広岡浅子 記事トップ

転んでも転んでも立ち上がる それが広岡浅子です

転んでも転んでも立ち上がる それが広岡浅子です

 この秋から始まった連続テレビ小説「あさが来た」。幕末の京都に生まれ、大坂おおさか豪商ごうしようとついだヒロインが、旺盛おうせいなチャレンジ精神で明治の動乱を切りけ、女性実業家として成長していく物語だ。出演者は主人公の今井(白岡)あさ役に波瑠はるさん、夫・白岡新次郎役に玉木たまきひろしさん、あさの姉・はつ役に宮﨑あおいさんなど。「朝ドラ初のちょんまげもの」「裕福ゆうふくな豪商の家を再現した豪華ごうかセット」など、見どころが多く、おおいに注目されている。
 ドラマの原案『小説 土佐堀川』を書いたのが、作家の古川智映子さん。大同だいどう生命や日本女子大学の創立に貢献こうけんした広岡浅子の生涯を調べ、1988(昭和63)年に小説として発表した。出版後まもなく、ラジオドラマや舞台化ぶたいかもされた作品だが、「日本の朝の顔」になることで、今再び脚光きやつこうを浴びている。

女性の生き方を模索もさくし、広岡浅子と出会う

「27年も前の作品がNHKの朝ドラになるなんて。本当にびっくりしました。この本はデビュー作でもあり、苦労して書きあげた作品。何があっても絶対に負けない広岡浅子の生き方を、たくさんの方に知っていただける。こんな喜びはありません」
 と感無量かんむりよう面持おももちだ。
 子どものころから本が大好き、書くことが大好きだった古川さん。国立国語研究所勤務、私立高校の国語教師を経て、知り合いからの依頼いらいで地方紙などにエッセーや児童文学を書いていた。本格的に作家をめざしたのは、ある出来事がきっかけだった。
結婚けつこんしてからは、家庭を第一に考えていました。いい家庭をつくろう、夫の仕事がうまくいくように支えよう、と。小さいけれど、純和風のすてきな家も建てた。それほど大切にしていた結婚生活なのに、9年ほどで破たんしてしまって。32さいのときです」
 積み重ねてきたものを失い、これからどう生きていけばいいのか、途方とほうに暮れた。自暴自棄じぼうじきになりそうになる自分を懸命けんめいおさえ、生きる意味を考え直した。すると、いろいろな女性の生き方を勉強してみたいという思いがいてきた。そこで手にしたのが、女性史研究家があらわした『大日本女性人名辞書』。日本で初めての女性人名辞典として1936(昭和11)年に出版されたものだ。古川さんが買い求めた復刻版には、さまざまな分野で活躍かつやくした2000人以上の女性が紹介しようかいされていた。そのなかの一人に広岡浅子がいた。
「初めて聞く名前だし、たった14行の記述しかなかった。でもほかの女性たちと比べて、何か新しいものを感じました。とくにかれたのは『炭鉱たんこう
経営では、ピストルを懐中かいちゆうにして坑夫こうふらと寝起ねおきを共にした』というところ。いったいどんな女性だったんだろう? この人のことを書いてみたい! と思ったんです」
 女性実業家の草分けとしてめざましい活躍をした浅子だが、じつはその存在はあまり知られておらず、歴史にもれていたと言っていい。古川さんが調べ始めたときも、手掛てがかりはほとんどなかった。出身である三井家のことを調べれば、何か見つかるのではないかと、三井文庫(東京・中野区)を訪ね、文献ぶんけんを当たった。
「そこで広岡浅子の名前を見つけたときの喜びは、忘れられません」
 浅子を紹介する本を見つけては、著者に手紙を書いて資料を送ってもらったり、ゆかりの人を紹介してもらったりした。大同生命の本社(大阪市)にも足を運び、浅子にかかわる資料を見せてもらった。
「取材のため、埼玉の自宅から大阪や京都へ何度も通いました。といっても余裕よゆうはなかったので、安いユースホステルにまって、朝はあんパンを食べて早くから出かけ、米市場のあとなどを見て歩きました」
 自宅のかべに白い模造紙もぞうしを張って、浅子の年表を作成。自らの足で丹念たんねんに調べ、取材を重ねて明らかになった事実を少しずつ年表に書き入れていった。
「資料としてもっともたよりになったのは、浅子が亡くなる直前に出版した『一週一信』という本。そこにつづられている自身の生い立ちや信念を語る言葉からは、強さと優しさがにじみ出ていました。そのひと言ひと言から人物像をつかんでいきました」
 幕末から明治にかけては、幕藩体制ばくはんたいせいが終結し、貨幣かへいが円、せんりんに変わるなど日本の経済が大きく変化した時期でもある。金融業きんゆうぎようを手がけた浅子を書くには、日本経済の変遷へんせんを知っておく必要があった。そこで、古川さんは近代以降の日本経済史にくわしい学者を訪問。すすめられた本は何十冊にもおよんだが、それをすべて読みんだ。

執筆中しっぴつちゅうはげまされた「九転十起きゅうてんじゅっき」の精神

 京都から大阪北西部を流れてきた淀川よどがわは、南へ分岐ぶんきして、中之島なかのしまと出合うところで二手に分かれる。北側が堂島川どうじまがわ、南側が土佐堀川。江戸時代、沿岸には各藩かくはん蔵屋敷くらやしきが建ち、全国から米や産物を運ぶ船でにぎわった。中之島周辺は、大阪経済の中心地だった。
 土佐堀川に面した通りには、いくつもの両替商りようがえしようがあり、浅子がとついだ加島屋かじまやも豪商として知られていた。ここで浅子は、女性でありながら商売の才覚さいかく発揮はつき窮地きゆうちおちいった商売を救い、九州での炭鉱業に乗り出し、両替商から銀行への転換てんかんを果たし、さらには新しい生命保険会社を船出させる。
 古川さんは、躍動感やくどうかんあふれる筆致ひつちでいきいきと浅子をえがく。しかし執筆の間、幾度いくどとなく病魔びようまおそわれた。あるときは緑内障りよくないしようにかかり、ペンを持てない時期もあったという。何度も執筆をあきらめそうになったが、負けそうな心をふるい立たせてくれたのは、浅子の座右ざゆうめいである「九転十起」だ。
「七転び八起きより2回も多い。これが浅子の精神です。どの事業も、簡単に成功したものはなかったし、彼女かのじよ肺結核はいけつかくや乳がんなど、死に及ぶほどの病魔との闘いが何度もありました。それでも、転んでも転んでも、必ず立ち上がる。そして、いったん決めたことは、どんなに苦労してもやりく。そんな浅子の生き方に、私は本当に勇気をもらって、小説を書きあげることができたのです」

次代をになう女性たちの育成にも力をそそ

「明治の女傑じよけつ」と呼ばれた浅子だが、けっして商売一辺倒いつぺんとうではなく、未来を見つめ、これからの青年や女性のために尽力じんりよくした一面も持つ。
 教育者の成瀬なるせ仁蔵じんぞうから「女子の高等教育を行う女子大学をつくりたい」と賛同を求められたとき、浅子はその熱意と意義に感動。みずから寄付するだけでなく、政財界の有力者を説得して協力を取りつけ、1901(明治34)年、日本初の女子大学である日本女子大学設立を果たす。
 商売の第一線から退しりぞいた晩年ばんねんは、個人的にも若い女性の教育にいそしんだ。1914(大正3)年から亡くなる前年まで、静岡・御殿場ごてんば別荘べつそうに約20名を集め、夏季講習会を開催かいさい。そのなかから、婦人運動家から政治家になった市川いちかわ房枝ふさえ、児童文学作家・翻訳者ほんやくしやとして『赤毛のアン』などの作品を世に送り出した村岡花子むらおかはなこをはじめ、さまざまな分野で活躍する女性が誕生たんじようした。
「浅子は講演会などの場で『小我しようが(自分のためにしたいこと)に固執こしつせず、真我しんが(社会のためになすべきこと)を見つけなさい』と語っていました。彼女の実績と信念が、受講生たちをおおいに触発しよくはつしたのだと思います」
 1919(大正8)年1月、浅子は数え年71歳でこの世を去った。それから100年近い年月が流れ、日本や大阪の状況じようきようも大きく変わったが、浅子が築いたいしずえは今も歴史をきざんでいる。
「浅子は自分がえらくなろうとか、女性実業家として有名になろうなどという考えは微塵みじんもなかった。ただただ、社会に貢献できる商売をするという一点に全精力をかたむけて生き抜いたのです。つねに自分をみがき、すべてを自己成長のかてにする。また、いつも他者への思いやりとこまやかな心配りは忘れない。そして自分がなすべき役目は、どんな困難こんなんがあってもやりげる。そんな輝く女性の先駆者とも言える浅子の人間像が、現代にも大きな示唆しさを与えてくれると思います」
 ドラマでは、夫婦愛や家族のきずな、明治の偉人いじんたちに支えられながら成長していく主人公が描かれる。元気なあさに会うのが楽しみだ。

(2015年『パンプキン』10月号より転載)

関連書籍紹介

『“あさ

『“あさ"が100倍楽しくなる 「九転十起」広岡浅子の生涯』 古川智映子監修

潮出版社ホームページでのご購入はこちら
Amazonでのご購入はこちら

連続テレビ小説「あさが来た」

放送予定…2015年9月28日~2016年4月2日 原案…古川智映子『小説 土佐堀川』 脚本…大森美香 出演…波瑠、玉木 宏、風吹ジュン、近藤正臣、宮崎あおい ほか
「あさが来た」公式サイトはこちら
top
Copyright © 2015 USHIO PUBLISHING CO.,LTD. All Rights Reserved.