第二章 否認〈承前〉

 の実家を見つけられないまま、けいろうを乗せた列車はほどなく綾部あやべ駅に着いた。
 ホームに降り立つと、十月のなかばとは思えないほど風が冷たかった。綾部市も山に囲まれているが、せいちょうよりも気温が低いようだ。真冬ともなれば、底冷えするにちがいない。
 慶太郎が降りた列車は、山陰本線をそのままふくやま駅、そして城崎きのさき温泉駅へと向かって走り去った。
 それを見送り駅舎を出て、再び地図を見る。ここからは住所検索で位置を確認したほうがいいだろう。ナビゲーションアプリのルート案内のボタンを押す。
 由那の実家、すなわちぐら家の住所へのルートを示す黄色いラインが画面上に表れた。
 小倉家への道は、山陰本線を京都方面に引き返すように伸びていた。慶太郎はルート案内に従い、線路沿いの道を歩く。
 一つ目の踏切で、線路が二手に分かれているのが分かった。山陰本線と併走しているのは舞鶴まいづる線だ。
 小倉家が隣接している線路は舞鶴線のほうで、慶太郎が乗っていた列車からは見えるはずはなかった。
 時折強く吹く寒風にコートのえりを合わせ、二つ目の踏切を右折した。その辺りで、タブレットをかばんにしまう。
 路地を曲がって小倉家の表札を探しながら路地の奥へと向かうと、三軒目がそうだった。コートを脱ぎネクタイを直して名刺入れを手にした。
 門があり、二メートルほどの前庭の先に玄関があった。典型的な日本家屋で、豪邸とまではいかないけれど立派な屋敷だ。
 腕時計を見ると、まだ九時半にもなっていない。初めて訪問するのには少し早い時間だと思ったが、思い切って呼び鈴を鳴らした。返事はなかった。
 電話番号が分からず、事前に連絡していないのだから仕方ない。慶太郎は近所を歩き、由那が目にしていたであろう風景を見て回ることにした。
 路地の奥へと向かうとさらに道幅がせまくなっていく。小倉家から六、七軒ばかり行くと小さな畑があった。
 畑の向こうに線路が見えた。つまり家並みの裏手に舞鶴線が走っているということになる。
 小倉家の間取りは分からないけれど、裏窓があれば列車が見えるだろう。
 由那は、子供の頃から走る列車を間近で見て、レールの響きを聞いて育ったはずだ。ハッピーショッピーに勤めてから、休憩時間に近鉄電車を眺めていたのはきょうしゅうだったのかもしれない。
 そんなことを考えていると、列車が舞鶴方面から近づいてきた。右手からゆるやかにレールがわんきょくしているせいで、自分に迫ってくるかのようにして列車が左手に通り過ぎて行く。それほど列車を近くに感じることができた。轟音ごうおんも、車輪のきしみも、耳というより体全体に伝わってきた。
 この振動の中で、由那の心身はつくられていったのだ。それを体感できただけでも、彼女を知る上で大きな収穫だ。
 由那が通っていたであろう小学校や中学校まで足を伸ばそうと、再び小倉家の前を通って踏切まで戻ろうとしたとき、腰の曲がった高齢の男性とすれ違った。
 路地に入ってきたところをみると近所の住人かもしれない。
「あの、すみません。ちょっと伺いたいのですが」
 と声をかけた。
「はあ?」
「小倉由那さんに、お線香をと思って参りましたが、お留守のようなんです。ご挨拶あいさつだけでもさせていただきたいと思っているんですけれど、おうちのかたはどちらにおいでかご存じないですか」
「ああ、由那ちゃんのお知り合いですか」
 男性は微笑ほほえんだ。
「ええ、そうです」
「まんだ若いのにな、可哀想かわいそうに。大人しい、ええ娘さんやった。由弘よしひろさんの自慢の娘さんでなあ」
「ご両親とも亡くなっているので、お姉さんのさんがこちらに、ご実家におられるとお聞きしたんですが」
「そうです。お姉ちゃんもえろうショックをうけてな。ほんでも今日からお店を開ける言うとったで」
「お店?」
「ご主人と喫茶店をしとんやけど、知らんか。西町商店街にある『とちのき』いうんやが。行ったらすぐ分かりますで」
「そうですか。行ってみます。どうもありがとうございました」
 深々とおをして、タブレットで西町商店街を検索した。
 線路が二手に分岐ぶんきしていた踏切を渡ったところから、商店街のアーケードが見えた。
 商店街を南へ進むと、左手に木製の看板が現れた。木彫りの文字で「とちのき」と読めた。

 L字型のカウンターと、テーブルが四脚のこぢんまりとした店だった。テーブル席も空いていたがカウンターに座った。
 四十ばかりの大柄おおがらなマスターにホットコーヒーを注文する。
 ほどなくエプロン姿の女性がカウンターから出てきて、コーヒーカップを慶太郎の前に置いた。スプーンとミルク、スティックシュガーの他に、小さなクッキーが添えてある。
「とちの実のクッキーです」
 と、よく通る声質の、小柄でほそおもての女性が言った。ショートヘアにぼくな布製のイヤリングが揺れていた。
「あの失礼ですが、小倉由那さんのお姉さんでしょうか」
 慶太郎は立ち上がり名刺を差し出して、続けた。
「由那さんのお勤めだったハッピーショッピーの近くで、クリニックを開いています医師の、本宮もとみや慶太郎と申します」
「お医者さん。由那の……先生ですか」
 彼女はあわててカウンターの中のマスターに名刺を手渡した。二人とも名刺にある〝精神科クリニック〟という文字に驚いたようだった。
「義理の兄の大槻おおつきです。由那が病院に通っていたなんて、全然知りませんでした」
 その言い方に、刺々とげとげしいものを感じた。精神科医がついていながら、自殺を食い止められなかったのかと、いぶかる目に思えた。
「由那さんは、うちのクリニックの患者さんではありません」
「えっ、どういうことですか」
 そう訊いてきたのは麻那だった。
「すみません、ここでは、ちょっと」
 慶太郎は、窓際のテーブル席にいた二人連れの客のほうへ目をやった。
「では、こちらへ。むさくるしいところですが」
 と麻那が案内する。
 一旦カウンターをくぐり、狭い調理台の前を通って奥へ行く。土間の先に四畳半ほどの居間があった。
 麻那はサンダルを脱いで居間に上がり、座布団を出した。
「こんなところですみません」
「いえ、こちらこそ突然お邪魔じゃまして申し訳ありません」
 慶太郎は座布団に腰を下ろした。
「由那さんのこと、ごしゅうしょうさまでした」
 慶太郎は改めて頭を下げた。
「まだ信じられなくて……」
 麻那は涙声だった。
「お察しします。先ほど、由那さんは私の患者ではない、と言いました。実は面識もありません。奇妙に思われるでしょうけれど、本当です」
「はあ」
 麻那はきょとんとした目を向けてきた。
「じゃあなぜ、とお思いでしょう? 今日お邪魔したのには理由があります。実は私の患者さんが、由那さんが亡くなった日に、由那さんの姿を見ていました。それで新聞報道にあるようなことは絶対にない、つまり自殺ではない、と主張しているんです」
 自殺報道で傷つき、心のバランスを崩しているその患者の治療のために、由那さんのことを調べているのだと、慶太郎は言った。
「由那は自殺じゃないって、おっしゃるんですか」
 麻那は身を乗り出した。
「驚かれるのも無理はないです。ご遺族のお気持ちを乱すつもりはありません。お辛いでしょうが、私の話を聞いてください。私の患者さんは、以前から由那さんの姿を見ていて、その日だけ自分に手を振って、ガッツポーズのような格好をしてみせたと言っています。それを自分への励ましだととらえました。だから由那さんは自殺じゃないと信じています。私は医師として、患者さんを治療するために、由那さんが本当に自殺したのかを調べています」
「由那が、その人に手を?」
 麻那は落ち着きをなくしていた。それは「手を振った」と慶太郎が言ったときからだった。
「ええ、ガッツポーズも」
 と慶太郎が言った。
「それは本当に、由那が亡くなった日のことなんですか」
 麻那はかたい表情で訊いてきた。
「そう、聞いています」
「その方はどなたです? 由那の知り合いなんですか」
「患者さん個人のことは、申し上げられませんが、二人は知り合いではありません。ですが、利用する電車の車窓から、毎日のように由那さんの姿を見かけていたそうです」
「その方から由那の姿が見えたということは、由那はいつも線路の近くにいたということですね」
「表情もうかがえるほどの距離に立っていたようです」
「手を振ったのは、その日だけ……」
 麻那は、由那の行動に心当たりがあるという顔つきだ。
「先ほど小倉さんのお宅を訪ねました。ご近所の方にこのお店のことも教えてもらったんです。あなたも由那さんもあの家でお育ちになったんですか」
 と念を押すように訊いた。
「ええ、そうです」
「線路が近く、電車がすぐそこを通過する家で」
 列車が身体の中を走り抜けるような迫力があったと、慶太郎が言った。
「父がJRに勤めていた関係で、できるだけ駅に近い場所に家を建てたと言ってました。生まれたときから列車の音を聞いてますから、慣れっこになってて、旅行なんかでよそに行くと静かすぎて、調子が狂うこともありました」
 その感覚は由那も一緒だったという。
「私は、由那さんが自殺したとすれば、彼女が抱えていた問題を医師として知りたい。そのためには幼少期、由那さんが見たもの、感じたこと、また考えていたであろうことを知る必要があります。仕事の休憩時間に通り過ぎる列車を眺めていた。幼少期の原風景、故郷を思い出していたのではないでしょうか」
「あの子、本当に列車が好きでした。私は学校のテスト前とか、受験勉強の際は耳栓みみせんをしたこともあります。そんな私をあの子は神経質だって笑ってました。それどころか、わざわざ窓を開けて通過する列車を見るんです」
「それほど好きだったんですね」
 鉄道は、由那の暮らしにあって当たり前のものだった。いや、なくてはならない存在だったのだろう。
「私も本当は由那が自殺したなんて信じられません。でももしそうなら、その理由、知りたいです。由那が何に苦しんでいたのか知りたい。先生は、由那が自殺ではないと思っておられるんですか」
 麻那は確かめるような口調だ。
「自殺だと決めるには、違和感があります。とくにメモ書きのような遺書に疑問を持っています」
「遺書とされたメモもご存じなんですね」
 遺体を引き取ったとき、亡くなったときに身につけていたものと一緒に、遺書のコピーだといって渡されたそうだ。
「コピーがあるんですか」
 声をあげてしまった。
「遺書だと聞いたとき、私も変だと思いました。あの子らしくないと」
「らしくない、というのは?」
「紙、です」
「確かに、遺書として残すのにチラシの裏はおかしいですね。私もひっかかってます」
「綾部には黒谷くろたにというところがあって」
「黒谷和紙ですか」
 澄子すみこの母から聞いたことがある。
 へいの落ちしゃが綾部市の北部にある黒谷町で始めたと伝えられ、そこでかれた和紙はとても丈夫で、千年は劣化しないという。趣味で書道をしている義母に言わせると、墨との相性は他のものとは比較にならないそうだ。
「昔ながらの手漉きの和紙は由那のお気に入りでした。なんて言ったらいいのか、文房具の中では一番気にしてるんです。紙とかノートとか。私に送ってくる手紙でも、便箋びんせんをいろいろ変えて」
「紙そのものを大事に思っていたんですね」
「はい、そうです。紙でできたものが好きでした」
 麻那が何度もうなずいた。
「初対面の私を信用しろというのは厚かましいことですが、遺書のコピーを拝見できないでしょうか」
 由那の書いた文字が見てみたい。筆跡には書いたときの心理状態が投影するものだ。
「本宮精神クリニックのホームページで、私の顔を確認してもらっても結構です。電話していただければ、看護師で私の妻の本宮澄子が出ますから」
「いえ、そんなこと。先生がどうして由那のことを調べておられるのかはよく分かりましたし。それにやっぱり自殺とは思えません。でも、もし自殺じゃないとすればどうして……」
 言葉を切った麻那が、体をちぢこまらせるのが分かった。
「とても恐ろしいことですが、誰かが、由那さんを殺害した可能性が出てきます。これは放置できません。きちんと警察に捜査をしてもらわないといけない」
 証拠が集まれば、それを警察に提供する準備はできているむねを伝えた。
「分かりました。ここでお待ちください。家から持ってきますので」
「それともう一つお願いがあります。お姉さんがこれは他人に見せても差しつかえないと判断されたものでいいんですが、由那さんの性格が分かるようなもの、例えば子供時代に描いた絵とか、作文とかがあれば拝見したいんです」
「探してみます」
「精華町の由那さんの部屋はどうなってます?」
「十月いっぱいはそのままにしてもらってますが、今週末にでも、私が整理に行って引き払うつもりです」
「整理をされるとき、私に一報していただけないでしょうか。見ておきたいんです。もちろんできれば、で結構です」
「分かりました」
 と麻那は言うと、慶太郎と店内に戻った。そして、家に帰って由那の私物をとってくると夫に説明し、外へ出て行った。
 慶太郎はカウンターの上の冷めたコーヒーで口を湿らせ、とちの実クッキーを食べた。独特の木の実の風味が口の中に広がり、素朴な甘さにほっと息をついた。




     2




 午後二時半を過ぎるのを待って、しょうはいつものように一服すると、ハッピーショッピーのバックヤードへと入って行った。
 その一角に惣菜そうざい部の調理部屋がある。そこでは五名の女性が調理作業を行っていた。正社員は平岡ひらおかのみで、あとの四名はパートタイマーかアルバイトだった。それでも惣菜の味が均一なのは、亡くなった由那が他の女性を上手く動かしていたからだと、真理子は言っていた。
「平岡さん、そろそろ休憩ですよね」
 正太は、調理器具に肥満した体が当たらないようにしながら声をかけた。
「はい、すぐに」
 調理帽を取り、エプロンを脱ぎながら小走りでこちらにやってきた。
「ちょっと教えてほしいんやけど、小倉さん、男性関係で悩んでいたことがあったの?」
 正太が店の責任として、由那の自殺の原因を調査していることは皆が知っていた。この機会に、よりよい店作りをしようと思う。そのための取り組みだ、と表だっては言ってある。
 実際いじめやハラスメントがあっては困るが、目的は新聞記者の光田みつたに妙なことをらさないようくぎして回ることだ。
「もしかして、のりさん情報ですか」
 ハッピーショッピーの中にあるパン屋の代表がわ紀正のりまさのことを、店の人間は「のりさん」と呼んだ。バツイチの四十四歳で独身、正太ほどではないがあんパンのような体型をした腕のいいパン職人だ。
「うん。自殺の原因は、嫌な男に言い寄られてたからだって言ってる」
「お客さんに、由那さんの大ファンがいたのは事実です。たぶんその人のことを言っているんだと思いますけど」
「違うんですか」
「いえ、その人は確かにちょっと問題があったんです。でものりさんも……」
 真理子が目を伏せた。
「のりさんに何か問題でも?」
 紀正は、明るく、多くの主婦に好かれている印象だ。誰からも彼の悪口を聞いたことはない。
「名田さん、本当にご存じなかったんですか」
 従業員は、親父のことを社長とか店長と言い、正太をさん付けで呼ぶ。
「何も、聞いてないよ」
「のりさん、由那さんにプロポーズしたんです」
「あののりさんが?」
 パン作りに熱心なあまり、妻をほったらかしにしたことが離婚の原因だと、親父から聞いている。四六時中パンのことを考えているような男が、由那に心を寄せていたとは。
「で、結果は?」
「由那さん、やりたいことがあるから、いま結婚なんて考えられないと」
「断ったってことか」
「ええ。だからのりさんの言うことは」
「全面的に信用できない。しかし小倉さんモテるんだな」
「あの子、おしょうとか服装とか地味にしてるから目立たないんですけど、整った顔立ちのべっぴんさんですよ。あの歳まで独身なのが不思議なくらい。まっすぐな性格やし、ただ、すぎるんやと思います」
「まさかその後、のりさんとめていたなんてこと、ないよね」
「どうかな。けど私の知る限りでは、それはないと思います」
 普通に挨拶し、冗談も言い合っており、ギクシャクしているようには見えなかったと真理子は言った。
「そう。平岡さん、その小倉さんの大ファンだった人の名前とか知ってる?」
「ええ。由那さん、手紙受け取ってましたから。とうという方です」
「手紙?」
「惣菜リクエスト箱に、由那さんあてで」
 新メニューの参考にするために、惣菜販売コーナーにリクエストを書いて入れる箱が設置してある。
「リクエスト箱にラブレターか。ずいぶん昭和だな。いくつくらいの人?」
「四十歳です」
 真理子は、由那からどうすればいいか、と相談を受けた際、手紙の中身を見た。そこにはまるで釣書つりしょのように写真と履歴書まで添えられていたという。
「冷やかしじゃなかったんだ」
「本人は至って真面目やったと思います」
 真理子が由那に代わって、何度か言葉を交わしたのだそうだ。勤め先も大企業だから、もし相手が本気なら真剣に考えてもいいのではないかと、アドバイスするほど誠実そうに見えた。
「大企業って?」
東松とうまつ電工です。そこの学研都市研究所に勤務されてます」
「それは凄いな。研究員かな?」
「経理部だって言ってました。銀行マンみたいにきっちりした感じでしたよ」
「じゃあよさそうな話じゃないですか。交際というか、進展はしなかったんですか」
「それが……」
 真理子が言葉をにごし、辺りを気にした。
 検品の人間が数人いたけれど、話が聞こえる距離ではない。
 それでも、念のため正太は声をひそめて訊いた。
「何か問題があったのか」
「ずっと見てるんです」
「見てるって、尾藤って人が小倉さんを?」
「会社にいるとき以外は、お店にきていたようです」
「ストーカーなのか。あながち、のりさんの言うことも的外れじゃないってことか」
「のりさんが言うみたいに、自殺の原因とまではいかないと思いますけど。別に危害を加えるわけじゃなく、ただじっと見てるだけですから」
「気味悪いなあ」
 真理子は大きくうなずいた。


 正太がパンコーナーを訪ねたとき、午後四時前にもかかわらず陳列ちんれつ台にパンはほとんどなかった。
「のりさん、繁盛はんじょうしてますね」
「まあ、当然です。全品、自信作なんやから」
 いつもは豪快ごうかいに口を開けて笑うのに、少しくちびるの両端が上がっただけだった。実は由那が死んでから、品数が減っていると、客からの苦情を聞いている。
「残ったパン一袋にしてもらえますか。夜食にするんで」
「毎度あり。いからって食べ過ぎはあきませんよ。我々肥満児は気ぃつかわないと」
 と紀正は手袋をはめた手で残った菓子パンをビニール袋につめる。
「ねえ、のりさん、ちょっと話せますか」
「また、由那ちゃんのことですか」
「のりさんは、こないだ自殺の原因は男性関係じゃないかって言ってましたよね」
「おかしな目つきのお客がいたんですよ。あれ見てください」
 紀正が顔を向けた先に、惣菜コーナーがあった。
「よく見えますね」
 うまい具合に棚の間から、惣菜を陳列する台が見通せた。
「ガラス越しやけど、ちゅうぼうも見えるんですわ」
「本当だ」
 ガラスの向こうに仕込みをする真理子の後ろ姿があった。
「いつもうちの店の前に立って、あっち向いている男がいたんです。ほんで由那ちゃんに確かめたら、あの子黙ってしもて。これは何かあるなと、平岡さんに聞いた。けどあの人、口堅いからね。そやけど、こう言うたんです。常連さんやからいらんことせんときやって。それで付きまとわれてるってピンときました。こう見えても勘はええんです」
「で、どうしたんですか。まさか」
「何もしてません。いや、もっとちゃんと対処してたらよかったんです。ずっと後悔してるんですわ」
「のりさんは、小倉さんのこと……」
「お耳に入ってしもたか。ええ、好きでした。結婚を申し込んだんですわ。結果も聞いてはりますでしょう、見事ぎょくさいです」
 紀正が苦笑した。
「そのことでめるようなことは?」
「なるほど、由那ちゃんの自殺の原因が、ストーカー野郎ではなく、私のせいやったと思てはるんですね」
「悪くとらないでください、のりさん。店としては、新聞記者がいらんことを書く前に、本当のことを知っておきたいんです。マスコミは小さなことでも、大きくしてしまうんでね」
                                               〈つづく〉