第一章 動揺〈承前〉

「納得いかないって顔ですね」
 光田みつた慶太郎けいたろうの顔を覗き込む。
「『私の気持ちを分かってください』と結んでいるのがね」
 慶太郎にそれが、問題を共有している特定の相手に向けた言葉に思えて仕方ない。
「さらに調べろとおっしゃりたいんですか」
「ええ、でも光田さんも仕事があるでしょうから、無理にとは言えません。ただ、警察が自殺で処理するとなれば、これ以上の真相は分からないままになります。人が命をかけて言おうとしたことを、あなたも知りたくないですか」
「記者としての好奇心をくすぐりますね。ですが、ボランティアではちょっと」
 光田の目は微笑ほほえんでいる。
「どういうことです。金銭的なことですか」
 真意を探るように、今度は慶太郎が光田の目をうかがう。
「そんなこと求めてません。そうではなく、真相が見えたとき、先生にインタビューしたいんです。読者の共感をよぶ、いいものにしたいんで」
「この事件を記事にしたいと思っておられるということですね」
 新聞記者に話を持って行ったときから、事件の顛末てんまつおおやけにするかもしれないとねんしていた。問題はどこまで明らかにするのか、いつ公表するのかだ。
「先生がさっきおっしゃったように、故郷を後にしたぐらという女性が、流れついた地方都市で、ひっそりと死んでいった。自殺にしても、あるいは他殺だったとしても、悲しいかな現代日本ではさほど大きなニュースになりません。特集記事を書こうと思う記者だって少ない。いや、いないでしょう。私もその一人でした、実際に遺書を目にするまでは」
「じゃあ、インタビューに応じることを約束すれば、これからも調べていただけるんですね」
「ええ。記事にまとめる際には、小倉さんの精神状態の解説が必要になる予感がするんです」
 単なるかんですが、と笑いながら光田はカップを手にする。
「実際に診察をしていない人の精神状態を解説するなんて、難問だ」
 と言ったが、ここで光田に抜けられれば真相に迫る道も閉ざされてしまう。慶太郎は断るのを思いとどまって、
「しかし、類推るいすいはできるでしょう。私なんかが記事に花を添えられるのかどうか分かりませんが、そのときになったらいてください。ただ、患者のプライバシーと医者としての守秘義務は守らせていただきます」
 と言った。
「もちろん。交渉成立ですね。ではこれまでの警察への取材内容をお話ししましょう。実は警察署にちょっとばかりできる刑事さんがいまして、その人に食らいついてるんです。今後も、その垣内かきうちという五十がらみの刑事から情報を仕入れたいと思ってます」
 疑問点を見つけ出し、その刑事にぶつけていけば、捜査を完全に打ち切れなくなるかもしれない。自殺で処理してしまっては寝覚めが悪いとね、と光田が微笑む。
「つまりは、その刑事さん以外は、自殺で終わりにしようとしてるってことですか」
「それは否定しません。遺体は解剖後すんなり実家に帰してますし」
 由那の遺体は、九月二十九日の午後八時過ぎに発見され、変死扱いで司法解剖に回された。ただ解剖が行われたのは翌三十日で、十月三日には姉のに連絡が行き、夫の大槻紀夫おおつきのりおが葬祭業者の専用車で遺体を引き取りにきた。
 しくも、由那の自殺に疑問を抱く春来はるきがクリニックを受診した日に、由那の亡骸なきがらが生まれ故郷へと帰っていったことになる。検体の分析で、死因が特定されたのは一昨日の十月六日だ、と光田はこれまでの捜査情況を話した。
「結局、死因は何だったんですか」
 報道された記憶はない。
「胃の中からリコリンが検出されました。植物に含まれている毒なんだそうです」
「アルカロイドの一種ですね」
 慶太郎は、学生時代受けた法医学分野の授業を思い出した。
「そうです。あっそうか、私なんかより先生のほうがお詳しいですよね」
 と、言った。
 光田が笑いながら、さらにノートをめくり、
「ただし、量は多くなかったみたいです。そもそもリコリンの毒性はそれほど強くないんですよね?」
 光田の話を聞きながら、慶太郎はタブレットでリコリンを検索した。
「ヒトの致死量は、体重によって違いますけど、六〇キロぐらいの人で、約一〇グラムですね」
「一〇グラムということは、だいたいティースプーンで二杯くらいか。素人しろうとからすれば、十分恐ろしい毒ですよ」
「リコリンを含む植物の代表的なものとしては、岸花がんばながあります。多くは球根に含まれているんですけど、彼岸花の球根一つからとれるのはせいぜい一五ミリグラム。一〇グラムは一〇〇〇〇ミリグラムですので、単純計算でいくと球根が六六〇個以上も必要になりますからね。そう考えると、それほど怖くない」
「いくら田んぼや川辺の土手にたくさん咲いている花だといっても、致死量まで集めるなんて無理ですね。そういうことでしたか」
 光田はノートに何やら書き込んだ。
「そういうことでした、とは?」
「死因はリコリンを含むデンプン質でのアナフィラキシーショックだというんです」
「それは変だ。みずからアナフィラキシーショックを起こして死のうなんて、おかしい」
 大きな声を出してしまった。
 アナフィラキシーとは即時型アレルギーの中で最も重いものを指し、粘膜ねんまく、呼吸器、じゅんかん器、消化器、さらに神経などさまざまな場所に症状が現れた状態のことをいう。そしてアナフィラキシーショックにおちいると、急激な血圧低下や循環不全による意識障害、気道が狭くなることによる呼吸困難、気道きょうさくによる窒息ちっそくを起こすことがある。とはいえ、何度かアナフィラキシーを経験しないと、どこまでの症状が出るのか予測がつかないし、もしその苦しさを身をもって知っていたなら、自殺の方法として選ぶだろうか。
「いや、警察はむしろ正反対のことを言ってました。他殺だと考えるとあまりに不確実過ぎると」
「昔読んだ海外のミステリー小説にアナフィラキシーショックをトリックに使ったものもありましたけど。それはキプロスばちの毒を使ったものですが」
「キプロスって地中海の島ですね」
「そこは養蜂ようほうが盛んで、島土着のミツバチがいる。その蜂の毒を使ったものです」
 蜂の毒にはアミンやアセチルコリンなどが含まれていて、それが痛みやかゆみを引き起こす。つまりアナフィラキシーショックを起こすアレルゲンとなる。
「やっぱり小説の中のことですね。現実には意図的にアナフィラキシーショックで殺害するのは難しそうだ」
「でも、あらかじめその人間がアレルギーだと知っていれば、例えばなんかは重症化することがありますから、可能です」
「先生、蕎麦と彼岸花はちょっと違いませんか。彼岸花のどこでしたっけ、毒のあるのは」
「葉っぱにもありますが、多いのは球根です」
「それを日常的に食べます?」
「いや、それはないです。戦後、食べ物のない時代に、無毒化したものを焼いて食べたというのを聞いたことはあるけど」
「確かにない、ですね。相手が彼岸花にアレルギーがあるなんて知る機会、ないですよ」
「自分がそうだと知る機会のほうが、まだあるとおっしゃるんですか」
「ええ」
 光田は体を背もたれから起こしてコーヒーを飲み干した。自信に満ちた顔つきだ。
「何か情報を得てるんですね」
「分析するような目で見ないでください、白状しますから。昨日、垣内刑事から聞いたんです。ハッピーショッピーでは小さな畑や菜園を持ってましてね」
 ハッピーショッピーは、駐車場近くに田畑を所有し、減農薬で少しの米と野菜を栽培しているそうで、近所の農家の作物と一緒に店内の地産品販売コーナーに並べていた。畑の周囲には、積極的に彼岸花を植えているという。
「彼岸花があるだけでもイノシシやモグラ、野ネズミ、その他害虫除けになるんだそうです」
「イノシシにどこまで有効かは分かりませんけど、毒性が弱いといっても小動物除けには十分なるでしょうね」
「小倉さんは菜園の管理の係をしていました」
 彼岸花は植えておくだけでも効果はあるが、球根をすりつぶして液体状にしてけば、天然の除虫剤にもなる。それを作る作業のときに、由那の手が真っ赤にれたそうだ。
「それで、自分が彼岸花に合わない体質だと知ったっていうんですか」
 だからといってそれで死のうとくわだてるのには無理がある、と慶太郎は首をかしげる。
「新聞には、カップに薬物が混入していてと書いてありましたが、小倉さんの遺体の側にびん容器に入った除虫剤があったんです」
「それなら、誤って飲んだのかもしれない」
「当初は事故と自殺、事件を視野に入れて捜査してました。でもメモの存在が、事故の可能性を低くしていったんです」
「事故の線がまず消えた。そして部屋には内側からかぎがかかっていたと店長は証言していて、他殺が消えた。だから警察が、自殺だと言いたいのも分かりますが、アナフィラキシーショックで自殺だなんて、そのほうが無理な気がします。小倉さんの実家は京都府の……綾部でしたね」
「ええ、繊維メーカーのグンゼの発祥の地だそうです」
「そうですか。小倉由那さんのこと、もっと知らないとダメだな」
 慶太郎はつぶやいた。
「知りたいというのは、生い立ちとかですか」
「ええ、そうです。もし、私のクライアントだったら、と考えはじめてます。さっきは実際に診察をしていない人の精神状態を解説できないと言いましたけれど」
「いや、それはありがたい」
「小倉さんが自殺を考えるほどの悩みを持っていたとすれば、何が彼女を追い詰めていたのかを探る。そのために現在の生活がどうだったか、これまでどのような人生を歩んできたのかを調べるんです」
 どんな風に生きてきたのか、どんな暮らしをしてきたのか、その中で味わった患者の苦痛を知ることから、精神科治療は始まる。そして調査対象は患者本人だけに留まらないことも少なくない。人間関係におけるストレスは、案外当人も気づいていないことがあるからだ。
「苦痛の正体を見つけるってことですね」
「まだその前段階に過ぎません。それに正体を見つけて終わりじゃない。往々にして正体というか、原因というか、ストレスをかけている犯人は取り除けないですからね。完全に消し去ることは無理ですから、向き合い方を変える」
「そうすれば苦痛はやわらぐ」
「よほどじゅうとくでない場合は。それが私の仕事ですから」
 慶太郎の理想に反するが、重い精神疾患しっかんの場合、投薬治療をせざるを得ない。
「なるほど、いまはもう存在しない小倉さんを先生は診察するんだ。協力させていただきます。ハッピーショッピーの内部でもいろいろあるみたいですよ。跡取り息子、これが妙に警戒心が強い」
「跡取り息子が。パワハラとか、いじめとかが小倉さんを苦しめていた可能性もありますね」
「まあ、任せてください。上手くやりますよ」
 光田はノートを勢いよく閉じた。

第二章 否認




     1




 慶太郎はルーティーンにしている素振りを終え、木刀をしまう。それでも落ち着かなかった彼は、緊張をほぐすために深呼吸した。
 内線で澄子すみこが、棚辺たなべ春来が診察室に入ることを告げた。
 ドアが開くと、澄子に連れられて不安げな春来の姿があった。母親には待合室で待機してもらい、春来だけで診察を受けるよう、受付時に澄子が伝えていた。
 春来はゆっくり足を引きずりながらソファーに近づき、何も言わず腰を下ろした。スカートのすそを直すと、おへその辺りで両腕をクロスさせる。恐怖から自分を守る姿勢だ。
 初診から一週間だが、あごの線が鋭くなっているように思う。肌つやも悪く、髪もぱさついていた。
 さらに、初診のときよりもおびえた様子が見て取れる。
 一度の問診で信頼関係を築けるほど、人は単純ではない。三歩進んで二歩下がるのが、ちょうどいいくらいなのだ。こちらがあせっては信頼されるどころか、さらに心を閉ざされてしまう。
 ある意味、二度目は初診以上の慎重さが求められる。通院する意欲を失わさせては元も子もない。
「どうかな、やっぱりお腹は減らない?」
 母親の春美に記入してもらった書類には、この一週間で食べたものがシリアルをほんの少しと、バナナ、ヨーグルト、ゼリー類とあった。通常の食事を前にすると、気持ちが悪いと顔をそむけるのだそうだ。
「私、ちゃんと食べてるから」
 風邪でもひいたようなガラガラ声だ。食事をしていないことによるのだろうが、うつの症状が出た患者は、風邪症候群を発症する率が高い。体の不調がさらに気持ちを落ち込ませ、どんどん悪いスパイラルに陥りがちになる。
「そうか、食べているから、お腹がかないんだね」
 どうあれクライアントの主張は否認してはいけない。
「そうです。なのにママが」
「お母さんがうるさく言うのは、仕方ないよ。どこの親も子供にはたくさん食べてほしいんだから」
「うるさすぎ」
 まだ視線を合わせようとしないけれど、を吐き出させることに成功した。
「そうかもしれないけど許してあげましょう。ところで、ちょっとたずねます。これまで、太り過ぎたって思ったことはない?」
「えっ?」
 と、テーブルに目を落としたまま反応した。
「食べ過ぎたって思ったり、体重が増えちゃったなって感じたり。どう?」
「あったかも」
 ちらっと目が合った。
「そのときはどうしました? ダイエットした?」
「少しだけ」
 自らの腰を抱きしめるようにさらに深く両腕を交差する。警戒心が強いというよりも、自分の体型を確認しているようなしぐさだ。
「ダイエットの方法もいろいろあるけど、どんなやり方をしたか覚えてる? 例えばプチ断食だんじきとか」
 食べないことで自分を傷つける行為をする女性は、自己評価が低い。評価基準の一つがスタイルの善し悪しで、モデルのような痩身そうしんこそがきれいな体だと思い込んでいて、標準的な体型では不満が残る。そのため極端なダイエットを体験していることが多いのだ。
 精神的なショックが引き金とはいえ、現れた問題行動は、過去の自分に対して行った仕打ちを繰り返している可能性がある。本人は気づいていないが、無力ないまの自分へのいましめが、再び食べ物を拒絶する行為となって現れている。
「ううん、食べてました。こんにゃくゼリーとか」
「で、成果が出たんだね」
「あんまり」
「いま、お母さんが出してくれたご飯を、前のように食べたくないのは、やっぱり小倉さんのことが気になるからかな」
「分からないけど、胃がキューってなる」
 春来が胃の辺りを押す。
「痛むの?」
「かな。先生、思い出すんです」
 やっと慶太郎の目を見て話した。
「小倉さんのこと?」
「どんどん色が濃くなる感じ」
 折に触れて思い浮かぶ由那の顔や服装、背景の田畑、空の色までが鮮明になっていくのだ、と春来は言った。
頻繁ひんぱんに思い出すの?」
「うん」
 短い間隔でフラッシュバックしているようだ。
 母親からの事前申告では、電車に乗れず、学校には車で送り迎えしていると言っていた。一週間の加療休暇の診断書を書こうかと、慶太郎が申し出たが、母親は断った。精神科医にせていることを、学校に知られたくないのだろう。
「それが怖いんですか」
「怖い? そうじゃなくて、自分で記憶を確かめようとしてるんです」
 苛立いらだちがあるのか、口調が強くなった。
「確かめるって、何をですか」
 想像はつくが、あえて春来に言語化させる。
「そんなの決まってます。私に手を振った小倉さん、死ぬ決心をしたんじゃないってことをです。こないだも先生に言ったけど、そんなの絶対あり得ないし」
 春来の目つきが険しくなった。
 これ以上、由那の死に関して責任を感じると、摂食障害だけでは済まなくなり、本当の自傷じしょう行為へと悪化しかねない。
 見たはずもない由那の死の、具体的なシーンを想像して、あたかも自分が加害者のように受け止めてしまう危険性がある。いまの症状に、加害者としての心的外傷後ストレス障害が加わると治療はいっそう長引く。
「先生、こないだ春来さんと約束したね。だからいま、一所懸命小倉さんのこと調査しているんですよ」
 春来が顔を上げた。こぼれ落ちそうな眼で慶太郎の顔を見つめる。慶太郎がうそを言っていないかをさぐる行為だ。
 やはり一から信頼関係を築く必要がありそうだ。
「ほんと?」
「約束を実行してます」
 春来は固まったように慶太郎を見ている。
「先生が?」
「うん、いろいろな方法でね。春来さんが言ったように、きちんと調べないと小倉さんの死を自殺だと決めつけられてしまうから」
 慶太郎は、このままでは警察の捜査も終わってしまうかもしれないと言った。理由は、やはり遺書だと思われるものが発見されたからだと説明した。
「遺書なんか書くわけない」
 かすれているけれど、しっかり聞き取れる声だった。
「遺書めいたものだった、と言ったほうがいいかな」
「違う、違うそんなはずない」
 激しく首を振る。でんでん太鼓だいこのように髪が両ほほをたたいた。
「それを調べてるんだよ。先生はその文面をある人から口頭こうとうで聞いたけれど、遺書だとも、そうじゃないとも判断がつかなかった。それが正直な印象です」
「でも、みんな小倉さんが自殺したと思ってるんでしょう?」
「そうだね。だけど、春来さんと僕は、自殺で済ませようとしていない。真実を突き止めようと動き始めたってことだけは、春来さんに知っていてもらいたい」
「先生、その文章覚えているんですか」
 しぼり出すような声で春来が訊いてきた。
「ところどころね」
 ICレコーダで録音したものを、全文ワープロで文字に起こしてある。しかし、春来に由那の自殺シーンを想像する材料を与えるわけにはいかない。
「教えて、ください」
「正確じゃないから、よしましょう」
「どうして? 知りたいんだけど」
 むっとした顔つきだ。
「正確なものを手に入れたら、見せます。でもうろ覚えのものを伝えるのはよくない。それが小倉さんへの優しさじゃないかな。春来さんも、自分の書いたものをいい加減に人に伝えてほしくないでしょう?」
「遺書なんて、そんなもの書く意味ないし、わけ分かんない」
 それは独り言なのか、慶太郎への反発なのか、きつい口調だった。
 小休止をとろう、と慶太郎は春来に飲み物を勧める。診察室の外の待合室に自動販売機があって、そこにあるジュース類を書いたメニューを見せた。
 春来は予想通りダイエットコーラを指さした。それを内線で受付の澄子に伝えると、コップとコーラを運んできてくれた。
 コーラをいでやり、自分はサーバーからコーヒーを注いでソファーに戻る。ただ、慶太郎は診察中にコーヒーを飲むことはない。そうしないと、クライアントが遠慮して飲みにくいからだ。あくまで雰囲気作りの小道具だった。
 慶太郎はカップに口を付ける振りをして尋ねる。
「書く意味がない、と言いましたが、なぜそう思うんですか」
 春来が考えていることを吐き出させたかった。
「遺書って、これは自殺ですって言うために書くんでしょう」
「そうだね」
「なのに、先生は遺書かどうか分からないって言ったでしょ。それっておかしくない?」
「メモのようなものだったらしいから、発作ほつさ的な走り書きだったかもしれないけどね」
「発作的って、それも変」
 春来が頬をふくらませた。
「どうして?」
「だって、それだったら私の見た小倉さんは何? もしあれが死ぬ決心をしたんだっていうなら、もう何時間も前から死のうとしてたんでしょう?」
 春来は感性が鋭いだけではなく、理性的な頭脳も持ち合わせていた。
「メモみたいなものじゃなく、きちんとした遺書を用意する時間があったってことになるね」
 時間があったのにチラシの裏に書いた遺書。はっきりと遺書だとは認識できない文面。なのに鍵のかかった部屋。アナフィラキシーショックでの死。次々と湧いてくる由那の自殺への疑問に、慶太郎はどうが早くなるのを感じた。
 この子の勘が正しいのかもしれないと、じっと春来の顔を見る。




 慶太郎は、午前中を休診にして山陰本線の特急に乗った。朝八時台にもかかわらず城崎きのさき温泉行きの列車ということもあってか、車内は混んでいた。
 京都じゅうかん道が整備され、車のほうが便利だと思ったけれど、光田のある言葉で鉄道を使うことにした。
「実家の住所が分かりましたんで、地図を付けてメールで送ります。京都から行きますと、綾部駅直前の線路脇辺りですから分かりやすいです。やっぱりお祖父さんの代から鉄道マンだったからなんでしょうかね。ほんとうに線路に近い場所ですよ」
 電話の後、メールを開いた慶太郎も、光田と同じ感想を持った。鉄道マンの家に育った由那は、仕事の休憩時に線路を走る列車を見ていた。そして手を振った。
 由那にとっての走る列車は、瞬時にして故郷に、幼い時代に戻ることができる原風景だったのだろう。
 姉にも話を訊くべきだと思い家を出たが、由那の原風景を無性に見たくなった。
 亀岡かめおか駅を過ぎた頃、車窓からの景色は紅葉前の緑と黄色の織りなす山を背に田畑と町並みが交互に現れ、時折、線路に併走する国道のまばらな車列が垣間見えた。
 列車は京都駅から約一時間で綾部駅に着く。五〇分が経過したとき、慶太郎はバッグからタブレットを取り出し、光田が送ってくれた地図を表示した。
 駅の手前の線路脇に由那の実家がある。駅に近づくにつれ列車は速度を落とし始め、どの家だろうと眺めるが、家並みは後方へ流れていった。                              
                                                   〈つづく〉