りながらも自信満々の表情でいった。
「助かったわ。溝口さんが遅くなる場合を考えて、この翔太君に代役を今頼んでいたところ。でも、間にあってよかった」
 と、ほっとした思いで翔太の顔を見ると変だった。
 顔色があおざめていた。
 表情もけわしくなっている。
 七海の胸がざわっと騒いだ。
 ひょっとしたら、この子は溝口と自分の関係を知っているのでは。どこかで決定的な場面を見ているのでは。もしかしたら、あの盆踊りの夜……。
 しかし、今はそんなことにかまってはいられない。とにかく、この歌声喫茶を成功させなければならないのだ。考えるのはそのあとだ。この子には悪いけど、ここは目をつぶってもらうしか仕方がない。七海は腹をくくった。
「翔太君、ごめん。溝口さん、間にあったから、司会の件はなしということで。本当にごめん。埋め合せは何かでするから」
 七海はまた、翔太に向かって手を合せた。
 同時に溝口も翔太に向かって頭を下げた。
 息の合いすぎる動きだった。
「わかりました」
 低い声で翔太はいった。
 泣き出しそうな目で七海を見た。
 直視できなかった。
「翔太君は、何か気にいった昭和歌謡とか、そんなリクエストはないの」
 こんな言葉が口から出た。
「別に、ありません」
 ぽつりといった。
 昭和歌謡が大好きな翔太に、気にいった歌がないはずがなかった。
「あっ、あれはどう。小堀のおじさんがいっていた――」
 思いもよらない言葉が口から飛び出して、七海は自分でも驚いた。なぜこんなことを自分は……。
「愛の奇跡ですか……たそがれを一人歩く君の、横顔が、とても好きだった、ですか」
 抑揚よくようのない声でいった。
 七海に返す言葉はなかった。
「いいですよ。七海さんが、その歌がいいというのなら、それで」
 翔太の両目はうるんんでいた。
「そんなことより、早く会を始めよう。開演時間を五分過ぎてしまった」
 隣で腕時計をにらんでいた溝口が、早口で叫ぶようにいった。
「失礼します──」
 同時に頭を下げた翔太が背中を向けた。
 肩を落して、その場を離れていった。
「みなさん、お待たせしました」
 マイクの前に立った溝口が声を張りあげ、客席に向かって大きくうなずいた。
「昭和純情商店街、第一回目の記念すべき、歌声喫茶の会。いよいよこれから始まりです」
 満面を笑みにして機嫌のいい声を溝口があげた。同時に拍手が湧きおこった。溝口が両手をあげて大きく振った。
 さらに拍手が強くなった。           (つづく)

 ※1 許諾番号:9016236002Y38029

jasrac