第一五話 生命の執念(完)

 
 負の秘法の正体は〝沈殿物ちんでんぶつ〟だ。
 幸福や善意や安穏あんのん、理性に歓喜、心地良い旋律せんりつ、そして信じる心や勇気。
 人間がそう呼ぶもの、あるいは生物がそんなぬくもりを感じるもの。それらの真逆の事象が心のなかに生まれたとき、それぞれのきっかけで消えたように思えても、実際は行き場を求め、月の向こうのそらで球体状に集合していた。そのもっとも中心にあるぎょうしゅくした沈殿物。それが負の秘法の正体だった。
 それはあるとき突然はじけた。
 悪臭をただよわせていたうわみは太陽に焼かれたが、沈殿物は、意思をもって星々を巡る存在になったり、月の裏側に隠れたり、隕石にまぎれて地球に飛来したり、さまざまな道をたどった。
 人の目に見えなかったり、時に見えたり、その形状は時代や環境に即して常に変化した。
 有り余る負の力によって対象のどんな願いも叶えるが、それは〝叶ってはならない願い〟だった。
 願いそのものがどんなに純粋であっても、秘法が与える結果は、いつも人々を不幸にした。


 とある砂漠で秘法を発見した盗賊が、その力を利用して砂漠の大国の王となり繁栄はんえいした。しかし、一族を除いて多くの者が王によってしいたげられた。
 やがて負の秘法の存在に気づいた勇気ある若者が、いのちけで王に忠言し、その命と引き換えに秘法を封印させる。
 しかし、それから数世代を経て、太った第二皇子が兄とのいさかいを機に封印を解いてしまった。
 彼は永遠の命を手に入れると、次に、大胆にも秘法を他国に明け渡した。
 秘法はいとも簡単に他国の人々を垂らし込み、社会の絆を弱くさせ、大国に隷属れいぞくされるすきを与えた。さらにその不幸から多くの魔女が生まれた。
 紺碧こんぺき色の魔女もその一人だった。
 仲の良い母娘がいた。母親は世界的な舞台女優だったが、戦火のなかで娘を守るために大やけどを負い、そのぼうを失ってしまう。
 母親の栄光を誇りに思っていた娘は、大国へ復讐を誓い、力を求め、魔女になる道を歩み、自らを傷つけ、自らを拷問ごうもんした。
 やがて不幸を追い求める人生に絶望し、魔女となる。
 彼女は毒を操る魔女となり、大王の食事に毒を盛った。
 しかし大王には何人もの毒見係がいたため、殺すことはできず、彼女は処刑されてしまう。
 そして娘を殺された母は、耳と鼻が肥大した紺碧色の魔女となった。
 離れた場所から鼓動の音さえも聞き分け、犬よりも優れたきゅうかくを持つ魔女だった。その力を使って魔女の仲間を探すが、多くが、大王に処刑されていた。
 しばらくして、紺碧色の魔女も鋼鉄のはさみによって首を切られ絶命する。処刑のきっかけは、「大王には、大王になって、絶対に手に入らないものがある。大王はそれを求めている」という謎のうわさを耳にしたことだった……。
 そうして、ある平和な国にも秘法の魔の手が伸びる。
 侵略しがいのある豊かな国であるのと同時に、仲の良い王と王妃おうひが治める国で、国民の家族もまた仲の良い国だった。
 大王は兄を追放して以来、人間らしい感情を抱かなくなっていたが、その国に対しては、どうもかいな感情を抱いていた。
 去勢きょせいした鏡の使者に秘法を持たせ、ゆっくりでも確実に、その国の人々の絆が細くなるのを待ち、最後のとどめに、その国の何もかもを自慢の鋏でジョキンと切り刻むように、分断させてやろう、と大王は考えた。
 大王の計画はうまくいき、その国の男と女は真っ二つに割れ、さらには土地すらも二つに割れた。ゆうきゅうの時間は、子どもの存在や、異性への尊敬の念といった多くの大切なことを忘れさせた。
 しかし同時に、大王すら予想していなかった不思議なことが起きた。
 後に獣の森と呼ばれる、小さな孤島の出現だ。
 そこには、多くの幼児が住んでいた。
 その現象は、厚い雪におおわれた大地に誕生する新芽しんめのごとき、生命の執念だった。
 負の願いによって半永久の命を手に入れた彼の国の国民は、子孫を残すことを望まなくなった。
 妊娠中の女たちは皆宝石病となり、こぶし大の宝石を産んだ。母になれなかった女たちは絶望し、悲しんだが、秘法の作用や、悲しみをいやすとされる雨の教えによって、徐々に子の存在も、そしてそれを失った慟哭どうこくも忘れていった。
 しかしその命の矛盾、悲しみの矛盾は、決して消えていなかった。
 獣の森とは、行き場をなくした生命の森であり、生まれることができなかった小さな命が、森を子宮にして、誕生していたのだ。
 その大地は赤子を奪われた女の慟哭でできていた。
 つまりは島そのものが負の秘法であり、その現象は〝叶ってはならない願い〟だった。純粋で歳を取らない永遠の子どもたちは獣と呼ばれみ嫌われた。
 そんななか一人の変わり者が獣の森の謎に気づいた。涙屋と呼ばれる老人だ。
「獣こそ、男女のあいを埋める、希望の鍵になるかもしれない」
 彼はそうらして、よだれと名づけた小さな少年との意思疎通をはかった。その行いは負の秘法という毒を薬に変えようとする試みだった。


──現在、よだれは不思議な光景を目の当たりにしていた。
 彼は、女の国にある、肌寒くこつな城の、もっとも奥の謁見えっけんの間で、医者の白衣に隠れて男と女のやりとりを見つめていた。
 奥の玉座の左右には一対の鏡があり、玉座には鹿じかを思わせる巨大な冠をかぶった小柄な女が座っていた。
 奇怪で黒々とした冠は、いくつもの糸巻きを重ねたように、無数の糸を伸ばしていた。それは朝顔のツタのように彼女の頭部と天井や壁をつなげていた。
 女の様子はというと青白い白粉が顔を覆い、深紅の口紅が引かれ、一見は幼女にも見えるが、その目はうつろで若さがなかった。
 彼女こそ、女の国の女王であり、七色の魔女をたばねる虹色の魔女だった。
 女王が退屈そうに見下ろす先に、二人の男がひざまずいていた。
 良き友の王と、総理大臣こと代弁者だ。
 それは二人の裁判だった。裁判と言っても、女王が検事と裁判官の二役を務め、代弁者が被告人であり弁護士だった。
 それは男の国の代表である良き友の王を断罪だんざいする、形式的な裁判で、女王は、はじめに男の国が国家として破たんし、もう存在しないことを告げ、女の国の法律で裁判を進めると宣言した。
 代弁者が異議を申し立てたものの、却下された。
 良き友の王と、代弁者が問われている罪は、女の国に対する侵略を計画した罪と、兵器を準備した罪だった。
 裁判のはじめに、良き友の王は立ち上がり、手にまかれた鎖を女王に見せた。
「このような茶番は、やめにしないか?」
 しかし女王は冷たく返した。
「後の歴史に残らないかたちで、首を切られて舌を出して惨殺ざんさつさせることもできるが、せめて歴史の表舞台で処刑してやる。一国の王だった者に対するせめてもの情けだ」
 良き友の王の顔が見る見るうちに赤くなった。
 するとそこに、顔にすすを塗った美しい青年と、医者である錆色さびいろの魔女、そして白衣に隠れたよだれが駆けつけた。
 真実の青年は、治療のために部屋に残り、本物の煤まみれも彼のそばに残っていた。
 女王は一行をちらりと一瞥いちべつするだけで、視線を良き友の王に戻す。そしてポツリとこう言った。
「……後悔は、損失にある」
 誰もが首を傾げる言葉だった。女王は王に向かって続けた。
「この前、貴様を捕虜にしたとき、貴様は、私の心のどこかに、まだ自分の居場所があると思って、のこのこ女の国にやって来たな」
 良き友の王は何も言わなかった。
 女王は手を広げ、そして自身を抱いた。
「男は思い出をわいきょくして美化するが、女が抱く思い出は正確で熱を持たない。よって別れを惜しむ気持ちはない。過ごした時間の損失という、後悔しかない」
 すると、良き友の王がべつした表情で女王にこう返した。
「愚かだな」
 総理大臣がおびえた様子で「お、王よ……」と、止めようとしたが、王は歌うように続けた。
「愚かだ、ああ、愚かでかわいそうな女だ。惨めだ、ああ、惨めでかわいそうな女だ。絶望を知って魔女になるとは、惨めなことだ」
 女王はただじっと王を見下げている。王は続けた。
「絶望など、自分をかわいそうだと思わなければあり得ないだろう。むかーし、俺の隣に座っているころから、お前は小言ばかり言って、うるさかったなぁ。俺は忙しいのに、お前は暇そうにして、果ては魔女を操る魔女になって、他を操るとはさぞ気楽だろうなぁ」
 すると、女王が小さくて赤い唇を歪めた。
「自己中心的で、男の悪いところをぎょうしゅくしたような男だ。
しい、とても女々しい」
「女々しいだとう?」
「昔の話を持ち出して、他者をねたむ。女々しい以外に何がある」
 王はぐきをむき出し、「おう、おう!」とだんを踏む。
 女王は小さく「ふん」と笑った。
「威張りと毛をまき散らしてばかりの生き物。夢ばかり見て現実を見ないからよく転ぶ」
 対して王は、今度は縛られた両手を振ってあおぐ仕草を見せる。
「女の言葉には主語がない。結論もない。何が裁判だ。空転した言葉をその辺に漂わせて、香りだけ振りまいて、ああ、臭い、臭い」
 女王は声を低くさせて返した。
「探し物も見つけられないくせに。何がどこにあるかも知らないくせに、一人じゃ何もできない裸の王が……!」
 興奮した王は、大きく息を吸うと、女王にせいを浴びせた。
「無礼な、知っている、思い出したぞ! 子だ、そうだ、子どもだった、ハハッ! すべては子から始まった!」
 王はそのとき、久しぶりに子の存在を思い出していた。
 そして同時に、かつての妻をじょくした。
「子もできない、出来損ないが!!」
 女王の目が見る見る鋭く、そして冷たくなった。
 それでも王の舌は回った。
「女ですらない、お前は女ですらない! 石を産むとは、石を浮気相手に選んだ物好きが偉そうに!」
「黙れ」
「お前こそ黙れ、偉そうに、跪け! 跪いて謝れ、無礼を、魔女を結集させて刃向かったことを、地獄に堕ちてもまだ足りぬ恥を!」
 その言葉はとても鋭利えいりで、その場にいる全員の胸に突き刺さり、もやもやとしたきりのような不快感を与えた。それは言葉を発した王自身も例外ではなかった。気持ちの悪い沈黙が漂う。
 女王の冠に繋がった糸は、わなわなと震えていた。
 気まずい雰囲気を察してか、王は思わずこんな話をした。
「……あぁ。子が石になって産まれたから、秘法の封を解いたんだったなぁ」
「……解いていた」
 小さく低い声だったが、その真実は王の耳に確かに届いた。
 王はすでに立ち上がり、「何だと?」と女王に耳を向けた。
 女王の小さな唇が繰り返す。
「封はすでに解いていた」と。
「え?」と美しい青年が疑問の声をあげた。
 女王は、重い、とても重い鉛を吐き出すように言った。
「子は、最初からできていなかった。嘘を吐いた。子ができたと」
 青年は女王の言葉を小さく反芻はんすうした。
「子ができたのは、嘘。はじめからいなかった……?」
 王は敵にとどめを刺す武器を手に入れたかのように、揚げ足を取ったつもりで「ハハッ!」と笑った。
「嘘吐きか! お前は、嘘まで吐いていたか!」
 女王は至極冷静だった。しかしその目には涙を浮かべている。
「種なし」
 その一言で、王は「ハ」と笑いを止めた。
 女王は哀れみを浮かべた表情で、かつての夫に言った。
「王には種がなかった」
 良き友の王は膝を着くと、両手を巻く鎖で床を殴り、自尊心を守るように音を立ててすごんだ。
「そ、そんな顔で俺を見るな! そんなはずはない!」
 そこに錆色の魔女が前に出て、両者の間に入る。
 彼女は大きくうなずくと、王にこう言った。
「女王の身体は健康そのものだった。問題があったのは王のほうだ」
 王はぜんとして様子で、目だけをギョロギョロとさせていた。
 すると、隣にいた代弁者が立ち上がった。
「き、貴様、魔女のくせに、お、王を侮辱するか!」
 錆色の魔女が、ただじっと代弁者を見つめる。
 代弁者は一歩彼女に近づき、つばを浴びせた。
「な、何だ、何か言え! 男の国で、王の次に偉いわたしまで侮辱する気か!?」
 錆色の魔女は小さく首を傾げて見せると、信じられないことを言った。
「男の国で偉くなって……母の顔も忘れたの?」
「は、ハハ? はっ?」
 と代弁者は、はじめは何のことかわからなかったが、次第に様子が変わり、ボリボリと頭をきはじめた。
「……え? あれ、あれえ? あれえ?」
 青年もまた唖然としていたが、言われてみれば切れ長な目やわしのような鼻、細身の体型など、その見た目に似通ったところがあった。また二人がいていた靴は先がとがっていた。
 代弁者は、錆色の魔女の顔をまじまじと見つめる。そして記憶の奥底から、どこかに置いてきた言葉を引っ張り出した。
「は、ははうえ? あれぇ? わたしは、この女を母上と呼んでいた気がする……」
 錆色の魔女は、優しい目をして代弁者の傍に立った。
「早くに夫を病気で亡くし、女手一つで育てた。出来の良い子だった。物覚えが良く、正直で、愛国心と勇気があった。だがそれが災いして、国が分かれたとき、王を助けて出世すると、ぶかぶかの私の靴を履いて家を出て行った」
「わ、わたしは、わたしは……!」
 白衣を着たその女性を見ると、代弁者の胸に、熱を帯びたきょうしゅう的な感情が沸いた。その感情は彼の鼻の奥をツンと刺激する。
「次に会ったときは王の隣で処刑を待つ身となっていたけれど……」
 母は、息子をめた。頭を撫でてやった。
「死もいとわずに主君の傍を離れないその忠誠心、偉いと思う」
 その瞬間、代弁者は「うわぁん」と子どものように、声を出して泣いた。
 そんなやりとりを後目しりめに、女王は良き友の王にこう言った。
「……子ができないとき、いつも、女のせいにされた」
 王は代弁者と錆色の魔女の様子を見つめ、皮肉で返した。
「それを妬んだお前は、生意気にも、虹色を名乗る魔女になった」
 女王は立ち上がって、首を小さく横に振った。
「わたしは虹色の魔女に非ず──」
 すると頭部と天井を繋ぐ糸と糸がこすれ合い、げんの悲鳴のように聞こえた。それらは彼女の髪の毛だった。
 髪の毛は一本一本が鋼の強度を持ち、この世のことわりとは別の、不思議な存在として、外にいる他の魔女に繋がっていた。
 女王は大きく手を広げて言う。
「わたしは──どん色の魔女。この無数の糸で、死んだ魔女の遺体を操る、鈍色の存在……」
 王はさきほどまでの様子から一転、恐怖からしゅくした。
 それほど、女王の様子は不気味で、大きな力を感じさせた。
 かつて抱いたその感情が、男の国に大量の銃を運ばせていた……。
 王は渇いた喉を絞り、こう言った。
「そ、その不気味な糸で、わしを殺すのか?」
 そのとき、『ビンッ』と弦をはじく音とともに、女王の糸が数本千切れた。
「ぎゃっ」という悲鳴がだまする。
「お、俺の顔が、顔が!」
 千切れた一本がはじけるようにして、美しい青年の顔に傷を創った。彼はほおを押さえて大きく動揺した。
 錆色の魔女は横目で「かすり傷だね。心配ない」と言ったが、青年はぶつぶつと何かを言って床をにらんでいた。
 代弁者が「あっ」と小さく呟く。
「何だ。煤を顔に塗っているから煤まみれかと思ったら、貴様か……」
 それから女王は、千切れた髪から城の外に視線を移し、王にこう言った。
「あなたも私もすぐに殺される」
「どういうことだ?」
「今、すいの魔女が動かなくなるまで切り刻まれた。大王の軍が近づいている」
 代弁者も、怯えた様子で城の外のほうを睨む。
「だ、大王とは砂漠の国の、鋏の軍を持つ大王か?」
「愚かな人、何も気づいていなかったの?」
 女王は呆れた様子で錆色の魔女に合図を送る。
 錆色の魔女は、負の秘法からはじまった大王の計画を説明した。
「何もかも、すべては彼の国の大王が、我々の国を侵略するために描いた物語だったのさ──」
 ──説明を聞き終えたとき、良き友の王は、奥歯を鳴らして怯えていた。そして、女王を指差して唾を飛ばした。
「そ、それにまんまと引っかかったのは、お、お前だろう!」
 代弁者はというと頭を抱えてその場に伏せていた。
「た、大国には重い鋏を操る精鋭がいると聞いた、魔女すら八つ裂きにするという……こ、怖い、怖い……!」
 王は呼吸を整えて、笑みを浮かべた。
「いいや、待て待て、これはこの場を打開する良い機会かもしれぬ。大王も男だろう。話せば女だけを滅ぼし、我々の命くらいは……」
 すると錆色の魔女が言った。
「砂漠の国の大王は、秘法の影響か、多くのぬくもりの感情を忘れたという。あるのは渇いた砂漠が水分を吸い尽くすようなりゃくだつ。侵略した国の王族に至っては、九つ先の血縁までようしゃなく処刑するという」
 錆色の魔女は最後にこう付け加えた。
「さっきの裁判は、せめてもの女王の情けで変わりない。後の世に残るかたちで、王を処刑してやろうとした」
 王が唖然とするなか、代弁者はさらに頭を抱えた。
「も、もう、すべてが終わりだ。何もかもが終わりだ……!」
 皆が、遠ざかったと思われた死が目前まで迫っていることに、大きく動揺した。
「は、母上、逃げましょう、逃げましょう!」
 代弁者は錆色の魔女の手を取り、さらに女王や王にも言った。
「み、皆で逃げましょう! 逃げられるだけ、逃げましょう!」
「いいや、終わりじゃない。希望はある」
 そう声を張ったのは錆色の魔女だった。
「い、一体、何を?」
 代弁者の疑問に、錆色の魔女はこう続けた。
「負の秘法によって、女の国は愛を失い、冬眠するかのように静かで閑散かんさんとした。そして男の国は、互いをらくさせる友情で動くようになった」
 良き友の王は眉をひそめたが、錆色の魔女は軽い口調で続けた。 
「だから今、同胞の命の、未曾有の危機にもかかわらず、負の秘法によって男女はおろか親子も、土地も、教えも、すべての絆が失われ、反抗すら叶わなくなった」
 錆色の魔女は、美しい青年の後頭部を見つめた。
「しかし、その絶望にあらがうように、両国に突如変化のきざしが現れた。わが女の国には、煤にまみれた女。彼女はあたしを話のわかる奴だと言って、その正体が黄金の魔女の王であることを打ち明けてくれた」
「黄金の魔女の王?」
 と良き友の王が首を傾げる。
「多くの魔女に忌み嫌われる太陽の化身だよ。彼女は負の秘法を破壊するためにこの時代に来たと言っていた。その目的に共感し、以来、あたしは彼女に協力した。引き換えに男の国の変化を聞いた」
 次に錆色の魔女は、代弁者のほうを見た。
「男の国には賢人涙屋と、罪人の面を被った青年が現れた。あらゆる絆を失った国に、新たな師弟の絆が生まれた」
「な、何が言いたいのですか、母上?」
 と代弁者が恐る恐るいた。
 錆色の魔女は胸を張り、王と女王に強い視線を送った。
「涙屋は、こうなることを見越し、あなた方に希望を残した」
「涙屋殿の……希望?」
 彼女の合図で、錆色の魔女の白衣から、一人の少年が現れた。
 錆色の魔女はその少年を、二人に見えるようにかかげた。
「この子だ。この子どもこそ希望であり、あなたたちの子だ」
「その小さな獣が? 何を言っているのかわからないぞ……」
 しかし王はどうを早くさせていた。その子の姿を見ていると、どういうわけか未来が変わるのでないかという高揚感を感じていた。
 一方で、女王がよだれに近づいた。彼女は錆色の魔女に訊いた。
「何を根拠に、この獣が、私たちの子だと?」
「そっくりじゃないか、王に」
 言われてみれば、目のかたちや特に鼻の穴のかたちが似ていた。
「しかしそんなわけがない」
「どの道、わが国の子だ」
 そう言って、錆色の魔女は女王によだれを差し出す。
 女王がよだれを抱いた。
 よだれは「しゅ、しゅ」と女王の首や肩に触れる。
「獣の森は子宮だ。彼ら獣は蒸発した海が地球の反対側で雨になって降るような作用で、負の秘法という悲劇から生まれた道理だった。生まれることができなかった子の生命が、休火山が突然に噴火するようにあそこで生まれたんだ」
 王も女王も、錆色の魔女の語りを沈黙して聞いた。
「涙屋という賢人は、この子に少しずつだが教育を行った。すすまみれが言うには賢いと聞いている」
 そして彼女はこう言った。
「わが子として受け入れることを薦める。一つ目の絆になる」
 王が訊いた。
「一つ目の……絆? では二つ目の絆とは?」
 錆色の魔女は城の外を指差した。
「大王の軍が、われわれの大きな絆になるかもしれない」
 ──少し前から、眠っているはずの、真実の青年の姿は城になかった。 




   魔女を狩る千の鋏



 ──第二皇子は、生まれたときからあごわにのごとき怪力を宿していた。
 乳児でありながら乳母の乳房を食い千切ることがあり、幼いころから悪鬼と恐れられた。
 しかし、その悪評すらも呑み込むほどの大きな器を持った、腹違いの第一皇子がいた。
 身寄りのない子どもたちが、路上で大人にしいたげられている光景を見て、第一皇子は少年少女と徒党を組み大人たちに立ち向かった。
 第二皇子にとって、第一皇子は輝く太陽そのものだった。
 強い憧れとともに、跳ね除けようと思うことさえはばかられる強烈な劣等感を抱かざるを得なかった。
 第二皇子の精神はくつの一途を辿たどった。
 唯一、第二皇子を肯定していた母は、「腹違いの兄を支え、仲良くするように」と言い残して孤独のなかった。
 母は、若い二人が互いに刺激し合い、成長することを望んでいた。
 だが彼のなかにある不信や臆病といった、負の心が素直さと勇気をもつことを邪魔させた。
 母の死によって、彼の心にぶ厚いかさぶたができる。それによって、彼は泣けない男となり、同時に、その心はあるものを求めた。
『大王になっても、大王には、絶対に手に入らないものがある』
 大王になった第二皇子は、ずっとそれを求めていたが、絶対に手に入らないので、その代わりに無慈悲な略奪を繰り返した。


 ──ジョキン、という音ともに大きな耳が雪道に落ちた。
 紺碧色の魔女の声にならない悲鳴が辺りの樹木の間で木霊する。それは笛の音のように甲高かんだかかった。
 ぎょうの魔女の耳鼻を切り落としたのは大鋏の兵で、彼らの行軍は女王が住まう城の目の前まで来ていた。
 鋏の数は千に及んだ。小国とはいえ攻め入るには少ないが、山間をうことにけ、何人もの魔女を狩った経験を持つ精鋭だった。
 毒を持つ虫によって数十名の犠牲者が出たものの、大鋏の兵が森に隠れたはく色の魔女を見つけ出し、手の小指から足の小指まで虫の数だけ切り刻んだ。
 軍の中心に輿こしに担がれた大王がいた。腹回りはカバのようにえ、首も脂肪によって消えていた。常識外の巨漢な大王だった。
 歯が恐ろしく丈夫で、初雪のように白い。彼は口さみしいのか、いつもガリガリと宝石をんでいた。今も宝石を噛みながら、退屈そうに魔女が切られるさまを見つめている。
 前衛ぜんえいのほうから竜巻が起こり、兵たちの悲鳴があがった。
「ほもう」とため息を吐くと、大王は近衛兵に宝石の一つを投げた。
「何が起きている?」
「風や氷を操る魔女がいるようです」
 大王はガリッと石を噛む。石は八つに割れていた。彼は「八つに切れ」とだけ命令した。
 先頭では、白銀の魔女と翡翠の魔女が鋏の行軍を食い止めていた。
 二人は関所の屋上を陣取り、竜巻を起こし、ひょうを降らせた。そうすれば、雹が大木に無数の穴を開けるほどの兵器と化した。
 百の兵士を蹴散らすものの、四人の近衛兵が現れ、同時に鋏を投げる。すると、スパッ、スパッ、と翡翠の魔女の首と腕が飛んだ。
 彼女は八つ裂きにされ、自身の足の裏を見つめながら、動かなくなった。
 白銀の魔女は、左腕の肘から向こうを失っていた。
 女の国の魔女たちは、錆色を除き、女王の鈍色の糸によって操られていた。
 女王は、それを「糸の勤め」と呼んだ。
 操られた遺体は糸によってしゅうぜんされ、心や魂は存在しない肉の傀儡かいらいだった。
 糸の勤めを終えるときに、操られていた魔女は「あぁ」と小さなため息を吐いて動かなくなった。
 白銀の魔女の目前に、四人の大鋏の兵士が立った。シャキンシャキンと、金を混ぜた鋏が交差する。仮に磁力を操る錆色の魔女がたいしても、金を混ぜた特殊な鋏を操ることはできなかった。
 白銀の魔女は、周囲に隕石のごとき氷を落とすが、屈強な兵はそれすらも切ってみせた。
 八の刃が、白銀の四肢を挟もうとした。
 瞬間、彼女は唇を震わせ、小さな声で「おねえちゃん」とつぶやく。それは彼女の身体に刻まれた、故郷を表す一言だった。
「待て」
 という声がした。兵士たちが振り返ると、煤まみれと、彼女の肩を借りる真実の青年がいた。
 青年は言った。
「大王殿に、お渡ししたいものがあります」
 彼の手には、涙屋が残した涙の秘訣があった。




   鈍色の魔女の嘘



 女の国の城で、錆色の魔女は語った。
「宝石病は王妃の嘘から始まった」
 それを聞いた瞬間、王は地団駄を踏んでかつての妻をさらに侮蔑した。
「この、魔女が、この、この……!」
 しかし錆色の魔女は白衣をゆらゆらと揺らして、こう続けた。
「王妃は、王との子を心から望んでいた。良き友の王は国民からの人望が厚い。王妃は子を産んでくれると周囲から期待されていた。外での評判がいい夫を持ち、王妃は幸せな女に見えたかもしれない。だが、それが余計に彼女を苦しませた。ゆえに間違った一歩を踏んだ。王に恥をかかせぬため、王妃は妊娠したと嘘を吐いた」
 王がかんしゃくを起こし、女王に唾を飛ばす。
「そんな愚かで、恩知らずなことをして、き、貴様は、やはり、やはり……!」
 錆色の魔女は、守るように女王の前に立った。
「夫は、釣った魚に餌をやらないように、長年連れ添った妻への配慮も、ねぎらいも、忘れていた」
「お、夫の背中を守るのが良い妻の務めだ、だから安心してまかせた! 王妃などであればなおさらだろう、わしは良い王だから、国を案ずるのに忙しいのだ!」
「仕事や友情にかける時間を、少しでも妻に使ってやれば、こうはならなかった」
 錆色の魔女が冷たく言い放つと、王は女王に向かって叫んだ。
「な、何も考えずに愚かな嘘を吐いて、どうするつもりだった!?」
 女王の代わりに、錆色の魔女が答える。
「それだから、抱えの医者であるあたしに頼った。王の種を体外から受精するなど、あらゆるじゅつためした。しかしダメだった。月日だけが流れ、宝石で腹を膨らませてした」
 女王は沈黙し、小さなよだれを見つめるだけになった。
 錆色の魔女は王を真っ直ぐに見つめた。
「そこに大国より献上された負の秘法の話が舞い込み、願いを叶えるその力に、王妃は飛びついた。今思えば王妃が吐いた嘘は、大王に漏れていたのかもしれない。すると宝石病が流行り、皆が永遠の命を手に入れ、子を産む必要がなくなった」
 するといつの間にか起き上がった美しい青年が頬を押さえてつぶやいた。
「秘宝が王妃の嘘を、まことにした……宝石病も、国が分かれたことも……すべては、負の秘法と王妃が吐いた嘘が原因だった……」
 代弁者がよろよろと女王に近づく姿があった。
 青年は起き上がり、代弁者を警戒した。彼が女王の首でも絞めるのかと思ったのだ。
 ところが違った。突然、彼は床に額をつけたのだ。
「わ、わたしは、代弁者。わたしの言葉は王の言葉。代わりをはたすのがわたしの役目だ」
「気がふれたのか?」
 と王も代弁者の行動に戸惑いを見せる。
「わ、わたしは、王の代弁者だから、王の言葉を代弁しないと……!」
 そして代弁者は、額を強く床につけ、女王に謝った。
「王の代わりに謝ります──ごめんなさい」
 女王は沈黙して、代弁者の話を聞いた。
「お、王は確かにめ、めめ、女々しいかもしれません……ずっと王妃と仲直りをしたがっていました。『またあのふわふわの膝枕の世話になりたい』と。時々言うそれは、王の放言として聞いていた、けどそちらが本音でした」
「おい、この!」
 王が彼の肩を蹴る。
 代弁者は身体を揺らされても、女王への進言をめなかった。
「当然、王は自尊心が強く、謝るなどできません。だ、だから、この代弁者が代わりに謝ります。ごめんなさい、ごめんなさい!」
「もうよい……」
 女王は、うるさそうに代弁者を見下げた。
 しかし代弁者はそれでも、頭を下げ、床に向かって叫んだ。
「王に忠を尽くすことは、王の望みを叶えること。王の望みはわが国の統制と女の国を支配下に置くこと。それがわれわれのこうりゅうに繋がると思ったからです! だからわたしが鎖国を固持して嫌われ役を買い、開国に導いた後に進軍準備を補佐しました!」
 彼はぶるぶると首を横に振った。
「けど違った。王の本当の望みは、王も諦めかけていた、王妃との仲直りだった! もうね、彼は貴女が好きで、好きで、仕方がないのです! 現にお一人で会いに行って、りが戻らないとわかると、支配の準備をはじめた!」
 女王が一度王を見ると、王も女王を見つめ返していた。
 代弁者は激しく続ける。
「もう、わたしは、わたしがわからない。母に会って、今までしてきたことの意味が、何だったのか、位の高い代弁者に、何のためになったのかわからない。でも、一つだけわかることがあります。わたしがこうすることで、王と王妃が、少しの間でも元の仲に戻るなら、そうだ、昔のように、幸せそうなあの二人に戻られるなら、いくらだって頭を下げます!」
 同時に、代弁者の脳裏には、かつて彼に頭を下げた仮面の青年の姿があった。
 代弁者は小さく呟いた。
「ああ。そうだ。あいつも、あのときこんな気持ちだったのか……」
 すると、代弁者はさらなる決意を固めた。がばりと顔を上げて、王に言った。
「王よ、かつて涙屋殿が言った話があります。『主君に仕えるのも妻に誠実でいるのも同じ』と。平和と健康は似ている。自分が清潔せいけつでいないと家族が病気になるように、利他だけでも利己だけでもダメなのです。かつての平和には道理があったのです。ご自身ご夫婦が幸せで、それを模範に民衆も幸せだった。しかし、男の傲慢ごうまんさと女の嘘に、負の秘法がつけ入り、平和が崩されたのです」
 王にも心当たりのある言葉だった。そして彼の脳裏にも、白いひげを生やした柔和で温もりに溢れた老人の姿があった。
「……瞬間的に人が変わるのは容易たやすいが、習慣を変えるのは難しい。心の傍に規則を置き、負けないと誓え、か……」
 王はふと遠い目をしていたが、代弁者の大声でわれに返った。
「どうか、仲直りを。お二人、手に手を取り、仲直りを!」
 王と女王は互いを睨んだ。
 相手に心を悟られまいと、厳しい目をしていた。
 すると「しゅっ」と、よだれが転んだ。女王の頭部から垂れた糸を追ってのことだった。
「おお」「まあ」と、同時に、王と女王がよだれを支える。
 そのとき、二人の目が合った──。




   雪を溶かす涙



「よこせ」
 兵から涙の秘訣を奪うと、大王は数百枚に及ぶ涙の秘訣をどんどんめくった。
 真実の青年も、煤まみれも、多くの兵士も、その様子を見守る。耳に届くのは、山間やまあいを吹き抜ける冷たい風の音だけだった。
 やがて。
「ほも、ほほ、あは、あははは!」
 大王は笑った。真実の青年と煤まみれは一瞬明るい顔をして顔を見合わせたが、大王は涙屋を小馬鹿にするように、こう続けた。
「兄者、あにじゃあ、兄者ぁ。あの鹿。あの馬鹿。ハハハッ」
 そして涙の秘訣を宙にばら撒き、鋏の兵に命令した。
「切れ」
「ああ、何を!?」
 真実の青年は、思わず悲鳴を上げた。
 大王の命令により、風に舞った涙の秘訣が、百の鋏によって雪のように切り刻まれていったのだ。
 大王の唾が地面の雪を溶かす。
「こんな思い出話の寄せ集めで、命が助かるとでも思ったか、はは、あはは!」
 真実の青年はこぶしを握り、くやしい気持ちを言葉にした。
「大王よ!」
 その瞬間、周囲にいた百の鋏の切っ先が真実の青年に向けられた。
 しかし青年はかまうものかと進言した。
「ここにいる煤まみれから聞きました。彼女は、あなたたち兄弟のいきさつを知っている。あの人は、弟であるあなたを泣かせるためだけに涙屋と名乗り、涙の秘訣と称した物語を書き続けていたのです!」
 大王は「ほもう」とため息を吐くと、青年を見下ろした。
「読んだ。それがどうした」
「涙屋は、あなたのことを強く心配しておりました!」
「される筋合いはない」
 真実の青年は、必死に続けた。
「あなたが今抱えている感情や、あるいは感情がないことは、すべて、あなたと兄を比べた、子どものころに取り巻く環境や、周りの大人たちが悪いと思います! けどそれは涙屋も一緒だった!」
「……下に見られる気持ちを知らないだろう」
 大王の小さな言葉は、誰にも聞こえないまま、青年の声だけが山間に響いた。
「涙屋もまた苦しんでいた、抗っていた、だから大人に反抗する悪童あくどうになって、王位をあなたに譲ろうとしていた、でも子どもじみたやり方だった!」
「過去などどうでもいい」
「あなたを悪くした本質は不信だ! 可能性を信じさせようとした母親の言葉を信じられなかった! だから卑屈に、他者を蹂躙し、兄の誠意を信じられない大王になった! 未来に続くものを、涙屋は書いていた。そして僕に残してくれました!」
「……母親など、とうに忘れた」
 青年は負けじと、心に浮かぶ言葉を、大王に叫んだ。
「王なのに、あなたは大王なのに、何に追われているのですか!?」
 その場にいる者のほとんどが、心のなかで、首を傾げた。
 しかし大王だけが、呼吸を少し止めた。
 青年はこう続けた。
「いくつもの国を蹂躙した大国の大王でありながら、何かに駆り立てられたように焦り、怒り、怯えている。だから他者の不幸を見て安心し、心の穴を埋めようとしている。あなたの心をむしばむものは何ですか!?」
 青年の言葉は、周囲にいた兵士たちにとって訳のわからない内容だった。だが煤まみれと大王だけがじっと青年をにらんでいた。
 後にも先にも、大王の心の傍に寄り添って、彼と同じ目線で言葉を放ったのは、涙屋と真実の青年だけだった。
「……苛々いらいらする。苛々だ」
 大王の言葉に周囲の兵が改めて鋏を構えた。
 しかし大王が次に言ったのは、二人を襲う命令ではなかった。
「癒えない怒りが、心を焼くのだ」
 大王はまるで、叱られた少年のように、ぽつりぽつりと心のありのままを語った。
「記憶の片隅にあるあの女……お前や兄上が母というあの存在が死んで以来、いや、そうなる前から、俺の心を怒りが焼くのだ。忍耐は泡沫うたかたのように薄く、つつかれ、はじけるたびに、破壊を求める」
 大王は「ほもう」と重いため息を吐いて続けた。
「心は幾度も無意味な融解と凝固を繰り返し、鋼のようになった。そして涙を流すことを忘れた」
「少し、わかります」と青年にもその怒りに覚えがあった。
 青年はすぐカッとなる性格だった。かつての涙屋の言葉が青年の脳裏をよぎる。青年はその言葉を大王に捧げた。
「……自分を変えるしか、ないのだと思います」
 たん、大王の目が鋭くなる。
「変える必要はない。俺は大王だ。何をしてもいいのだ」
 大王が「おい」と命令する。兵の一人が鋏を突き、凄んで見せた。
 二枚刃が青年の肩を襲う。
 ところが、煤まみれが青年をかばい、刃は彼女の背中を裂いた。
「煤まみれ!」
 青年が彼女と地面を遠ざける。煤まみれはふぅと猫のような吐息で痛みを逃がし、こう言った。
「大した傷ではない。それより続けろ」
 青年が「え?」と言った瞬間、煤まみれは彼を抱き寄せ、その耳に唇を近づけた。
「お前の言うとおりだ。諦めるな。人を変えるのは容易ではない。だが可能だ。お前と大王は、しくも怒りという似た苦しみを持っていた。今も、未来も、大王の心に寄り添えるのはお前しかいない。この国の女と男を救えるのは、涙屋の弟子であるお前しかいない」
 煤まみれは苦しそうに呼吸をすると、青年に続けた。
「涙屋は二人の希望を残した。よだれと、そしてお前だ」
「彼は……最後、何と?」
 ──獣の森にて、涙屋が息を引き取る瞬間、寄り添った煤まみれは訊いた。「悔いはないか?」と。
「──涙屋はなんて?」
と言う青年に、彼女は真っ直ぐに目を見つめ、白く輝く宝石を渡した。
「やすらかに目をつむった」
 青年の目に涙が浮かぶ。
 煤まみれは声を押し殺して言った。
「だから、ないのだと思う。彼は悔いなく生きたのだと思う」
 涙屋の形見であるその宝石は、一切の曇りがなく、純粋な輝きを放っていて、彼の生きざまを表しているようだった。
 煤まみれはさらに本音をつぶやく。
「人生とは嫌なものだ。死んでほしくない人間から死んでいく」
 真実の青年も、魂から絞るような本音を漏らした。
「……今、僕は、何を目標にすればいいかわからない。人って、何でがんばるんですかね……?」
 それは涙屋に対してぶつけた疑問だった。
 すると煤まみれが答えた。
「師事した者がいなくなったとき、大切なのは、残された者が動じないことだ。正しい一念を持って、学んだことを貫くことだ」
 彼女は青年の耳に、小さくささやいた。
「涙屋という師から何を学んだ?」
 すると青年の目つきが変わった。
 彼は目に涙を浮かべて、大王に叫んだ。
「し、死に際に、苦しむ人がいても、何と声をかけていいかわからないときがある! がんばれと言ってはあまりにも無知に思えるし、早く楽になれと言ってはあまりにも無慈悲だ!」
 青年は「それでも」とこう続けた。
「僕は、涙屋に、一日でも、一日でも長く生きてほしかった!」
 真実の青年は痛む臓腑を抱え、さらに一歩大王に近づいた。
「涙屋と初めて会ったとき、彼は言いました。『涙が、怒りや悲しみを洗い流す』と。そして反省を生み、人を前進させる、と。彼はそれを生業なりわいにしていると言っていたけど、そのすべては弟であるあなた一人のためだった」
「殺せ」
 大王は飽きた様子でそう言って、青年から視線をそらした。
 大王の命令により、百の鋏が青年と煤まみれを襲う。
 そのときふと、大王の視界に一枚の紙が映る。
 涙の秘訣の一枚で、それは大王の腹にひたりとくっついていた。
 一方で、ジョキンジョキンと百の鋏が交差を繰り返し、青年と煤まみれを囲む。あと一回の交差で、煤まみれの足首が宙を舞うというところで、「待て」という大王の声がした。
 鋏の交差が止まり、辺りが静寂するなか「ほも、ほほ」という大王の笑い声が再び聞こえた。
「ふふ、ほほ、あはは、あは……ふえ、ふえっぐ」
 しかし笑い声はやがてえつへと変わる。
「兄、兄上……! ああ、ちくしょう」
 大王が泣いた。
 真実の青年はもちろん、煤まみれも何が起きたのかわからず、唖然としていた。
 大王の手には涙の秘訣の切れ端があった。
 そこにはこう書かれていた。
『あなたは勝った。あたしの負けです。
 あなたの母親も、きっとそう言う。
 だからどうか、人の生命を粗末にしないでほしい』
 ──第二皇子が、独裁的な大王になって、絶対に手に入れられない物がある。
 それは叱咤激励だった。彼はただ、褒められたかった。




   真実の青年と黄金の魔女王



 聖堂内のように荘厳そうごんだが、がらんとした城内。
 そのなかで無垢なぬくもりを放つよだれという少年は、王と王妃の間で身体を熱くしていた。
 先に泣いたのは良き友の王だった。
 次に、女王が目を真っ赤にして、二人は嗚咽した。
 朝のはじめに、口づけを交わすような、そんな仲に戻ったわけではない。ただ少し昔を思い出して、あるいは子を儲けるはずだったもしもの今を重ねて、二人はそれまでの悲しみや怒りを洗い流すように泣いた。
 ──女王は涙を流す言い訳のように、ぽつりとつぶやいた。
「だって、もともとわたしたちは一つじゃない……」
 美しい青年は、頬にできた傷の痛みとともに、彼らの姿を目に焼きつけた。代弁者も、錆色の魔女も、元夫婦と、小さな少年が抱き合う様子をそれぞれの思いで見つめた。
 すると突然、広間の扉が開いた。
 代弁者が「ヒッ!?」と悲鳴を上げる。
「ついに大国の軍が攻めてきたか!!」
 全員がかたを呑むなか現れたのは──煤まみれと真実の青年だった。
 代弁者が真っ先に、二人の下に駆け寄った。
「も、もう歩いて平気なのか!?」
 真実の青年が「はい」と頷く。
 次に、代弁者は煤まみれのほうを見た。
「だ、大王の軍は!?」
 煤まみれは城の外を指差す。
「鋏の軍を引き連れ、帰っていった」
「何と! 一体何が起きた!?」
 真実の青年は扉の向こうを見つめて言った。
「……死してなお、涙屋が、僕たちを救ってくれました」
 次の瞬間、真実の青年は眠るように気を失った。


 ──白銀の魔女によって、山間の至るところに巨大なひょうかいの罠が仕掛けられていた。甚大な被害がもたらされることを進言された大王は、全軍の退却を命じた。
 しかしその実は、大王の心に、破壊や殺戮さつりくを求める心がなくなったことが原因だった。
 大王は兵士たちに、一切れ残らず、涙の秘訣を回収させた。大王がこの土地を攻めることはもうなかった。
 大王は母にもう一度褒められ、そして叱ってほしかった。
 それが愛情であると、彼の心は覚えていたのだ。
 大王が最後に読んだのは、涙の秘訣の最後の項で、それは涙屋が真実の青年と出会った直後に書かれた、弟の心に寄り添い、彼の心を救う一念を込めた言葉だった……。
 その数年後。大王が治める大国は、暴君が治めるさらに巨大な国に滅ぼされる。大王の宿命は終始、比較についてだった。その人生を以って後世に教えたのは、比べても必ず上がいることだった。


 良き友の王と女王は再婚にまで至らなかったが、両国は大国に侵攻されたのを機会に、正式に和睦することになった。
 男の国の捕虜は解放され、市街地の復興がはじまった。
 女の国においては、自ら宝石と化した女性たちの治療がはじまる。
 同時に、それぞれの国民に対し、選択と選挙が行われた。
 選択とは、これまでどおりの生活を送る選択と、ぼくの一歩として、気候の良い男の国の土地で、有志の男女、そして獣と共に暮らす選択だった。
 そして選挙とは、秘法放棄の是非についてだった。
 鏡の破壊について、良き友の王と、女王が、煤まみれの望みを受け入れた。しかしそれには条件があった。国民の大多数の賛成だ。
 秘法を放棄した後に国民に待っているのは、延命のしわよせだった。それは残りの寿命の半分しか生きられないことを意味した。
 例えば今この瞬間の王の身体の年齢が五十五歳で、余命が二十年なら、半分の十年しか生きられなかった。
 当然、両国に、秘法放棄の反対勢力が出現した。
 選挙までの七日間、煤まみれと二人の青年、そして代弁者は、それぞれの国で、負の秘法の本質から、ここで破壊してしまわないと、今はよくても後の世で、誰かが悪用し、多くの不幸が生まれることを訴えた。
 対して反対派は、賛成派を死の使いと誹謗し、そのはてに秘法を崇拝すうはいする条文を掲げた。
 しかし、良き友の王は猟師の格好をして、国民にこう訴えた。
「何のために永劫を生きる? それ以外のすべてを放棄し、大切なことを忘れ、そうやって生きる道に、一体何の価値があった? 時間とともに生命は疲弊し、時の価値はどんどん失われていくだろう」
 そう訴える彼の脳裏には、真実の青年と涙屋の姿が浮かんでいた。
「限られた寿命にこそ、生命の執念をもって成し遂げられる幸せと功績があると、わしは気づいた」
 永遠の放棄については、特に男の国において激論を生んだ。
 そして迎えた投票の日。
 負の秘法の破壊に一定の票が集まり──秘法は破壊されることになった。
 当然、限られた寿命を選択することを、国民一人ひとりが大いに悩んだ。しかし男の国が開国したことによって入ってきた太陽の教えが、自身と他者の幸せを薦め、それは秘法放棄という一人ひとりの選択に繋げた。


 ──その晩、美しい青年は、女の国の城の一室にいた。
 その手には罪人の仮面があった。仮面をつけて、外してみる。
 窓に映る顔には、弓状の傷があった。彼の顔が歪む。
はくがついたなぁ」
 皮肉っぽい言葉とともに、背後に煤まみれが現れた。
「……大切にしていたものが、台無しになったことは?」
 美しい青年の質問に、彼女は窓の向こうの夜空を見つめた。
「心を捧げた男に、慕ってくれた妹。何度もある」
「時を超える力で取り戻そうとはしないのか?」
「何度か試した。だが水のなかで火を起こすようにうまくいかない。そして気づいた」
「何に?」
「時間、生命。大切なものを失わないと、残された者は生命を燃やさない。喪失があるから、生き生きと燃えて進む意志が生まれる」
 煤まみれは彼の肩を叩くと、部屋を後にした。
「明日の秘法の破壊、頼んだぞ」


 
 ──二枚の鏡は図書館の地下に運ばれた。
 代弁者と錆色の魔女、そして煤まみれに囲まれ、二人の青年が、二枚の鏡の前に立つ。真実の青年と、美しい青年だ。
 二人の背丈はよく似ていて、後ろ姿は、まるで左右にも鏡があるようだった。
 彼らの手には涙屋の形見である矢じり状の石があった。
 二人は指の間に石を挟むと、同時に、鏡を殴りつけた。
 すると石によってできた点が、稲妻状のヒビとなり、音もなく鏡が砕けた。こうして、負の秘法は無事に破壊された。
 一行が煤まみれに注目する。
「黄金の魔女の王に戻るのでは?」
 と美しい青年が訊くと、煤まみれは首を横に振った。
 そして小さな袋に入った何かを取り出す。
 ふわりと竹に似た香りが辺りに漂った。
 それは芳醇な香りを漂わせ、金色に輝く茶葉だった。
「一度に溢れんばかりの力を手に入れては、この身体がぜてしまう。すべての力はこの茶葉に込めて、時がきたら抽出して長い時間をかけて取り戻していこうと思う。それに……」
「それに?」
「少しだけ、自分の幸せを考えた」
 彼女は、隣に立つ真実の青年を見上げた。
「魔女になれば歳を取ることも子を産むこともなく生きることになる。だがわらわは、人を救うことを信じて実践していたら望みが叶い、人間に戻れた。許されるなら、ほんの少しの間、このまま歳を重ねていこうと思う」
 誰も彼女の望みを否定しなかったが、彼女はこう続けた。
「老婆まで歳を重ねたら、また魔女の姿に戻って、世界を晴れにする旅を再開しようと思う。その道で償える罪があると判断したのもある」
 そのとき、美しい青年は、時間旅行の目的の一つである、自身の曾祖母が誰なのかを悟った。
 隣室には白銀の魔女の遺骸が安置されていた。切断された右腕は綺麗に縫われている。糸の勤めから解放され、台座の上で新生児のようにくるまり、安らかに眠っている。
 部屋はひんやりと冷え、その遺骸は穏やかな光を帯びていた。
 美しい青年が「じゃあ」と遺骸の前に立った。
 すると真実の青年が一歩前に出て、美しい青年と向き合う。
「話は彼女から聞いた。君がその遺骸に触れ、未来から来た僕の玄孫と」
「遠い親戚に会ったような気分では?」
 美しい青年の言葉に、真実の青年は大きく頷いた。
「涙屋に会わせたかった。会ったらきっと驚いていた」
 二人が少し沈黙する。涙屋について考えていた。
 それから、真実の青年が顔を上げた。
「涙屋に会い、この国に流れ着いて思ったことだよ。君に伝える」
 真実の青年は、未来からきた子孫と対面したためか、少し大人っぽい表情をしてこう続けた。
「永遠の命を持つからこそ、憂いも永遠。これほど悲しいことはない。大切なのは一日一日、命を燃やすような覚悟で生きること。疲れたら回りの人に言えばいい。休むと」
 美しい青年が少し笑って頷くと、彼は続けた。
「正しい選択はいつだって苦しい。けれど昨日生まれた気持ちで、明日死ぬ覚悟で、今日を生きれば、どんな問題も解決する力となる」
 真実の青年は優しい目に戻って最後に言った。
「君にとって過去であるここに来たことに意味があるのなら、どうか涙屋という老人が生きたことと、今の僕の言葉を持ち帰ってほしい」
 美しい青年が大きく頷く。
 次に煤まみれは美しい青年と、彼の母親を重ねて言った。
「昔、お前の母親に言われた。許すだけが愛じゃないが、許せないと愛ではない、と。女の愛も、男の友情も大切だ。だがそれゆえ人は苦しみ、その感情が大きければ大きいほど、苦しみをさらなるものにする。人を救うことにおいて必要なのは愛だけではなく、勇気も必要だ」
 彼女はおもむろに父親の話をはじめた。
「わらわの父は国務に追われ、家族の死と誕生に立ち会えなかった。それでも、わらわには精一杯の愛情を注いでくれた。はじまりと終わりに立ち会えなくとも、何度も抱きしめてくれたのだ。今それを思い出すと、心が温かくなる」
 煤まみれが父を強く尊敬していることが伝わり、美しい青年はまた大きく頷いた。
 彼女は最後にこう続けた。
「仕事をするのが男の仕事ではない。子を産むだけが女の務めではない。生きがいを見つけ、自分と周囲を幸せにするのが人間の務めだ──」
 それから簡単な別れを告げ、美しい青年は、白銀の魔女のがいに触れ、自身が生まれた時代に帰っていった。




   家族の国



 ──美しい青年が気がつくと、図書館の地下にいた。
 白銀の遺骸がある。数十年の時を経てもその様子は変わっていなかった。彼は遺骸の髪を小さくすくと、地下を出た。
 図書館の広間に、一人の女がいた。
「待ってたよ」
 そう手を振るのは、白衣を着た錆色の魔女だった。
「あなたは、え? あれ?」
 美しい青年が何度も地下と彼女を振り返る。
 くたびれた赤髪あかがみに鷲のような鼻と薄い唇。細長い四肢で長身。
 錆色の魔女の様子は、先ほど別れたときからまったく変わっていなかった。
「ど、どうして、あのときのままの姿を?」
 彼女は自身のつま先を見つめ、そして青年を真っ直ぐに見つめた。
「魔女として生きたからね」
「それでは、女王も?」
「彼女は……亡くなったよ」
「どうして?」
 錆色の魔女は「歩きながら話そう」と言って、図書館を出た。
 雪はみ、銀世界が広がっている。
 錆色の魔女は波止場を目指しつつ、青年に女王のその後を語った。
「よだれをはじめ、獣と呼ばれる子どもたちには宿命があった」
「宿命?」
「獣の森もまた負の秘法だったのさ」
 海が見えてきた。青年は海のほうを睨んだが、霧がかかって獣の森がある島は見えない。
 錆色の魔女も、白い海を睨んだ。
「あの島は、母親になれなかった女たちの絶望によって出現し、その願いを聞き入れ、生まれるはずではなかった子たちを獣として生まれさせた。良いことに思えるが、獣は、年を取るなどの変化を拒絶した、人間の手前のような存在だった」
 青年は戸惑いと混乱を抱き、言葉を失った。
 その様子を察して、錆色の魔女はゆっくりと続けた。
「よって親と暮らすなど、人間らしい生き方をすれば獣は消えてしまう」
「それじゃあ、あの子たちは、ずっとあの島で生きていくしか?」
「黄金の魔女王が、唯一、人間に戻す前例を知っていた。交換さ」
「交換?」
「ああ。一人の人生と交換して、人間の器を提供すること。こうすることで、獣は人間の子になれるのさ」
 青年の脳裏で、点と点が線になった。
「まさか……」
 波止場が見えてきた。
 錆色の魔女は冷たい空気を吸い込むと、白い息を吐いた。
「女王は喜んでその身を捧げ、よだれのなかで生きることで、本当の母となり、人の道を歩んだ。もちろん良き友の王は最後まで止めたが、彼女の意志は固かった。その選択を選ぶ女は数多く、すべての獣が人間の子になれた」
 錆色の魔女はさらに、と続けた。
「愛する者の形見を育てることで、良き友の王は、未来の世界まで思慮を伸ばす良い王になった。他の男たちも同様に、子育てを通して、女への尊敬の念を強くしていった」
 錆色の魔女は最後にぽつりとこう言った。
「あたしの肉親は皆あたしより先に死んだ。女王は、魔女ではなくなり、幸運だと、あたしは思う」
 彼女はそれから波止場の物見小屋に停泊する小さな船に案内した。
 行きに案内してくれた老人が小さく会釈する。
「この船の人たちは……」
「女の国の住人の末裔さ。黄金の魔女に恩義がある。代々彼女の住処すみかであるあの図書館を守る番人となった」
 美しい青年は、自分の顔に手を触れさせた。
「それで、俺を彼女の何かだと思って……」
 船が出港する。青年は背後に広がる雪の大陸を振り返った。
「女の国はなくなったのかと……」
「いいや、この国の住民は男の国があった土地に移り住んだ……あれから少しして、二つの国がようやく一つの国に戻った」
「どういう国に?」
「家族の国と呼ばれる、平和な国だよ」
 船が進むなか、錆色の魔女は青年に、女の国と男の国のその後を語った。 
 かつて獣の森があったとされた島は、すべての獣が人間の子どもになった直後、さらなる地殻変動が起きて、島そのものが海に沈んだという。
 真実の青年の両親は、錆色の魔女によって、宝石病を治療した。
 男の国、女の国は、余命が半分になったが、その分国民は時間を大切に、一日一日を充実させて生きた。
 鼻たれは女の国にかつての妻と母親がいることがわかり、家族と共にその並外れた体力を復興に捧げた。


 錆色の魔女が案内したのは、男の国があった島だった。
 船でたどり着いた波止場から森を抜けると畑が見えた。
 そこからさらに少し行くと、住居が点在し、やがて町にたどり着く。建築物はしっかりとした造りで、高い建築技術を思わせた。
 道を行く人々が着る服や装飾品、髪型に至るまで、開放的な風俗を感じさせ、この国が開けていることを感じさせた。
「こんにちは」
 突然、すれ違った家族が挨拶をしてきた。青年も思わず「こんちは」と返した。
 青年が少し驚いたことは、外国人である青年と目が合うと、皆が挨拶をしたことにある。
 土に汚れた仕事帰りの父は、息子と手をつなぎ、母は娘をおぶっている。皆生活に懸命だが、晴れ晴れとした笑顔を見せ、家族皆、仲がいい様子だった。
「いろいろあった」と言って、錆色の魔女は続けた。
「つい最近亡くなったが、よだれが次期王となり、今はよだれの息子が国を治めている」
 彼女は大きく呼吸して、空を仰いだ。
 青い空には薄い雲が漂い、優しい輝きを放つ太陽が沈みかけ、薄っすらと月が浮かんでいる。
「雨、曇り、晴れ。もとは同じ空であるように、三つの教えには始祖とする宇宙の教えなるものがあった。今は、宇宙が常に広がっているように、拡大の教えが研鑽されている」
 青年は家族の背中を見送り、小さく首を傾げた。
「何だかころころ変わっている気がしますが」
「時代毎、正しい教えを選ぶのは民意であり、その教えを強く信じて正しい結果を出すのも、それを信じる者たち次第だと思う」
 それから錆色の魔女に見送られ、美しい青年は帰郷した。


 
 ──母は、息子の頬にできた傷に「まあ」と小さく漏らした。
 しかし彼はその傷のことを忘れていた。
 そして年齢を重ねる母を見つめ、自身もいつか子を持つ親になるのだろうかと思うと。
「ありがとう、産んで、育ててくれて」
 思わず、母にそう言っていた。
 少し成長した息子の様子に、母は機嫌が良さそうに笑った。


 その頬の傷が癒えたころ。
 彼は花咲ける大地で、五人の子どもと戯れていた。
 皆、母の教え子で、近所に住む子どもたちだ。
 母の手伝いで、青年は彼らの相手をすることがあった。
 その日、小さな少年がこう言った。
「何かお話してー」
「お話? お話か……」
 自然と他の子も集まる。
 どうやら母は、彼らにいつも物語を聞かせていたようだ。時間は十分にあった。
 青年は視線を空に向けて考えた。
 女の国と男の国の話をしようと思ったが、彼らにはまだ早いと感じた。そして魔女の物語は少し残酷だった。
 ……浮かぶのは、母から聞いた老婆の物語だった。
「わかった、そうだね」
 それから彼は、何日かに分けて、とある物語を聞かせる。
 小さく息を吸い込むと、美しい青年は語りはじめた。
「少年は疑問や思ったことをはっきりと口にし、人になつきやすく、素直な心の持ち主だった──」