記憶の喫茶



 おれがその店に入ったのには、さして深い理由はなかった。仕事に疲れ、気晴らしに街をぶらついていたときだ。偶然細い路地の奥にたたずんでいたのが、喫茶きつさ「メモリア」という店だった。
「いらっしゃいませ」
 店に入ると、マスターらしき老人が立ちあがって迎えてくれた。
 平日の昼間だからか客はほかに見当たらず、おれはひとりカウンターに腰掛け、渡されたおしぼりで手をぬぐった。
 おれはしばらく周囲を見渡したあとマスターにたずねた。
「あの、すみません、メニューのほうは……」
「おっと、失礼しました」
 そう言ってマスターは、出し忘れていたメニューを差しだした――わけではなかった。代わりに彼は、こんなことを口にした。
「そのご様子だと、うちのことは知らずにお越しくださったのですね」
「え? はあ、まあ……」
「じつはうちは、メニューを置いておりませんで。珈琲コーヒーしかお出ししていないんですよ。ただし、その種類だけは豊富にあります。お客様のご要望に沿ったものをこの場でブレンドして、ご提供しているんです」
「……即興でブレンドを?」
 マスターは、ええ、とうなずいた。
 へぇぇと言いつつ、それじゃあ、とおれは伝えた。
「コクのある感じが好みなので、そういうのでお願いできれば……」
 すると彼は、違うんです、と微笑ほほえんだ。
「ご要望というのは味のことではないんです。うちの店は、ちょっと変わった珈琲をお出ししておりまして。飲むと記憶きおくを引き出せるというものなんです」
「記憶……?」
「人の記憶は、嗅覚きゆうかくと強く結びついているでしょう? 不意に鼻に入った香りで、ずっと忘れていた記憶が一瞬にしてよみがえる……そんなことは日常でもよくあります。
 基本的には、それと同じ原理なんです。私は世界中の豆をブレンドして、目的に合った香りをつくりあげるのを得意としていましてね。そうして淹れた珈琲をお飲みいただくと脳の記憶をつかさどるところ――海馬かいばがほどよく刺激され、自在に記憶を引き出すことができるんですよ。引き出せるのは特定の記憶に留まりません。その人の頭の中に眠っているものでさえあれば、ふわりとしたあいらくといった感情なども呼び起こすことが可能です」
 マスターはひかえめながら、ほこりを感じさせる口調くちようで言った。
おれはしばし考えた末に、口を開いた。
「……もう少し、お話を聞かせてもらえませんか?」
 マスターの話はなものだったけれど、なんだか興味をかれたのだった。
 ええ、構いませんよ。
 そう笑うマスターに、おれはこんなことを聞いてみた。
「ここには、どういった方々がいらっしゃるんですか? もちろん、差し支えのない範囲で構いませんが……」
「そうですね、たとえば、ご友人や知り合い同士でお見えになる方が多いでしょうか」
 マスターは語った。
 かつて同級生だった。同じサークルに所属していた。仕事を一緒にしたことがある……そんな老若男女が久々の再会を楽しむ場所として、この店は選ばれることが多いという。
 マスターは訪れた人々に、引き出したい記憶のことを聞いていく。
 いつごろの、どんな記憶か。
 その情報をもとにして、珈琲豆をチョイスしてブレンドするのだ。
 客はマグカップからただよう香りから、そして口に広がる香りから、当時のことを思いだす。もうそうなれば、思い出話で持ち切りだ。人々は、まるでついいましがた身に起こったことのような感覚になり、生き生きとエピソードを語り合う。
「ほかにいらっしゃるのは……」
 マスターは言う。
「人に紹介されるまま、何も知らずにお越しになるご夫婦なども」
 そういう場合は、その紹介者から事前に店に連絡があることが多いらしい。二人の新婚時代のことを思いださせてあげてほしい。そうして店にやってくるのは、関係がすっかり冷えてしまっている熟年夫婦。けれど彼らもマスターのれる珈琲を飲むと結婚当初を思いだし、知らず知らず手を取り合っていたりする。
 カップルのうち、一方だけがここの秘密を知っているケースもあるという。
「珈琲は彼にだけで結構です。この人の昨夜の記憶をお願いします」
 そう言って、女性が何も知らずにぽかんとしているとなりの男を指したりする。そんなとき、マスターは深く尋ねずそっと珈琲を提供して裏に引っこむことにしている。直後、平手打ちの音がひびき、別れを告げる甲高かんだかい女性のさけびが聞こえてくる。
 とびらの閉まる音を確認してから表に出ると、だいたい決まって男がほおを押さえて呆然ぼうぜんとしている。
「なんであんな話を自分から……」
 そのセリフには、こういう事情があるらしい。
 マスターは記憶を司る海馬に加え、香りで言語中枢ちゆうすうをも刺激するすべを心得ている。男は前夜の秘密の記憶を珈琲で思いださせられると同時に、女性に向かってそれを強制的にかされたのだ。
 こんな具合で、マスターの手にかかればうそやごまかしの通用しない、脳に刻まれている通りの記憶が口から出てきてしまうこともあるわけだ。
「ただ、場合によっては、ちょっと考えさせられることも起こったりするんですが」
「といいますと……?」
「前に、おばあさまを連れて若いお孫さんがお越しになったことがありました。お婆さまは品の良い身なりをされているのですが虚空こくう漫然まんぜんと見つめるばかりで、お孫さんによるとお婆さまは認知症になって大事な記憶が曖昧あいまいになってしまっているという話でした。それで、何とか一時的にでも記憶を取り戻してもらいたい。そして自分に教えて欲しいことがある。お孫さんはそうおっしゃいました」
 ですが、と、マスターはつづける。
「珈琲をブレンドするためいろいろと聞いていくうちに、なんだか少しおかしいなと。言葉の端々はしばしにもけんがあり、これは何かありそうだなと思っていると、やがて事情が分かってきました。お孫さんは、どうやらお婆さまの財産が目当てのようだったんです。お婆さまが忘れてしまった預金通帳や印鑑いんかんかくし場所を思いださせて、聞きだしたい。それが目的だったようです。
 ただ、裏があろうが、ご依頼はご依頼です。お婆さまがこばまれているならば私もお断りできるのですが、そうでない以上は他人様の事情に口を出すべきではありません。一方で私は私で煮え切らず、悩んだ末にお孫さんには内緒で、私はある珈琲をお婆さまに提供させていただきました」
「それは……」
「お婆さまが大切にされていた記憶を引き出して、話してもらう。それだけを意図した一杯です」
「なるほど……」
 おれは話を理解する。
「そのけは……」
「私の行為が正しかったのかは分かりませんが……しばらくするとお孫さんは、嗚咽おえつをもらしながらお婆さまの肩を抱えて店を去っていかれました」
 それ以上聞くのは野暮だろうなと、おれは想像するにとどめておく。
 お婆さんの語った大事な記憶。それはきっと孫が最初に求めていたものとは違っていたのだろう。しかしその記憶は、孫の中に眠っていた別の記憶を刺激して、引き出すものとなったのではないだろうか――。
 考えこんでいるおれに、マスターは言った。
「おっと、すみません、ついつい話が長くなってしまいました……お分かりいただけたでしょうか。このような趣向の場所なんです、この店は」
 おれは、なおも黙って考えをめぐらせていた。
 やがてマスターが心配そうな表情を見せはじめたころ、意を決して切りだしてみた。
「あの、もし可能ならば、相談にのっていただきたいことがあるんですが……」
「はあ、何でしょう……」
「この店に連れてきたい人間がいるんです。じつは私、こういう仕事をしていまして」
 ふところから手帳を取りだすと、マスターは目をみはった。
 おれは慌てて付け足した。
「いえ、このお店とは無関係なのでご安心ください。それで、もしこういったことをお願いできればの話なんですが……ちょっとご協力いただけないかと思いまして。もちろん、お礼はきちんとさせていただきます」
「……私なぞが何のお役に?」
「先ほど伺ったお話です。マスターならば人に記憶を思いださせて、それを吐かせることができる、と」
 一瞬の沈黙のあと、マスターは悟ったように頷いた。
「ははあ、なるほど」
 彼は微笑み、やってみましょう、と口にした。
「ですがその前に、せっかくお越しになられたのですから、いかがでしょう、ぜひ一杯だけでも。お疲れのご様子ですから、たとえば楽しかった記憶に浸って気分転換されていかれては?」
 おれは、ぜひ、と即答し、そして珈琲の効果のほどを存分に体験することになったのだった。



 後日、店を貸し切りにしてもらいおこなったのは取り調べだった。
 おれは刑事として、ある事件を担当していた。が、その容疑者を拘束こうそくしたまではよかったものの、ところどころ容疑者の記憶が曖昧で、証言にも矛盾むじゆんしているところがあり、全貌ぜんぼうつかめず疲弊ひへいしてしまっていたのだ。そんなとき出合ったのが、この喫茶「メモリア」だった。
 マスターの珈琲を口に含んだ容疑者は、人が変わったように理路整然と事件の経緯を話しはじめた。間もなくその全容が明らかとなり、おれは安堵あんどすると共にマスターの腕に心底感服したのだった。
 それからというもの、事件関係者の記憶の整理からはじまって、口を割らない容疑者たちの自白まで、おれはことにつけてはマスターを頼るようになっていった。もちろん仕事で常連になってからも、プライベートで顔を出すことは忘れていない。ありがたいご縁に恵まれたものだと、つくづく思うこの頃だ。
 ちなみにマスターにお願いすれば何もせずともことはどんどん進んでいってしまうので、おれはそのうちなんだか申し訳なさと情けなさに挟まれて、自分なりに何かできることはないだろうかと悩みはじめた。結果、自己満足的にたどりついたのが、キッチンを借りての調理作業だ。
 これにより、喫茶「メモリア」に新たなメニューが加わることと相成った。
 容疑者に出すおれの下手なカツ丼が、いまでは店の裏メニューになっている。
                         (完)

 採用させて頂いた方々
  ・おむずびコロリさん
  ・智也さん
  ・MIKAさん
  (お題「引き出し喫茶店」)