第二章 否認〈承前〉

 の泣き声は高くひびいて、待合室まで届いているだろう。幸い順番を待つクライアントはいなかった。
 人の感情は、まるで波のように伝播でんぱする。赤ん坊が一人泣き出せば、それにつられてそばにいる子が次々と泣き始めるのに似ている。診察室かられる泣き声は、他のクライアントの精神状態を不安にさせてしまう。待合室にBGMを流していたり、ドアに簡易の防音設備をほどこしたりしても完全ではない。
 けいろうはしばらく黙って、ハンカチで顔をおおったままの麻那を見守っていた。かける言葉がないのではなく、自分を責めようとしている彼女の胸に、いまは何を言っても届かないと思ったからだ。
 慶太郎は内線で澄子すみこに水を頼み、しばらく待つ。診察室に響く泣き声が徐々に小さくなり、すすり泣きへと変わっていったのを見ると、ティッシュペーパーの箱を麻那の前に置いた。すでにハンカチは役に立たなくなっていた。
 診察室は気楽に話ができるよう工夫をしている。観葉植物や壁の絵画、書棚もサロンをイメージした落ち着きのあるもので統一していた。クライアントはそんな部屋に少なからず影響され、他の環境にいるときよりも感情をしずめやすくなるはずだ。
 タイミングを見計らって澄子が、診察室に入ってきた。ゴブレットにそそいだハーブ入りの水をテーブルの上に置くと、麻那が顔を上げた。
 澄子が麻那にしやくを返し、部屋を出て行ったのをきっかけに、慶太郎が口を開いた。
「いま妹さんのことを思い出すと、自分が彼女に言ったりしたりした悪いことばかりが浮かんでくるでしょう。後悔が自分を責める方向にしか働かないからです。それが自然なんですよ、大槻おおつきさん。ただ、あなたの言動と由那さんが亡くなったことは関係ないんです。無理に結びつけて、自分を傷つけることをわざと選んでいる」
「でも私、ひどい姉でした。自分の中の嫌な面が出てきたんです。たぶんあの子がうらやましかったんやと思います」
「田舎を出て行った、それがうらやましかった?」
「あの子が自由で楽しそうで、夢が持てて……夢なんて、私は持ってない。それが悔しくて」
「正直でいいですね。人をうらやむのも悪いことばかりじゃない。うらやましいという感情が、向上心につながることもある」
「向上心、ですか……夢、そうあの子には夢があった。なのに自殺なんてするはずないです。そうですよね、先生」
 麻那は何かに気づいたように視線を慶太郎に向けた。その真剣な視線が痛かった。
「事件でも事故でも、また自殺だとしても人が亡くなる理由は単純ではありません。ですから、それを私は調べているんです」
 と麻那に言った言葉をみしめた。
 自殺への疑念があっても、証明するには相当な証拠が必要だ。その代わり自殺でないことを証せば、春来はるきへの治療は進むし、何より目の前にいる麻那の心も軽くしてやれる。
 麻那がもう少し落ち着くのを待ち、の遺品を引き取りに行くために署に向かうことにした。
 クリニックを出る前に、麻那が木津署に連絡を取ると、担当刑事が現場である由那の部屋まで出向くということで、そこで落ち合うことになった。
 麻那が連絡を取った相手、垣内かきうちという名に慶太郎は聞き覚えがあった。ちょっとばかりキレ者の五十がらみの刑事で、その人物に食らいつくと、確か光田みつたが言っていたはずだ。 

 クリニックの軽自動車、つまり慶太郎の車で十分とかからず、由那のアパートに着いた。荷物を引き取ることをハッピーショッピーの店長に電話で伝えると、専務のが立ち会うから部屋の前で待っていてほしいと言ってきた。
 光田が言っていた店長の息子、名田しようだ。彼は由那のこととなると、どうも神経質になるようだ。光田も煙たがっていたのを思い出した。
「そうですか。ここで待てと」
 廊下までやってきた慶太郎は、由那の部屋のドアに目をやってため息をついた。向かいの部屋にかかる手書きのプレートには「桑山くわやま」とあった。とうが敵視している中の一人で、ハッピーショッピーの警備員の男性だ。
「社員用の部屋や言うても、今月いっぱいは由那の部屋なのに自由に入ったらあかんのでしょうか……かぎだって預かってるのに」
 麻那が手にした鍵を見せた。赤い小さな鈴がつけられている。
「店の人も戸惑ってるんでしょうがね」
「申し訳ないとは思てます」
「気にしなくていいですよ。由那さんは何も悪くないんですから」
 やすしんの廊下がきしむ音がした。振り向いて廊下のはしを見ると、背広姿の巨漢きよかんが会釈しながら歩いてくる。
「お待たせしてしまって」
 麻那に近づくと正太は頭を下げ、そのまま続けた。
「先日はお疲れ様でした」
「いえ、こちらこそご迷惑をおかけして」
 どうやら遺体引き取りのときに二人は会っているようだ。
「あの、こちらは」
 麻那が慶太郎を紹介しようとして言葉に詰まった。
「私は、由那さんの友人の医師です」
 と嘘を言った。あれこれ説明しても、誤解を与えるし、理解できないと思ったからだ。
「お医者さん、ですか」
 正太は探るような目付きを向けてきた。
「ええ、駅の近くでクリニックを開業しています。本宮もとみや慶太郎と申します」
 慶太郎は名刺を差し出すと、正太も名刺を出した。
「精神科のお医者さんなんですね。そしたらぐらさんは先生の?」
 正太は名刺から慶太郎に目を移す。
「患者さんではありません。先ほど申しましたように友人です。大槻さんとも懇意こんいにしてるもんで、今日は手伝いにきました」
「そうですか、ご友人」
「ええ。とても辛くて、いまだに信じられない」
「私も驚いています。あの本宮先生」
 正太が巨体を寄せてきた。背は慶太郎と同じくらいだったけれど、圧力を感じ後ずさりした。
「何でしょう?」
「いや、お医者さんの友人がいるなんて知りませんでしたので、ちょっとうかがいたいことがありまして。自殺の原因について、です」
 正太は、背後にいる麻那に聞かせたくないのか、さらに慶太郎に近づき声をひそめた。もう後ろには下がれない。
「いえ、何も」
「そうですか。お店のことで何か言ってませんでしたか」
「とくには何も聞いてません。まあいて言えば、指導が……」
 と言葉をにごした。あえて言葉を割愛かつあいさせると、相手は勝手に想像して自分の知っていることでおぎなう習性を持っている。自動的に潜在意識が補完するのだ。
「ああ、平岡ひらおかさん。彼女は惣菜そうざい部の責任者ですから、ときには厳しいことを言ったかもしれないですが、二人は師弟関係といいますか、うまくいってましたよ。それは店の者がみんな知っています。うちは個人経営のこぢんまりした店ですから、チームワークが売りなんですよ」
 正太は店に由那の自殺の種などない、と言いたげな口調で言った。今日ここに来たのも、由那の部屋に店でのトラブルを示すようなものが出てきやしないかを、心配してのことにちがいない。
「何かとアドバイスをもらっていたようです」
 慶太郎は適当なことを言って、麻那に目をやる。彼女はうつむき由那の部屋を見つめていた。
 平岡は、由那に言い寄る尾藤のことを知っていた。つまり仕事だけでなく私生活においても話ができる間柄だったということだ。あるいは若い由那が失敗しないようにぼうていの役目もしていたのかもしれない。師弟という関係かどうかは分からないが、尾藤が言うほど悪い関係ではなさそうだ。
「とにかく私どもも貴重な人材を失ったことが残念で」
「そろそろ小倉さんの部屋に入ってもいいですか」
「そうですね。すみません」
 慶太郎が麻那に目配せすると、彼女はドアに鍵を差し込んだ。
 麻那は部屋へ入ると素早く靴をいで、居間のカーテンと窓を開けた。部屋のどこか湿った空気が、吹き込んだ秋風に入れ替わった気がした。
「警察が調べた後、何もさわってません」
 正太が玄関先から麻那に言った。
 麻那は押し入れを開けて、荷物の全体像をつかもうとしていた。とんを数え、四つあった収納ボックスのふたを順に開けては数を点検する。
 慶太郎は、由那の暮らしの一端いったんを見ようと部屋を見回した。
 玄関を入るとフローリングの部屋で、そこにミニキッチンと奥にトイレと風呂。さらに奥が六畳ほどの居間だ。キッチンの足下には殺虫剤のスプレー缶があった。それが殺虫成分の含まれていない冷凍ガスを噴射するタイプのものだったのを見て、化学物質に対しても神経を使っていたのではと思った。台所洗剤も無添加の天然成分のものばかりだ。
 部屋の真ん中にちゃだい、壁際に書棚、窓際にはづくえがあって、その他の家具はなかった。壁には和菓子の写真のカレンダー、柱には布製のじょうしがかかっていて手紙と光熱費の請求書とが分けて入れられている。
 書棚は、やはり料理本と栄養学の本がほとんどだった。文庫は小説でいわゆる旅情ミステリーが多いようだ。
 麻那が押し入れを閉め、文机の前に座った。出ていたノートを手にし、
「由那……」
 とつぶやき、ページをめくる手がひどく震えている。泣くまいとこらえているのだろう。
「大槻さん、大丈夫ですか」
 慶太郎は麻那の横に片膝をつくと背中に手を当てた。
「これを」
 麻那がノートの開いたページを慶太郎に向けた。
 そこにはこう書いてあった。
『本当の勇気とは自分の弱い心に打ち勝つことだよ。包み隠さず本当のことを正々堂々と言える者こそ本当の勇気のある強い者なんだ。スナフキン』
「スナフキンって、あのスナフキンですか」
 慶太郎はフィンランドの作家トーベ・ヤンソンの小説ムーミン・シリーズに出てくるキャラクターが思い浮かんだ。
「そうです、ムーミンに出てくる旅人です。あの子ムーミン・シリーズの絵本をよく読んでいました」
「好きだったんですね……」
 由那が日記に書き並べた好きなものの中にムーミンはなかった。書き漏らしたのかもしれない。
 慶太郎はノートの他のページを見て、もう一度スナフキンの言葉に戻る。前のページまではテレビの料理番組で気になったレシピをイラストをまじえて書きつづってあった。よく見ると前ページの下のほうに、事件の前日である九月二十八日付けで料理番組名が小さく書き記されていた。
 スナフキンの言葉は間違いなく亡くなった日に書いたものだ。ノートの中央に文章のみというのは、このページだけで、筆跡鑑定ひつせきかんていの専門家ではないが、文字の特徴から由那本人の手によるものと思われた。
「これは事件の日に書いた公算こうさんが高いですね。でもどうして、急にこの言葉を書いたか。何か意味があるように思います」
 言葉もそうだったが、ボールペンの筆圧ひつあつの強さが気になった。書く内容に強い意志が働くとき、指に力がこもって筆圧はどうしても強くなる。
 春来がガッツポーズだと感じた由那のこぶしとペンを握る手が、慶太郎の頭の中では重なった。
〝本当の勇気〟〝包み隠さず本当のことを正々堂々と言える者〟
 由那は一体何をしようとしていたのか。そのことが、彼女の死につながったのか。
「それが何か、重要なもんなんですか」
 手暗がりになったと思い頭を上げると、正太がノートを覗き込んでいた。
「何か気になることでも?」
「いや、気に入ったキャラクターの言葉を書き写しただけですね。ムーミンってご存じでしょう? それに登場するスナフキンの言葉です」
 と慶太郎が言うと、正太は半信半疑の表情を浮かべてうなずいた。
「小倉さんはパソコンを持っていなかったんですか」
 慶太郎は正太がノートに興味を持つ前に尋ねた。
「さあ、ここになければ持ってなかったんでしょう。いまはスマホでなんでも済ませられるさかいにね」
「いや、小倉さんはスマホではなく、古い型の携帯電話しか所持してなかったようですよ」
 開けたままのドアの外から声がした。ずんぐりとした体躯たいくで短髪の中年男性が顔を覗かせている。光田の言うとおり五十歳代だろう。深く刻まれたけんしわが、刑事らしい強面こわもてだ。
「失礼しました。木津署刑事課、垣内と言います」
 垣内は部屋に入ってくると、慶太郎に向かってバッジを示した。正太も麻那も一度は垣内と会っているからだろう。
「私は小倉由那さんの友人で、本宮と言います」
 慶太郎は名刺を渡した。
「ご友人? 精神科医ですか。交友関係の中に先生のお名前は上がってきませんでしたね」
 垣内の目は慶太郎をぎようする。みされているようで気持ちのいいものではなかった。
「直接の友人というのでもないですから」
「ほう、ますます気になりますね。詳しく伺う必要があるようだ。まずはこれをお返ししましょう」
 と垣内は、茶封筒を麻那に手渡した。
「由那は、自殺だと決まったんでしょうか」
 麻那は、封筒を胸の前で抱きしめる。
「署が出した結論は、自死です」
 その言葉を聞いて慶太郎が口を出した。
「個人的には、その結論に疑問符をつけている、と取れる発言ですね」
「かないませんね、精神科の先生にかかっては」
「なのにもうこれを返してもらってもいいんですか」
 麻那が持っている封筒を見た。
「一連の捜査は終了していますんで」
「刑事さん、お姉さんも私も自殺では納得できない。だからいろいろ調べました」
 慶太郎は、自分の考えをげるチャンスだと思った。
「ほう。新たな関係者からご意見をお聞かせいただけるんですか」
 嫌みな言い方だった。
「あくまで私の考えですが」
 慶太郎が話し出すと、誰が言うともなしに卓袱台を囲むように四人が畳に座った。
 正太がいることが気になったけれど、彼にとっても店の評判を考えれば知る権利はあるだろう。
「まず由那さんが飲んだとされる毒です」
 慶太郎は毒で亡くなったのではなく、アナフィラキシーショックという死因に疑問があると言った。
「自殺者の心理ではできるだけ苦しまない方法を選ぶもんです。毒物なら即効性のあるものを使う。けれど入手が困難なので、練炭れんたんの一酸化炭素中毒とか、りゆう水素なんかで代用されるんです。りつの低い毒物によるアナフィラキシーショックなんて不確実で、なおかつ……」
 麻那がいるため「苦しむ」という言葉を使うのをためらった。
「つまり自死に適さない毒だということですね。それは解剖かいぼうに当たった医師も言ってました。気道がふさがれて窒息ちっそくした。そんな方法は誰も選択しないと」
「由那さんがそのアレルギーを持っていたとしても、それを飲んでどんな反応が出るか医者でも分かりません。さらに、いま発見したこれを見てください、書かれた言葉を」
 事件の日に書かれた可能性があると慶太郎はそくした。
「スナフキンですね」
「ご存じだったんですか」
「さっきお渡した封筒の中を見てください」
 垣内の言葉に、麻那は封筒をのぞき込んだ。
「ビニール袋が二つあるでしょう。一つは遺書のメモ、もう一つもメモなんですが、取り出してください」
 言われるままに麻那は、卓袱台の上に二つを並べ、その一つを取り上げると、
「あっ、スナフキン」
 と声を上げた。
「それ、職場のエプロンの中に入っていました。ノートと同じ言葉だ。紙が少し古いようなんで自死とは無関係だと思っていたんですが。いや自死だと決めてかかってたってことか」
 垣内はちょうの笑みを浮かべた。
「はじめから決めていたんですか」
 慶太郎には、皮肉を言うつもりはなかった。
「ご本人の書いたメモ、これがあったんでね」
 垣内はもう一つのビニールに入ったメモを指さした。
「このメモには具体的なことは何も書いてなかったはずです。誰にてたものなのかも分かりません」
「先生はその文面をご存じなんですか」
 垣内は麻那の顔を一瞥いちべつし、慶太郎に向けてきた。
「どこで文面を?」
「大槻さんにコピーを見せてもらったんです」
「そうですか。それなら遺書ととれる文言もんごんであることもお分かりでしょう」
「事件当日、それも亡くなったと思われる数時間前に由那さんを目撃した人がいます。由那さんに自殺するようなふんはなかったそうです」
「ほう、そんな目撃者がいたとはね。その方に会わせていただきたい」
「それはできません。医師としての守秘義務があります」
「なるほど、先生の患者さんっていうことですね」
 垣内はいっそう鋭い目を向けてきた。
「それも答えられません」
 慶太郎は首を振った。
「自殺か事件か。事件なら真犯人がいるんですよ。先生は自殺に疑問を抱いている。そして我々が持っていないカードをお持ちのようだ。なのに守秘義務ですか」
 垣内は責めるような口調で言った。
「分かりました。それでは目撃者の身元を明かさないことを条件に、私の知り得た情報をお話しします。その代わり刑事さんが由那さんの自殺に疑問を感じている理由を教えてください」
 と垣内の目を見た。
「いいでしょう」
「その人は由那さんを毎日のように見かけていました。由那さんを最後に見たとき、ガッツポーズをしたといいます。それは自分を励ますようだったと。ノートにあった『本当の勇気』とか『弱い心に打ち勝つこと』というスナフキンの言葉も、自分をしているように思えませんか」
「なるほど。先生はその方の言ったことを信じているんですね。私には大学生の娘がいます。自殺したいと思ったことくらい、みんな一度や二度はあるもんだなんて言ったんですよ」
 若い女性が自殺するなんてもったいない、と垣内が食卓で漏らしたときの娘の反応だった。
「でもいろいろ考えているうちに実行しないって。例えば、さっき先生が言おうとした苦しい死に方は嫌だとか、みにくい死に姿は見られたくないとか。もしいじめや失恋なら、まずは相手に一矢いっしむくいたい。そのためにはどうすればいいかなんて考えをめぐらせているうちに馬鹿らしくなると言ってた。それを聞いて、小倉さんの死をもう一度考えてみたんです」
 遺書はメモ、内容は曖昧あいまい。死後の自分の姿への配慮はいりょもない。仕事や人間関係において、これといった問題をかかえているような話も浮上してこない。
「全体にきりがかかったような……もし自分の娘だったらとても納得できないなと」
 垣内の眉間の皺が、さらに深まった。
「なら、捜査を継続してください」
「先生、私もそう主張している。しかし、あることが事件性なしという結論を出させているんです」
「なんですか、それは?」
「鍵、ですよ」
 垣内は、首をひねりドアの取っ手をにらみ付けた。
 ドアは古びていたけれど、鍵は新しそうに見えた。
「鍵がかかっていたことは知ってます」
「ええ。ディンプルシリンダーじょうっていうものなんです。比較的ピッキングに強いタイプのものなんですよ。鍵にゴルフボールみたいなボコボコしたくぼみがあるやつです」
 それを聞いて、麻那が卓袱台の上に鍵を置くと、可愛らしい鈴の音がした。
「うちの親父、いや店長が女性の一人暮らしは物騒ぶっそうだって言って、二年ほど前に交換しました」
 正太が自慢げに説明した。
じょうされていたことで、由那さんが亡くなったとき、この部屋には他に誰もいなかったと判断しました」
 窓にも施錠されていた、と付け加えた後、垣内のくちびるが固く結ばれたのを慶太郎は見逃さなかった。
 由那以外の人間が出入りした形跡があることを望んでいたが、その期待が外れて落胆らくたんしていると分析した。
「密室やったいうことやね」
 正太がれしい口をきいた。
「小説やテレビドラマのような密室トリックなんて、実際はありませんよ。だから、自殺に傾いたんです」
「合鍵を持っていた人物がいたのかもしれません」
「ディンプルシリンダー錠でもこのメーカー製は、そう簡単ではないらしいんです。合鍵を作る業者に当たってみたんですが、時間がかかる上に鍵が開かないとか、シリンダーそのものが壊れたとかクレームも多いから、断るんだそうです」
「他の侵入経路、例えばお風呂かトイレの窓はどうです?」
「トイレと風呂は一緒のユニットでして、ジャロジー窓は小さくて侵入した形跡はなかった。キッチンの窓も格子こうしがはめてあって侵入不可能です」
「やっぱり密室だ」
 また正太が嬉しげに言う。
 そんな正太を冷ややかに見て、
「由那さんしかいなかったとしか言いようがないんです」
 と垣内が静かに言った。
「じゃあこの由那さんの鍵で、由那さんを殺害した後ドアに鍵をかけて逃走したというのは?」
 と慶太郎はねばってみた。
 垣内は卓袱台の上の鍵を持って立ち上がった。そしてフローリングと居間の間にある柱にかかっている状差しの中に鍵を入れた。
「鍵はここに入っていました。先生、ここに戻すのは無理でしょう」
 と、垣内がドアと状差しを交互に見た。
 推理小説で、殺害した死体の背広のポケットにテグスを通し、ドア用郵便受けをくぐらせておく。外から鍵をかけ、そのテグスを操り鍵をポケットに戻すというようなトリックを読んだことがある。
 しかし、ドアに郵便受けはないし、鍵が通せるような外に開いた隙間すきまはなさそうだ。何よりこれは小説の世界で起こっている出来事ではない。実際に由那がこの部屋で死んでいるのだ。
 もし犯人がいたとして、成功するか失敗に終わるか分からない、一か八かのざいに頼ったとも考えにくい。
「なるほど、刑事さんがおっしゃることは分かりました」
 そう慶太郎が言ったとき、麻那が心細げな表情でこちらを見た。彼は、あわてて言葉をぐ。
「そこまで外部からの侵入を否定されているのに、刑事さんは個人的にせよ納得されていないし、わざわざ我々に説明をしにここへ来ている。娘さんの影響だけではないはずです」
「この事件、自殺説をくつがえす事実なり、証拠が出てこない限り捜査は打ち切りです。私がメモなどを返却しにきたのは、もはや遺留物として調べる価値はないと本部が判断したからに外なりません。明日、完全に捜査は打ち切られる。ですが、自殺じゃないとすれば真犯人がいる。それはどうしても許せんのです。もし、新しい事実が出てくれば捜査の再開にこぎ着けることができるかもしれない。ですから、今後どんなことでも私に情報を提供してほしいんです。今日はそのお願いにきたんです」
 垣内は真剣なまなざしでみんなを見た。                                 〈つづく〉