第二章 否認〈承前〉

「ああ、マスコミね。家に帰ろうと店を出たら駐車場のところで、新聞記者に声をかけられました」
黒縁 くろぶち眼鏡 めがねせっぽち、ぐせ男?」
 しょうは自分の髪の毛をつまみ上げた。店内では正太の許可を得るように言ってあるので、駐車場で従業員が出てくるのを待っていたのだろう。
「痩せっぽちって言っても、私らが太りすぎなだけでしょ。確かに黒縁の寝癖頭ではありましたけど」
「私がこうして調べているのも、あの記者にあることないこと書かれたくないからなんです。のりさん、あのことしゃべらなかったでしょうね」
「ストーカーのことですか」
「いや、のりさんが……フラれたことのほうです」
「そんなこと言えませんよ、恥ずかしくて」
「そうですよね、自分の恥になることだからね」
さん、それ言いすぎや」
 紀正のりまさは怖い目でにらんだ。
「ごめん、ごめん。でも本当に、ぐらさんとはめたりしてないでしょうね」
「揉めはせんかったけど、れんがましくてしつこいと思われていたかもしれへん。ほんまに好きやったから」
「私がいているのは……言いにくいんですが、彼女に嫌がらせみたいなことをしたかどうかなんです」
 強い口調で言った。
「あほなこと言わんといて。そんなこと絶対せぇへん。パン持って行ってあげたり、ちょっとでも気持ちが変わってくれへんかと、話しかけたりはしたさかい、とりようによってはしい男やと思われてたかもしれへんっちゅうことや」
「のりさん、断られた理由は何やったんです?」
 真理子から聞いているが、やはり本人に確かめたほうがいいだろう。
「自分にはやりたいことがある、夢があるからって言われたけど、ほんまのところは分からへん。というか、俺のこと好きやないだけやろ」
 投げやりな言い方をして小さく息を吐く。
「恨み言とか、言ってないですよね」
 さらに念を押す。
 紀正は床を見て、うなずいた。
「じゃあ、のりさんが小倉さんのことを見てて変わったことはなかったですか」
「思い悩むほどのことは、なかったんとちがうかな」
 そう言ってから、
「あっ、むらさきさん」
 と、紀正がつぶらな目を向けてきた。
「あの婆さんと」
 紫と呼ばれているのは、きぬという近所の女性だ。七十四歳ながら派手な服装をして、何色かのウイッグを使い分けていた。白と黒、茶までは分かるが、紫の髪の毛で現れたときは、さすがに目を引いた。
 そんな格好だから目立つにもかかわらず、絹は妙な悪戯いたずらをする。例えば日用品が陳列されている場所に、惣菜そうざいや和菓子、焼き魚のパックを置いたり、レジ周りにある乾電池などを豆腐やあげなど大豆製品の棚にまぎれ込ませたりする。
 月に一度依頼している万引きGメンが、それを発見して注意した。万引き常習犯が、めぼしい品をバスケット(レジカゴ)に入れずに手に持っていて、隙を見て自分が持参したエコバッグに投入することがある。その途中で監視の目に気づくと、手にしていた商品をところ構わず置いていくからだ。場違いな商品は、万引き犯が店にうろうろしているサインのようなものだとGメンはいう。
 みんなで「紫さん」と呼んで、絹の来店を知ると、注意を払っていたけれど、いまだ万引きの尻尾しっぽをつかんではいなかった。
「ひと月ほど前くらいやったかな、ちゃんと、ちょっと揉めたことがありました」
「紫さんが、また悪戯したか」
「酢豚の横に、食器洗いのスポンジを置いていったみたいです」
「相変わらず迷惑だな」
「ほんまですわ。それを見た由那ちゃんが飛び出してきて、注意した」
「あの大人しい小倉さんがね」
「そうです。『すみません! お客さん』って呼び止める声がしたから、店からのぞいたんです。年寄りでも、最近は気ぃつけんと刃物でも持ってたら大変やから、心配で近寄っていった」
 絹の背丈は由那と変わりはなかったけれど、小太りで体重には相当な開きがある。暴れられたら、いくら若い由那でも押さえられないだろうと、紀正は絹に手が届くくらいまで近づいて、惣菜を見るような態度をしながら聞き耳を立てていた。
「ほな紫さんが、言いがかりやって、食ってかかった。由那ちゃんは、いま奥さんが置かれるのを見てましたって、言ったんですわ、優しくね。そしたら今度は、証拠を出せって、詰め寄って……由那ちゃんが黙ってしもた」
 これはいけない、助け船を出そうと紀正がさらに一歩絹に近づいたとき、
「ああ恐ろし。こんな店、惣菜に何入れられてるか分からへん。あんた、覚えときよし」
 と捨て台詞ぜりふを吐いて、紀正の脇を通り抜けて行ったという。
「何てことを言うんだ」
 店の人間からすれば、一番言われたくない言葉だ。
「ひどいですやろ? 由那ちゃんがもの凄く悲しい目で、紫さんの行ったほうを見てたんを思い出しますわ」
 と紀正は半分泣きべそになって、惣菜部に目をやった。
「そんなことがあったんですか」
 警備員の桑山くわやま三郎さぶろうからの報告書にはなかった。
「いつもの悪戯やし、由那ちゃんに危害を加えたわけやないからね。警備員さんにも言わへんかったんです」
「でも覚えておけっていうのはひっかかります」
「私らの知らんところで、イケズされたかも。あの婆さんやったらやりかねへん」
 紀正は悔しげに顔をしかめた。
「その後、紫さんは?」
「そう言えば、見てないな。由那ちゃんが亡くなって、ちょっとくらい反省してんのかな」
逆恨さかうらみで嫌がらせをしていたかもしれませんね。それにそのことを小倉さんが気に病んでいたってこともあるかも」
 みんなの話から、彼女の真面目な性格が分かってくる。そんな彼女が絹の言葉を受け流すことができたかどうか疑問だ。
 何入れられているか分からない──。
 食品を扱っている人間にとって、これほど辛辣しんらつで嫌な言葉はないからだ。正太自身も、紀正の口からそれを聞いたとき、ドキッとした。同時に、いちいち反応してどうするんだという熊井くまい叱責しっせきが聞こえてくる気がする。
「あの婆さんが何かしたんやったら、許せへん」
 紀正が奥歯を噛むのが分かった。
「妙なこと考えないでくださいね。今回の件は、私のほうで警察と連携して調べますから。お願いしますよ」
 と念を押したが、無論、警察に報告することなどない。とにかくできるだけはやく、由那の死が店と関係なかったとはっきりさせたいのだ。長引けば、それだけ店の評判にも響くし、光田みつたの興味も引いてしまう。マスコミが出入りすれば、熊井との提携ていけいとどこおってしまいかねない。いや、熊井に見捨てられる恐れがあった。
 零細れいさいスーパーマーケットから脱皮だっぴして、親父に自分のやり方が正解だったと認めさせるチャンスを失いたくない。
 正太は紀正と別れると、二階の事務所に戻り、四畳半ほどの警備員室にいる三郎を訪ねた。
「サブちゃん、ちょっといいかな」
「由那さんのことでしょう?」
「どうして分かったの」
「モニターで、名田さんがのりさんと話してたの見てたんで、ピンときました」
 と四台の防犯カメラモニターの前に座る三郎が微笑ほほえんだ。
 三郎は、親父の大阪に住む友人の息子で、今年二十六歳になる。テレビドラマのシナリオライターになりたいと勉強中だった。大学時代に応募したドラマシナリオが佳作に入ってその気になったが、仕事の依頼はこなかった。執筆に打ち込むために就職もせずぶらぶらしているということで、父親がうちの親父に泣きついてきた。
 住むところと食事があれば、時給アルバイトの待遇たいぐうでいい、という条件で働いてもらっていた。若いし飲み込みも早く、バックヤードのはんにゅう作業や店内陳列ちんれつなど警備以外の仕事も手伝ってくれるので従業員からも信頼されている。そう言えば、三郎も由那と同じアパートに住んでいる。確か向かいの部屋だったはずだ。
「サブちゃんも、のりさんが小倉さんに思いを寄せていたこと、知ってたんだ」
 椅子に座りながら言った。
「警備してれば分かりますよ。のりさんの惣菜部への視線、熱いっすから」
「そうか、じゃあ小倉さんのストーカーのことも?」 
「もちろん。悩んでたのも」
 三郎は、アパートの外に男の人がいないか見てほしい、と由那から頼まれたことがあったと言った。
「休みの日に俺がアパートに戻ってきたら、仕込みの間の休憩で部屋にいた由那さんがドアから顔出して、これから店に戻るんだけど、外の様子を見てほしいって。そしたら、いたんですよ、あのおっさんが。俺、惣菜を買いにくるあいつの顔知ってたから」
「で、どうした?」
「私服だったんだけど、これに着替えて」
 三郎は制服のエンブレムをつまんで、
「睨んでやったら、自転車に乗って行っちゃいましたよ。気が弱いおっさんだから、何もできないと思うって、由那さんには言ったんだけど」
 と続けた。
「自宅を知っていたんだ」
「後をつけてきたんじゃないですか」
「いやね、のりさんが、小倉さんはそのストーカーのことで悩んでたって言うんだよ」
「そんで自殺って、どうかな。由那さん優しすぎて相手のことを思って気を病むところありますけど……。夢を持ってたのに、ストーカーくらいで自殺するとは思えないな。いざとなったらこんな……ここを辞めて、引っ越せばいいんですから」
 こんな店、と言いかけたのが分かった。
「夢か。のりさんもそんなこと言ってたな。何をやりたかったのか聞いてたの?」
 由那は三郎より八つも年上だけれど、店では歳が近いほうだ。同じように夢を持っている三郎には話しやすかったかもしれない。
「料理研究家になって、名前を売ってから、自分の店を出すって言ってました。俺の脚本家の夢とどっちが大それた夢か、なんて冗談言ってたのに」
「研究家に、自分の店か。といっても、このご時世だからな」
「俺の夢のほうがハードル低いでしょう?」
 苦笑する三郎には答えず、
「小倉さんと紫さんが揉めたのは知ってる?」
 と正太は訊いた。
「いや、知らないです。あのお婆ちゃん、また何かやったんですか」
「いつものことだ。また勝手に商品を移動させてね。ちょっと防犯カメラの映像確認したいんだけど、付き合ってくれ」
 とうがどんな風貌ふうぼうなのか、絹がどんな態度をとったのか、光田に知られる前にあくしておきたかった。




     3




「尾藤さん、尾藤ひろしさん。どうぞ中へお入りください」
 けいろうが診察室で待ち構えていると、澄子すみこの声が聞こえた。棚辺たなべ春来はるき以来の新患だ。
 ドアを開き、澄子と共に小柄な男性が入ってきた。あごが細く、輪郭りんかくは逆三角形で、眼鏡の奥の目がおびえているように見えた。
「よく来てくださいました、本宮もとみや慶太郎と申します。さあ、どうぞお掛けください。さて、いま一番お困りなのは何でしょう?」
 慶太郎はいつものようにタブレットを用意する。
 尾藤は初診アンケートに名前と年齢四十歳としか書いていない。けんしょうえんが痛み、文字が書けない、と訴えたようだ。
「眠れないんです、一睡いつすいもできない」
「それはどれくらい続いていますか」
「二週間になります」
「それは長いですね」
 驚かずに言った。眠っていないと主張するクライアントは多くいる。そしてそのほとんどが患者の勘違いであることを知っていた。知らないうちに眠っているものだ。
 そもそも断眠は五日程度が限界で、世界記録と言われているものでさえ一一日間だと聞いたことがある。いずれしても一四日間、眠らなかった人間がここまで歩いてこられるはずはない。ただ、気分障害、いわゆるうつ病の患者の多くに睡眠障害の症状があるから注意が必要だ。
「仕事にも行けず、有給をとってますが、それも今日までなんです。何度も自転車に乗ったんですが、駅前を一回りするのがやっとで……何度かここの前を通ってまして、きれいなクリニックだなと。僕、何を言っているんでしょう? とにかく何もかもが限界なんです。先生、助けてください!」
 尾藤はテーブルに手を突いた。
「尾藤さん、勇気を出してよくここまでこられました。一歩前進していますよ。まずは、あせらず、ゆっくり最善の方法を私と一緒に考えていきましょう。眠れないという他に、何かお困りのことはありますか」
「手首、腱鞘炎がひどくなったのと、腰が痛くて、自転車にまたがるのも一苦労です。それと急に耳鳴りがしたり、めまいも起こります」
 うつ病の身体症状と合致がつちしていた。
「食事はどうですか」
「食欲は、まったくきません。このところはパンばかりをかじってます」
「ご家族は?」
「一人暮らしです」
 尾藤は東京出身で独身、大阪を経由して三年前に精華せいかちようの研究所へ転勤してきたという。
「お仕事は何をされているんですか」
「学研都市研究所にある東松とうまつ電工で経理を担当しています。学校を出てから経理畑一筋です」
「東松電工で経理、ですか。これまで相当な努力をされてきましたね」
 会社での過剰ストレスが原因かもしれない。ただ決めつけては判断がにぶってしまう。
「先生、僕は会社に不満はありません」
 尾藤は、慶太郎の考えを読み取ったようだ。常に相手の出方を探ろうとして、神経をすり減らしているタイプかもしれない。他者配慮はいりよ性、対人びん性あり、とタブレットに記入した。
「病歴をうかがいたいのですが」
 診察前に澄子が行ったデータは血圧が上一五三、下九七、心拍数八〇、呼吸数二〇。体重が標準よりも約一〇キログラムほど足りない。血圧は高血圧の範囲に入るが、寝不足を考えれば心配するほどでもない。
「特に持病はないです」
「入院歴もないですか」
「ないです。風邪とかインフルエンザで近所の医院に行ったくらいしか」
「心臓病や糖尿病、けいれん発作ほっさ、精神疾患しっかんわずらった血縁者はいらっしゃいますか」
 遺伝性の身体疾患、精神疾患がないかを確かめておく。
「父親が糖尿です。その他の病気にかかったという話は聞いたことないです」
「眠れなくなったのは、二週間前ですね」
 クライアントが口にした数字には根拠がある。
「大切な人が……、大事な人が、亡くなりました」
 尾藤は途中から涙声になり、語尾はほとんど聞き取れなかった。
「それはお辛かったでしょう」
 重大な喪失そうしつがあった場合、強いあいによって、尾藤のような症状が出ることがある。必ずしも病気とは言えないけれど、その引き金になることもある。
「それも先生、自殺だっていうじゃないですか。僕のせいなんだ、僕が悪いんです。僕なんか」
 尾藤は、テーブル越しに慶太郎の腕をとって大きな声を出した。
「尾藤さん、ご自分を責める気持ちは分かりますが、いまはそのときではありません」
 自己否定は「自殺念慮ねんりょ」に直結してしまい、自殺の連鎖れんさを生む。できるだけ早い段階で、その危険性だけは取り除かねばならない。
「思い込みなんかじゃないんですよ。本当に僕が……」
「尾藤さん、深呼吸してみましょう」
 慶太郎は、自分と一緒に大きく息を吐くよううながす。それを何度か繰り返すと尾藤も深呼吸し始めた。それを確認して、
「そのように思う方が多いんです。でも自分を責めても何も始まらない。大切な人が亡くなったら、誰でも、悲しくて眠れなくなりますし、体のあちこちに痛みが出るものです。自然な反応なんですよ」
 と言った。
「先生、僕は、自分の体や心を治したくてここに来たんじゃないんです。彼女のために何をしてあげればいいのかが聞きたいんです。それを終えれば僕なんてどうなってもいい。ただ、会社にも迷惑をかけたくないから。すみません、滅裂めつれつで」
 と髪の毛をかきむしった尾藤の側頭部そくとうぶ円形脱毛症えんけいだつもうしょうができていた。彼の苦しみがひしひしと伝わってくる。
「亡くなった方のことを話せますか」
 いまはICレコーダーは使用しない。
「結婚を考えてました」
「婚約者ですか」
「まだそこまではいってません。彼女はやりたいことがあるんです。しばらく時間が必要だった」
 尾藤がその女性と会ったのは三カ月ほど前だった。経理の仕事はミスが許されない。いつも神経をとがらせていなければならなかった。嫌いな仕事ではないけれど、疲れが溜まって出勤したくない朝もある。
「そんなときです、彼女の姿を見たのは。自転車で会社に向かうんですが、出勤せずこのままどこかへ行ってしまおうかって、いつもは通らない道をうろうろしてたんです。そしたら、田んぼの畦道あぜみちに彼女が立っていた。言葉を交わしたわけでもなく、不思議なんですが姿を見ただけでパッと心が晴れたんです」
 尾藤は笑いながら、目に涙を溜めている。
「ほう、それは素敵な人だったんですね」
「そうです、素晴らしい女性なんです。そのとき思ったんです。この女性が自分のそばにいてくれれば、どんなに毎日が楽しいだろうって」
一目ひとめれ、ですね」
「そんな軽いものじゃない。ずっとずっと昔から、つながっているような存在です」
「運命的な出会いだったんですね。それからどうされました?」
 一度悲しみを吐き出してしまわないと、「喪失の反芻はんすう」といって、何度も失ったことを繰り返し思い出してはたんにくれることになる。そうすることでうつ病を誘発ゆうはつする危険があるのだ。最大の喪失感を抱いたときは、目の前に理解者がいることを体験してもらう必要があった。
「ええ、結婚を申し込みました」
「交際を申し込んだのではなく、結婚を?」
 出会ってから三カ月でプロポーズはせいきゅうすぎるが、そんな例がないわけではない。
「ちゃんとプロセスを踏みましたよ。何度も手紙を出しました。そして何度目かの封書に、私の略歴と住所、氏名年齢を記し、正式に結婚を申し込んだんです」
「文通の後にプロポーズされた」
「文通なんて僕たちには必要なかった。ほとんど毎日会ってましたから」
「会っていた? デートを重ねていたということですね」
「デート……そうかもしれません。顔を合わせて言葉を交わしていたんですから。どちらにしても僕にはまつなことです。会うたびにこのを幸せにしなければ、という気持ちが大きくなっていきました。だから思い切って結婚を申し込んだんです」
「しかし、彼女にはやりたいことがあった?」
「こんなことになる前に、やはり結婚しておくべきだった」
 尾藤はひざこぶしで何度も叩く。
「ちょっと待ってください。やりたいことがあると言って結婚を先延ばししたのに、どうして亡くなったんでしょうね」
「職場のいじめです」
 と尾藤が断言した。
 その口調に違和感をもった慶太郎は、
「いじめられていると、彼女が言っていたんですか」
 と確かめないではいられなかった。
「彼女は、そんなことをはっきり言うような人じゃありません。だけど職場の人たちの彼女への接し方を見てれば分かるじゃないですか、そんなこと」
 尾藤は泣き声を出していた人間とは思えないほど、物知り顔のしっかりとした口調で言った。
「彼女の職場の様子をご覧になったんですか」
「ええ、毎日」
 屈託くったくのない笑顔で答えた。
「彼女はどういった仕事をされていたんですか」
「お店で調理をしているんです。夕方の決まった時間には、こしらえたものを販売もするんですよ」
「調理して販売ということは、お弁当屋さんか何か?」
「いえ、おかずだけですね。これがなかなかうまいんです。僕の夕飯はいつも……彼女が亡くなる前までは」
「彼女の死が自分の責任だと思うのはなぜです? 何か心当たりがあるんですか」
「それは僕に強引さがなかった結果、仕事を続けることになったからです。やりたいことは僕の妻になってからも実現できるんだから無理矢理にでも結婚すべきだった。彼女の意志を尊重し過ぎたんです。なんて馬鹿だったのか。悔やんでも悔やみきれない」
 尾藤の言っていることは、相手のことをおもんぱかっているようで、実は自己中心的な解釈だ。ストーカーによく見受けられる症状だった。
 ある精神科医は、ストーカーを「しゅうちゃく型」「求愛型」「一方型」という呼び方で分類した。その分け方でいけば、尾藤はあきらかに求愛型に入る。この型のストーカーは、自分の気持ちを伝えれば必ず相手は理解してくれると思い込む。だから自分の気持ちを伝えさえすれば上手くいくと勘違いするのだ。フラれたとしても、誤解しているだけ、必ず分かってくれると信じているから、何度でも告白する。そこから付きまといが始まっていく。
 つまり最初にきっぱりと断らない限り、ストーカー行為は続くということだ。尾藤は思い込みが激しいようだ。女性は断ったつもりだったかもしれないが、「やりたいことがある」という曖昧あいまいな言い方をしたせいで、尾藤はストーカーの加害者となったにちがいない。その上いまは、うつ病の症状が出ている。難しい治療となりそうだ。
「彼女を幸せにするはずだったのに、それができなかったことを後悔しているんですね」
「職場から引きずり出せばよかったんです」
「大人の女性です。そういうわけにもいかないでしょう」
「いじめを注意しなかったことも悔やまれる」
「あなたは外部の人間です。それも難しかった。また、いじめによって自殺することを予見するのは困難です」
 できることはやった、それ以上はできなかったと思わせることで、せきの念を弱めていく。
「私の申し出を断ったのは、あの女のせいかも。それ自体がいじめだったんですよ」
「あの女というのは、彼女の職場にいる方ということですか」
「そうです。なんやかやと指示を出してました。二言目には由那さん、由那さんって」
「由那さん!」
 慶太郎は声を上げて、尾藤を見た。
                                                〈つづく〉