十月の精霊流し・中

 昼過ぎに珍しくしょうたから連絡が入り、かずひこは待合せの喫茶店に向かった。
『ジロウ』という店の扉を押すと、翔太はすでにきていて和彦を待っていた。
「どうした、何かあったのか」
 運ばれてきたホットコーヒーを一口すすり、和彦は話を切り出した。
「はいっ、実はげんさんのことで――」
 くぐもった声でいって、翔太はまゆくもらせる。
「源ジイのことというと、先日のかくち酒場でのことか」
 和彦は声をひそめていい、
「実は俺も、あの件に関してはちょっと心配してたんだが」
 小さないきをもらした。
「でしょう。あれは、どう考えても変です。何か理由があって、故意にあんな態度をとったのか。それとも本当に自然に、ああなったのか。そんなことを考えていたら、どうにも心配になってしまって」
 一気にいう翔太に、
「そうか。翔太君は源ジイのファンだったもんな」
 和彦は軽くうなずいてから、
「しかし、故意とは驚いたな。翔太君がそこまで深く考えていたとはな。いや、びっくりした」
 感心したようにいった。
「そこまで深くって――普通は、そういうことは考えないんですか」
 呆気にとられた表情を翔太は浮べた。
「そんな深読みはしないなあ。普通の人間は状況だけ見て判断するから、それを素直に信じてしまう」
 和彦は独り言のように口に出す。
「僕は意地悪で、嫌な人間なんでしょうか」
「いや――」
 すぐに和彦は頭を振る。
「翔太君は源ジイのファンだから、そして翔太君は俺たち普通の人間より、ずっと頭がいいから。だから、そこまで物事を深く掘り下げてしまうんだと思うよ。それで――」
 真直ぐ翔太の顔を見た。
「翔太君はどっちだと思うんだ。故意なのか、それとも本当なのか」
「わかりません。でも、あと四日すれば、それもわかるんじゃないでしょうか。源次さんの本音が」
 きっぱりした調子で翔太はいう。
「なるほどなあ。そういうことなんだろうな。すごいな翔太君の物を見る目は」
 そういうことなのだ。もしあれが故意ではなかったら、源次は四日後に角打ち酒場に顔を出すはずなのだ。そしてその場合は……。
 あのとき――。
 源次はにらみ合っている二つの外国人の席に無造作に近づき、和彦と翔太もその後ろに従った。
 二つのグループの目が先頭にいる源次の顔に注がれた。どちらのグループの顔にもぜんといった表情が浮んでいる。それもそのはずだ。すずめの巣のような、ぼさぼさ頭の源次の身長は百六十センチほどで、外国人の目から見れば子供同然。その小さな男が神妙な顔をして近づいてきたのだ。
 二つのグループの中間の位置で、源次はぴたりと止まって和彦の顔を見た。
「じゃあ翔太君、こういってやってくれ。酒を飲むなら、おとなしく飲め。周りに迷惑をかけるな。この店のなかであらそい事をする者は、日本の忍者が許さんと」
 和彦の言葉をすぐに翔太が英訳して、二つのグループにいって聞かせる。よどみのない、りゅうちょうな英語だった。
 とたんに二つのグループの間から、笑い声がもれた。南米グループのほうは失笑で、欧米グループのほうはちょうしょうだった。すぐに欧米グループの一人が口を開いて、何かをまくしたてた。翔太が口を開いた。
「莫迦なことをいうな。その、しなびた小男が忍者なら、俺たちはみんな、スパイダーマンだ――といっています」
 翔太の通訳が終るか終らないうちに、黒人の大男が一歩前に出た。源次の顔を睨みつけるようにして、何かをがなりたてた。
 翔太が和彦の顔を見た。
「俺の名前はボビー・ウィルソン。その、しなびた小男と違って正真正銘、アメリカ海兵隊のヘビー級ボクシングのチャンピオンだ。そんな俺と命のやりとりをする度胸があるのなら、いつでもかかってこい。そういっています」
 すぐに翔太が通訳する。
「兵隊なのか、こいつらは――何だろうがかんだろうが、金玉握りつぶすぞ、馬鹿野郎が――そう、いってやれ」
 源次が叫ぶようにいった。が、様子が少し変だった。ぎゅっと歯を食いしばって、体が小刻みに揺れている。そんな源次を見ながら翔太がいわれた通りの言葉をボビーと名乗った男に伝える。
 大男の顔にが走るのがわかった。
 ボビーが一歩、源次に近づいた。
 そのときそれが、おきたのだ。
 源次の体がぐらりと揺れ、その場に崩れるようにして片膝をついた。両目を固く閉じている。体を二つに折って、両肩で大きく息をした。
 おどけた様子でボビーが肩をすくめた。
 どうやら自称忍者の源次は無視することにきめたようで、ゆっくりと首を回して南米グループに人差指をつきつけた。何かをまくしたてた。大きな胸を張ったボビーを先頭に、悠々と欧米グループはその場を離れていった。
「翔太っ……」
 しわがれた声を、うずくまっている源次があげた。
「あの、クソ野郎は今、なんていったんだ」
 しわだらけの顔が下から見ていた。
「俺たちと命のやりとりをする気があるなら、六日後の同じ時間にここへこいって、南米グループを指さして」
 翔太も嗄れた声をあげ、
「それで、源次さんは大丈夫なんですか。いったい、どうしたんですか」
 声が泣き出しそうなものに変った。
「ちょっと立ちくらみがしただけだから、大丈夫だ。しばらくこうしていれば、よくなるはずだからよ、しばらくよ」
 苦しげな声で源次はいった。
「だから、お客さんにも席に戻ってもらってよ。もう、何もおこらねえからよ」
 源次の言葉に和彦が後ろを振り返ると、店中の客が集まってきて、この場の様子を眺めていた。
「すみません。ちょっと目眩がして、しゃがみこんでいるだけですから。何がおきたわけでもありませんから、みなさんは自分の席に戻ってください」
 頭を下げながらいう和彦の言葉に、店の客たちもその場を離れる。源次がよろよろと立ちあがったのは、それから五分ほどがったころだった。
「すまん、ちょっと体の調子が悪いようだから、今夜はこれでご無礼させてもらう。明日になれば、いつも通りの体に戻るはずだからよ」
 源次はそういって返事も聞かずに体を揺らしながら、和彦たちの前から姿を消した。
 そのあと南米グループも店を出ていき、和彦たちも表に出て解散した。


 これが、あの夜のすべてだった。
 そして、あれから二日が過ぎていた。
 あと四日すれば、あのボビーという男がいった六日後になる。もし、源次のあの行動が仮病でなかったら、翔太のいうように角打ち酒場に姿を見せるはずだった。あの、大男のボビーと決着をつけるために。しかし、そうだとしたら――。
「源次さんは、何かの病気を持っている。そういうことになりますよね」
 和彦の考えを見透かしたようなことを、翔太がいった。
「そうだな。あれが、あの大男を怖れた仮病でなかったとしたら、源ジイは何かの病気にかかっているといえるな」
「それも、かなりの大病に――」
 ぽつりという翔太に、
「なぜ、そこまで、はっきりいい切れるんだ、翔太君は」
 和彦は怪訝な面持ちで訊く。
「以前、自分にも怖いものはある。ただ、それは自分の最大の弱点だから、今はまだいえない――そんなことを源次さんから聞いたことがありますから」
 すらすらと翔太は答えた。
「最大の弱点か――それが事実としたら、翔太君のいう通り、大病ともいえるな。だから、飲むのはいつもビールか」
 ひとごとのように最後の部分をいい、
「もし、そうなら、先日の立ち眩みは事実ということになって、妙ないい方になるが源ジイファンの翔太君にしたら、ほっとするんじゃないか」
 複雑なおもちで口にした。
「でも、その最大の弱点というのが、本当に強そうな相手を前にしたときの恐怖感……そうとも考えられますから」
 重い声で翔太がいう。
「なるほどな、その考えにもいちはあるな」
 腕をくむ和彦に、
「あれから、源次さんには?」
 翔太が恐る恐るといった口調でいた。
「会ってないな。よし、そろそろ招集をかけてみるか。どうせ、みんな心配してるだろうから。あと四日経てばわかることかもしれんが、それではちょっとゆうちょうすぎるからな」
「はいっ」
 和彦の言葉に翔太がすぐに声を張りあげる。
「翔太君は、よっぽど源ジイのことが好きなんだな」
 ちょっとうらやましそうな声をあげると、
「何といっても、僕とは正反対の人ですから。尊敬するというか、憧れというか。文句なしに素晴らしい人ですから」
 はずんだ声で翔太は答え、手にしたアイスコーヒーをごくっと飲んだ。
 その声を聞きながら、『こぼれ塾』でいつもいがみあっている、不良候補生の小学六年のたかゆきと中学二年のひろに源次を会わせてみるのも、ひとつの手かと和彦はふと思う。源次の強さをその目で見れば、あの二人の心も少しは真っ当な方向に向くのでは。そんなことを考えていると……。
「あの、僕にはもうひとつ、疑問点があるんですが」
 翔太の声に和彦は我に返る。
「あのボビーという大男がいった言葉なんですけど。ちょっと、引っかかる点があるんです」
「あの、大男の言葉?」
「はい。あの大男はこういったんです。命のやりとりをする気があるなら、六日後の同じ時間にここへこいって――これってちょっと変だと思いませんか」
「変って、どこが」
 翔太の言葉が理解できなかった。
「普通、日にちをいう時には三日後とか五日後とか一週間後とか。そんな数字を出しませんか。それをあの大男は六日後っていったんです。僕にはいかにも中途半端な数字のように思えて」
 いわれてみればそうだ。六日後というのは翔太のいう通り、中途半端な数字といえた。しかし、その理由はと訊かれると、さっぱりわからなかった。
「中途半端なのはわかったが、理由は見当もつかない。逆に翔太君は、この数字をどう考えたんだ。何か答えは出ているのか」
「単なる憶測ですが、たったひとつ」
 ぼそっといった。
「それでいいから、聞かせてくれないか」
 身を乗り出す和彦に、
「七日目ぐらいに、あの大男たちは自分の所属する部隊に帰って、すぐに日本を離れるんじゃないかと」
 簡単めいりょうに翔太はいうが、和彦にはその真意がわからない。
「つまり、日本を離れる身であるのなら、相当のことをしても構わないと」
 ようやくわかった。そういうことなのだ。
「要するに相手を半殺しの目にあわせてもということか。もっと極端にいえば、相手を殴り殺してもということになるのか」
 驚いた口調でいう和彦に、
「僕にはそう思えてならないんですけど。むろん、思い過しなら、けっこうなことなんですが」
 しんみょうな顔で翔太はいった。
「いや、あたらずといえども遠からず。案外、翔太君の説は的中しているような気がする。しかし、そうなると、かなり物騒なことになるな。いずれにしても」
 最後の部分で和彦は声を荒げ、
「今夜、みんなで会うことにしよう。あの角打ち酒場で」
 自分にいい聞かせるようにいった。
 あのとき、大男のボビーのいった六日後というのは、十月の二十五日に当たった。つまり、あきの命日だった。そんな日に、身近で凶悪な事件をおこさせたくなかった。静かな日にしたかった。では、どうすればいいのか……。


 その夜、『八代酒店』に集まったのはいつもの七人。桐子もいたし、そして源次もいた。和彦たちは焼酎のホッピー割りで、翔太と桐子はウーロン茶、源次はいつものようにビールを頼んだ。源次は元気そうだった。
「源次さん、すっかり元気そうで、何よりですね」
 嬉しそうに翔太がいった。
「おう、元気そのものだな。先だっては、とんだしゅうたいをみんなに見せてしもうたがの。今では、ほれ」
 部厚い胸を源次は張る。
「確かに元気そうだな。となると、あの立ち眩みはいったい何だったんだろうな」
 持って回ったいい方を和彦はする。
「あれは、おめえ、あれだよ。いわば子供の知恵熱のようなもんでな。体をいじめ抜いてきたがためにおきる、一種の発作のようなものだな」
 むにゃむにゃと源次はいう。
「知恵熱の発作なあ」
 とぼけた調子で和彦はいい、
「ところで源ジイ。四日後はやっぱり、ここへ顔を出すのか、先日のいさかいのつづきをするために」
 核心をくことを口にして、源次をじろりとにらんだ。
「くるよ――もっとも南米組は、びびってこねえかもしれねえがよ」
 一瞬の間を置いてから、源次ははっきりした口調でいった。とたんに翔太の顔に嬉しそうな表情が浮び、それはすぐに心配げなものに変った。
「すると、やっぱり源ジイは病気。そういうことになるのか」
 断定したいい方を和彦はした。
「おいおい、何だよ。さっきから二人で妙なやりとりをしてよ。源ジイのあれは、知恵熱のようなもので一件落着というわけにはいかねえのか。こんなに元気なのによ」
 串揚げを手にしたほらぐちのうてんなことをいった。
「なかなか、そういうわけにはな」
 ぼそっと和彦はいい、
「なあ源ジイ。みずくさいことはよしにして、何もかも正直に話そうじゃないか。何たって俺たちはおさななみなんだから。苦しいときも辛いときもな」
 源次の顔を真直ぐ見つめた。
 その目を避けるように源次は視線を床に落した。
「翔太君だって随分、心配しているんだぞ、源ジイのことを」
 と和彦はいってから今日の昼間、翔太に会って相談された件の一部始終を正直にみんなに話して聞かした。
「そんなことを翔太が!」
 桐子が感心したような声をあげた。手にはこれも串揚げを持っている。
「病気なんですか、源ジイ。それも、かなり重い?」
 川辺が心配そうな口調でいった。ほおっているのはわさだ。
「それは……」
 苦しげな声を源次があげた。
「それは何だ――はっきりいえ、源ジイ。何度もいうようだが、俺たちは幼馴染みだ。どんなことになっても、みんな源ジイの味方なんだから。だからな」
 いたわるような声をあげる和彦に、
「すまん。もう少し待ってくれ。わしにも心の準備っていうもんがあるからよ。だから、もうしばらくよ。心が落ちつけば、何もかも正直に話すからよ」
 源次はこういって、深々と頭を下げた。
「心の準備か。そうだよな。いくら強い人間だって病にゃ勝てねえよな。どんな病かわからねえが、心の準備はいるよな」
 しみじみとした調子で洞口がいい、
「じゃあ、しばらく待つから。心の準備ができたら必ず話せよ、源ジイ。力になれることなら、何でもするから」
 柔らかな口調で和彦はいった。
「約束する」
 こくっと源次はうなずき、
「悪かったな、翔太。おめえにまで心配かけてよ」
 雀の巣のような頭をかき回した。
「僕は源次さんのファンだから。源次さんが、この世からいなくなると僕は困るから。本当に困るから、本当に」
 つかえつかえ、翔太はいった。
「わしは死なねえから、大丈夫だ。俺は忍者だからよ、そう簡単にこの世から、おさらばすることはねえからよ」
 いつもごうほうな源次の口調に湿しめがまじった。
 辺りが一瞬、静まり返った。
「よし、このへんで一件落着にしよう」
 すっとんきょうな声をあげたのは桐子だ。
「それから翔太。あんたにひとつ訊きたいことがあるんだけど」
 視線を翔太に向けた。
「塾も行ってないあんたが、なんであんなにうまく英語が話せんだよ。いったい、どこで勉強してきたんだよ」
 怒ったような声でいった。
「それは、簡単なことというか、何というか……」
 翔太は申しわけなさそうな口調でいい、
「BSテレビの、洋画だよ。いっている言葉と字幕スーパーを見てたら、自然というか何というか、ごく普通に頭に入ってきてしゃべることができるように」
 これもちぢこまったような声を出した。
 辺りがまた静まり返った。
「字幕スーパーの映画を観てたら、ごく普通に会話ができるようになったんですか。それはまあ!」
 川辺が喉につまった声をあげた。
「特段の努力なしで、そんなことが」
 ぜんとした表情でいう洞口に、
「努力はしましたよ。意識を最大限に目と耳に集中させて」
 ぼそりと翔太はいった。
「凄えな、翔太。おめえはよ」
 感嘆の声を源次があげた。
「意識を最大限に目と耳に集中させて洋画を観れば、誰でも英語を話せるようになるのか。私でも」
 思わず体を乗り出す桐子に、
「やめとけ、無駄な抵抗だ」
 独り言のように洞口がいう。
「だって、じいちゃん!」
 抗議するようにいう桐子に、
「翔太君は、語学の才能が人の何倍もあるっていうか。普通の人間が翔太君のまねをしても、決して同じような結果が出るとは……」
 んで含めるように和彦はいう。
「そんなこと、やってみないと」
 と桐子は、まだぐちゃぐちゃいっていたが、突然、
「この前、源ジイは金玉って叫んでいたけど。翔太、あんた、そんな言葉まで英語でいえるって、どういうことよ」
 とんでもないことをいい出した。
「アメリカ映画のセリフには、スラングがよく使われるから、それで自然に頭に叩きこまれて」
 恐る恐るといった調子で翔太が答えると、
「じゃあ、、金玉って英語で何ていうか教えてよ、翔太」
 唇を尖らせていう桐子に、洞口がぱかっと口を開けた。
「それは単なる、ボールっていう……」
 恥ずかしそうに翔太は口に出す。
「そんなの、スラングぽくない。ちゃんとした言葉を教えてよ、金玉の」
 桐子がむきになったように金玉と叫んだとき、
「あっ!」
 と川辺が声をあげて入口を凝視した。
 その声にみんなが視線をそちらに向けると、見知った顔が入ってきた。先日、欧米グループともめていた、南米グループの面々だ。肩で風を切るようにして歩いてくる。南米グループとおっさんグループの目が、ぴたりと合った。
 南米グループがにまっと笑った。
 どうやら覚えていたようだ。
 笑いを浮べて和彦たちの前を通った。
 こちらを見ながら、手をひらひらさせている者もいた。あいきょうがあるといえばそうもいえるし、舐めきっているといえば、そうもいえた。
 南米グループの面々は奥の席に納まった。
 もう一度こちらを見て、にまっと笑った。   (つづく)