第一章 動揺〈承前〉
熊井の会社は奈良県生駒にある。元々は京都市内の商社に勤めていたが、日本社会のフードロス現象に疑問を感じ、せめて食べ残しは飼料や肥料へとリサイクルを徹底させるべきだと訴え、一九年前、四十歳のときに退社して食品リサイクル会社「熊井産業」を創った。大阪出身で国立大学を卒業する間際にインドなどを放浪して見聞きしたことが頭から離れず、のちの起業に結びついたと聞いている。現在、熊井産業は近畿地方で七つの営業所を展開し、自社プラントを木津川市内に持っていた。
正太も食品ロスのニュースを見聞きするたび心を痛めていた。子供の頃、よく母からものを大切にするよう言われた。なのにお店では傷んでもいない食品を廃棄している。幼心にずっと矛盾を感じていた。
十歳くらいのとき、回収車へと放り込まれる食べ物を見た。そのときの悲しい気持ちが、棘のようにいまだに正太の胸に刺さっている。
「もったいない」というのではない。毎日遊んでいたお気に入りのおもちゃを捨てられたような感覚だった。この痛みは、大好きな「惣菜部のおばあちゃん」、井東サワが一所懸命に作ったものだと思い込んでいたからだ。
正太の味覚は、忙しい両親の代わりにまかないを食べさせてくれたサワばあちゃんの惣菜によって育くまれたといってもいい。学校で友達が嫌いだと言って食べないピーマンやほうれん草、セロリやニンジンも正太の好物だ。ちょっと苦手だなと思っても、正太の表情を見て、すぐに作り替えてくれる料理は皆美味しかった。次に口に運んだときには、好きな野菜の一つになっていた。
正太には骨の髄までサワの味が染み込んでいる。店を継ぐと決められていたことに反発し、わざと東京の大学に進学したが、サワの料理の味だけはどうしても忘れられなかったほどだ。
後になって実際に廃棄されていたのはサワの惣菜ではなく、フードコートなどで使っている取引業者が納品した料理の売れ残りだと知ったけれど、刺さったままの棘は消えない。
そんな正太に二年前のある日、「もったいないでっしゃろ」という言葉を投げかけてきたのが熊井本人だ。廃棄を担う会社の代表とも思えない台詞に興味を抱き、話を聞くうち熊井の魅力に引き込まれた。
「ぼんは将来お店を継がはるんでしょう?」
すでに熊井は正太を経営者の息子だと知っていた。
「いや、それはまだ」
他人に本心など言わなくてもよかったのに、つい口を突いて出た。
「あれ、親不孝なことをおっしゃる。まあ、このまま継いでも、親孝行やとは思えまへんけど」
「どういうことです?」
店を継ぎたくなかったのは、青息吐息の自転車操業、そんな経営状態を知っていたからだ。それを熊井は見透かしていた。
「ここは地元では頼りにされてるお店です。なくてはならん。そやのに周辺に大型店ができてきてますから、大変や。ほんまの孝行は、ぼんの手で店長を、いやご両親を楽にさせてあげるこっちゃな。けど、単に儲けるいうのは他の大型店の経営者と同じですわ。存在意義、存在価値を高めて銭儲けもせな」
その意味を問うと、熊井は食品業界の暗黙の慣習である三分の一ルールの批判を口にした。
どの業界にも独特の慣例があって、それが常識化していることがある。食品業界には、製造日から賞味期限までのうち、最初の三分の一が小売店に届ける「納品期限」で、残りの三分の二が店頭に並べられる「販売期限」だという商習慣があった。つまり納品期限を一日でも過ぎると小売店は商品を受け取らず、販売期限を越すと店頭から排除する。
そもそもこのルールの基準になっている賞味期限は品質保持が目的で、それを過ぎていても傷んだり腐ったりしているわけではなく、充分美味しく食べられる。ことに日本の賞味期限は短く設定されているのだ。
暗黙のルールや消費者の意識によって、日本の食品ロスは年間六五〇万トンとも、その倍とも言われるほど膨大になっている。
「そやから私ら廃棄業者は、リサイクルのお手伝いをしてるんです。けどまだまだ考えが足りまへん」
食品ロスを少しでも減らすために、スーパーの店舗で発生した販売期限切れ商品を飼料や堆肥などに加工してリサイクルすることが、さらに大きな環境問題を引き起こしていると熊井は言った。
「食べられるものをそのまま捨ててしまうより、悪いこととは思えないんですけど」
正太は半信半疑で言った。
「そら、リサイクルはしたほうが、せんよりましや。けどな、ぼん、考えが足りないって言うてますのや。私の会社でも飼料にするためのプラントを持ってます。そこに運び込む廃棄食品はスーパーとかコンビニのお弁当におにぎり、惣菜類やパン類というところです。ぼんとこの惣菜は添加物入れてないけど、他のところが扱ってるもんにはぎょうさん使てはる。それは処理できひんさかい、エサとなって豚や鶏の体にそのまま入りよる。これ、ええと思いなはるか?」
「あまりいいとは思えないですけど、元々人が食べるものだから、そんなに悪いようには」
「ピンとこない。それは正直な感想ですな。ほなこれはどうです? おにぎりとかお弁当は、たいがいビニールかプラスチックの容器に入ってます。惣菜を入れてある容器は発泡スチロールでできてますな。それを廃棄するとき、いちいち分別できると思いますか」
「えっ、分別されてないんですか」
驚きの声を出したことを覚えている。
「廃棄することを前提での処分機ですさかいな。どんだけの量やと思てなはる。容器のまま放り込むしかしょうがない。熱処理して熱風で吹き飛ばしますけど、完全に除去することは不可能や。つまりビニールやらプラスチックやら発泡スチロールの成分が残留したままの飼料ができてますんや。そんな化学物質の混入した餌を食べた家畜が健康ですやろか。もっと突っ込んで言うたら、立派な環境ホルモンです。立派言うのは変やけど」
「それを食べた鶏の産む卵は?」
「環境ホルモンが巡っていくんやおまへんか。これは飼料となった場合や」
「肥料とされるものでも問題が?」
「リサイクルで作った肥料にかて、環境ホルモンは含まれてます。それで何を作るか。牛が食べる牧草、豚とか鶏が食べるトウモロコシですわ」
「巡り巡って人間の食べ物……」
「農業は土やって言いますやろ。リサイクル肥料で作った米や野菜を想像してみなはれ。ゾッとします」
そのとき、熊井がリサイクルを否定した意味が飲み込めたのだった。
それからというもの、三分の一ルールが廃棄処分の量を増やしていることの虚しさを感じている。
フードコートで出すものは、食品加工業者から仕入れた調理済みのものがほとんどだ。その売れ残りを惣菜部で再調理して売ることが事実上の横流しになり、廃棄物処理法に抵触することは分かっている。しかし、まだ食べることができる食品を廃棄したくないし、熊井が言うようにリサイクルすることが必ずしもいいこととも思えない。
熊井はいま、環境ホルモンを軽減するプラントの研究中だ。万事、彼についていけば間違いない、と正太は確信している。
とにかくハッピーショッピーの存在価値を高めるために食品ロスをゼロに近づける取り組みに協力しながら、惣菜部の力を最大限に発揮させる。熊井の裏方を務めて、しかるべき時期がくれば、サワの味の惣菜や弁当を売る店を全国展開するつもりだ。
ようやく俺の時代だ。そう考えるだけで胸が高鳴り、自然と笑みがこぼれた。
正太はバックヤードから店舗の二階にある事務所へ上がる。
すると中央にある長机に、親父と見知らぬ若い男性とが向き合っていた。二人とも深刻そうな顔つきだ。
「おう正太か」
親父が気づいてこっちを向く。
「こちらは?」
と、男性に一瞥をくれると親父に尋ねた。
親父が紹介しようとしたが、男性は素早く立ち上がり、
「息子さんですか。私はこういう者です」
と濃いブルーのスーツの内ポケットから名刺を出した。どうやら店のことを調べているようだ。
受け取った名刺には「毎読新聞京都支社 社会部記者 光田洋平」とあった。
由那のことならうまく沈静化する方向で対応しないといけない。名刺を持つ手に力が入る。
「京都府警記者クラブに常駐している駆け出しです。よろしくお願いします」
光田は、店に面接を受けに来るアルバイト学生のようにハキハキした言葉遣いでお辞儀をした。後頭部の髪の毛が寝癖で突っ立っているのが見えた。将棋の羽生善治を思い浮かべ、そういえば何となく似ていると思ったのは眼鏡のせいだけではないだろう。
「小倉さんのことですね?」
正太は近くにあるパイプ椅子を片手で引き寄せ腰をかける。少し遅れて光田も元の椅子に座った。
「ええ、いま名田店長さんから話を聞こうとしていたところです。木津川署は自殺に間違いはないと見てるようですが、その理由に現場にあったメモの文章が遺書めいていることをあげています。ええっと、ちょっと待ってください」
光田は長机の上に置いていた大学ノートのページを繰る。
「あった、ありました。『もう限界です。これ以上は耐えられません。ただ自分が楽になりたいだけじゃなく、支えてくれた人たちのために決心したんです。覚悟を決めて今日のうちに行動に移します。迷惑をおかけすることになるもしれませんが、私の気持ちを分かってください ゆな』」
光田のコンピュータ音声のような抑揚のない読み方は、意味が取りづらい。
「親父、いや店長は実物を見たんだよね」
「うん」
親父は辛そうな表情でうなずき、
「細かいことは覚えてへんけどな。そんなに思い詰めてたんやなって思うと、可哀想で」
と深いため息をつく。ため息は親父の癖になっている。
「遺体発見時のことを伺ってたんですけど、小倉さんの家の卓袱台の上にあったんだそうですね」
「卓袱台の端っこに、ぽんと置いてありました」
「そのことで確認したいことがありまして」
「どういったことですか」
「警察への取材では、お店のチラシをハガキ大くらいに切ったものの裏の白い部分に、鉛筆で書かれてあったということでした。この点も間違いないですね」
「そうです」
親父がしわがれた声で答える。ひよこマークのエプロンをつけるには無理があるほど親父の顔には皺が刻まれ、頭髪は真っ白だった。
親父は、もう昔のように反発のしがいもない相手になっていた。
「遺書にしてはチラシの裏というのが妙だなと思ったんですよ。それに四つ折りにたたまれていたとも聞いてます。それはどうでした?」
「見つけて取り上げたときはたたまれてはいませんでしたけど、くっきりと折り目がついてました。それも普通の四つ折りやのうて縦に」
「確かこんな感じの折り方でしたよね」
光田は大学ノートを一枚引きちぎり、封筒に便箋を入れるときのように縦折りにして見せた。
「そうです、そうです。私が選挙で投票箱に入れるときにそうします。大きさも投票用紙くらいやったから、メモを手に持ったとき選挙を連想したんやと思います」
「私は警察でそれを見るまでは、もうちょっときちんとしたものを想像していたんです。でも実際は、店長さんもおっしゃるように投票用紙を折りたたんだようなもんでした。なんだか慌てて書いたような気がした。だから小倉さんに何があったのかが気になりましてね」
「それが私にはさっぱり。お前はどうだ?」
親父がこっちを向いた。
「僕も心当たりはないです」
と首を振る正太を補足するように、
「惣菜部では大変よくやってくれていたし、なくてはならない人材でした」
親父が言った。
「しかしアルバイトだったんですよね」
「それは……」
親父が目をしょぼしょぼさせ始めた。都合が悪くなると、いつもそんな顔になる。
「この頃は景気が悪くて、なかなか正社員にはできないんです。周りを見てもらえば分かると思いますが、大手のスーパーマーケットが進出していますから」
今度は親父の代わりに正太が答えた。
「お店の事情ですか」
「ええ。でも貴重な戦力であったことは間違いないです。本人もやり甲斐を感じているように言ってました。なんなら、惣菜部の主任に話を聞いてもらってもいいですよ」
と正太は、惣菜部の主任、平岡真理子の名前を告げた。
「それはありがたいです。一緒に仕事をしている方に取材するのが一番いいんで。きちんと現場取材しないと上の人間がうるさいもんで」
光田は苦笑いしてノートを閉じる。もう真理子に会う気でいるようだ。
「あの、その前に教えてほしいことがあるんですが」
正太が光田の動きを止め、
「毒物を飲んだってことしか聞いてないんですけど、いったい何を飲んだんですか」
と訊いた。素人が手に入れられるものといえば、この辺では農薬くらいだろう。ただ、それなら農薬だったとすぐに分かるはずだ。何も伝えられていないことが引っかかっていた。
「それについてはまだ警察からは発表されてないんです。記者発表の通り毒物だとしか我々も聞いてません。それも疑問の一つです」
「そうですか。平岡さんですが、いま仕込み時間ですから手短にお願いします。それと、僕が立ち会います。いいですか」
少し間が空いて、光田はうなずき、
「では店長さん、また後で遺体発見時の様子を伺いたいのでよろしく」
と、言った。
「構いませんが、店内をうろうろされるのはちょっと」
親父が白髪を掻き上げながら言いよどむ。
「ご迷惑はおかけしません」
「いや、光田さん、すべての取材は僕を通してもらいます」
あいまいな態度の親父を尻目に、正太がきっぱりと言った。下手に嗅ぎ回られて熊井との取引を知られては一大事だ。
5
本宮慶太郎は初対面の人の顔を見ると、つい分析してしまう。診察以外はもう少し気楽に人付き合いしたほうがいいと妻は言うが、職業病だから仕方ない。
クリニックにやってきた光田洋平の第一印象は、クレッチマー的に言えば細長型だ。愛想笑いも見せず、雑談もしない非社交性。スーツはうまく着こなしているのに、ちょんと立った寝癖の髪を見ると、興味のあることには鋭敏な反応を示すが、それ以外は無頓着な分裂気質に当てはまるかもしれない。
先入観は禁物だけれど、詰まるところ、由那の自死に疑問を持ちさえすれば精力的に取材してくれるだろう。
光田は、慶太郎が出したコーヒーを一口飲んで、黒縁の眼鏡をなおすと大学ノートをめくる。
「デスクから、急にハッピーショッピーの小倉由那が自殺した件を調べてくれ、と言われてこの数日動きました。その上で本宮精神クリニックの本宮先生に会えとのことですが、僕には状況が飲み込めません」
光田の言葉は、文句を言っているようには聞こえなかった。しゃべり方に抑揚がなく、感情が現れないためだ。
「何が何だか分からないという感じでしょうね。これには訳があります。光田さんは不本意だと思われるかもしれませんが、私にとっては重要なことなんです」
慶太郎は口外しないことを前提に、ある患者の治療に由那の自殺の真相が絡んでいると話した。電車の窓に向かって手を振って励ましてくれた相手が、その日に自殺した事実を受け入れられないでいることを説明した。
「小倉さんが手を振った?」
光田は顔を慶太郎に向けたまま、ノートを見ないでボールペンを走らせた。
「ええ、ガッツポーズもしたんだそうです。ここにくる患者の多くは神経が他の人よりも過敏です。感受性が強過ぎる人は微妙な変化を見逃しません。そこに特別な意味を持たせてしまうことが病の原因になっているケースもあります。その患者もそうではないと言い切れませんが、いまは事実が知りたい」
と言ってから、患者の話を鵜呑みにしているわけではない、と付け加えた。
「直観力を信じるということですか」
「ええ。新聞記者にも不可欠な能力ですよね」
「私も警察で小倉さんの遺書を見たとき違和感を覚えたんです」
「遺書をご覧になったんですか。その内容を教えてもらえないですか」
「先生に守秘義務があるように、我々記者にも当然それはあります。特に警察からの情報は慎重に扱わないといろいろ問題もありますから」
と光田は開いた大学ノートに目を落とし、
「もう事件性なしということで処理される案件ですから、いいでしょう。コピー等はダメですので、読みます」
と、顔を上げた。
光田が読み始めた瞬間に、慶太郎はICレコーダーのスイッチを入れた。
読み終えた光田は、コーヒーを口に運んで続けた。
「さらに、遺書がチラシの裏だったことと、名田店長曰く、投票用紙のような折り方だったという点にひっかかりました」
「名田さんというのは?」
「これは失礼しました、ハッピーショッピーの経営者です。記者のイロハのイ、5W1Hができてないって、しょっちゅうデスクから注意されるんですよ」
光田は声を出さずに肩をふるわせて笑った。
「そ、そうですか。新聞では店長が遺体の第一発見者となっていましたね。そのときの様子もお訊きになっているんでしょう?」
「ええ、一通りは。はじめはよく覚えていないって言ってたんですが、何とか断片をつなぎ合わせて思い出してもらったという感じです。亡くなった小倉さんは、惣菜部に所属してました。アルバイトだったんですが、主任の平岡さんの右腕で、頼りにされているんだそうです。ところが夕方四時からの調理の時間になっても現れなかった」
ハッピーショッピーの惣菜部は昼食用、そして夕食用、さらに夜食用の三回、商品の補充と入れ替えをする。したがって仕込みと調理は朝七時、午後四時と八時に行うことになっていた。
「頼りの小倉さんがいなくて、大変だったんじゃないですか」
「平岡さんの話では、他のアルバイトやパートさんとで何とか凌いだそうです。そのうち連絡してくるだろうと、とにかく調理作業に入った。六時の売り出しにもこなかった時点で、平岡さんがその旨を店長に報告しました。それを受けて名田さんは小倉さんの家に電話をかけたが出なかった。八時の作業まで待ったけれどやっぱり電話に出ないので、自宅アパートに様子を見に行ったというわけです」
アパートの部屋のブザーを押したが返答がなかった。ドアには鍵がかかっていたので、管理人に事情を話し、一緒にスペアキーでドアを開いた。
「そして遺体と対面したんですね」
「まず目に入ったのは、苦しんだであろう小倉さんの顔だったと言ってました。なんでもよくテレビや映画で見る、喉を掻きむしるような格好だったんだそうです。細身の女性だったのに顔が腫れている感じで、一瞬ですが誰だか分からなかったと言ってました」
「可哀想に、苦しかったんだ」
「とっさに駆け寄り名前を呼んではみたものの、返事がない。そうする一方で、もう息がないというのは分かっていて、体には触れないようにしたと言ってました。刑事ドラマなんかで現場保全が大事だって言っているのを思い出したそうです。で、自分の携帯から一一〇番に電話した。そのとき卓袱台の上にある紙片を見つけたんです」
せっかく現場をそのままにしておこうとしたのに、気になって手に取ってしまった名田は文章を読み、これは遺書だと思い、慌てて卓袱台に戻した。警察が到着したとき、開口一番遺書に触れたと申告したそうだ。
「うーん。チラシの裏だから、ふと手に取ったんでしょう」
それほど粗末なものに見えたということだ。
「それも、A4サイズのチラシを四等分したものを縦に四つ折り」
「珍しいですね。そうする習慣でもあったのかな」
慶太郎は製薬会社のロゴの入った卓上メモを一枚手に取って四つ折りにしてみた。大きさからすれば、ポチ袋にでも入れようとしていたかのような形状になる。
「実は惣菜部の調理場で、材料のチェックとか調味料の分量とかを書き込むのに使用してたメモだったんです。調理場に置いてあった2Bの鉛筆と僕が警察で見た遺書の鉛筆文字の太さ、濃さは似ていると思いました。直感ですがね」
と、また光田は声を押し殺して笑った。
「それは小倉さんの部屋を確認しないとなんとも言えないですね。自宅でもチラシをメモにしていたかもしれないし、鉛筆だって同じものはいくらでもありますから」
「それはそうです。ただ先生に伺いたいんですけれど、自殺者の心理というか、精神状態と言えばいいのか、もう我慢の限界に達して自殺をしようと考えた人間が遺書を書くのに、チラシの裏を選びますか」
眼鏡の奥から真剣なまなざしを向けてきた。
興味を持っている者の目だった。
「発作的に行動を起こす場合、手近なものに殴り書きをすることはあり得ます。ただ妙だなと思ったのは、やっぱりそれを折りたたんだ点です。もう死ぬからこれだけは書き残さないといけないと思って鉛筆を手にする。慌てているから改めて便箋やノートなどを用意できず目についた紙に書き留めた。だとすると折る行為は余分です。縦に小さくしてどうしようとしたのか」
「確かに、名田さんのように投票箱にでも入れるなら分かりますがね」
「小倉さんの普段の暮らしぶりが分かれば、その辺も」
「惣菜部の方の何人かには話を聞きました」
「それは興味深い」
「まずは簡単なプロフィールから。年齢は三十四歳、独身。結婚歴はなし。出身は京都府の北部の綾部市です。地元の高校を卒業して京都市内の飲食チェーン店に就職。同じような食品関係のお店を何軒か経て、三年前にハッピーショッピーにアルバイトとして勤め始めたということです。実家の両親はすでに他界しており、肉親は姉だけで綾部に住んでいるらしいです。お店での評判はいいですよ。大人しくて控え目なんですが仕事はてきぱきこなす。とくに味覚が鋭いんだそうで、味見を担当してました。毎日同じ味にするためには欠かせない存在だったみたいです」
正社員にしないのは経営上の問題だと名田は言ったが、由那本人はいまの立場で満足してると周りに漏らしていたそうだ。
「ただ最近、相当悩んでいたことがあるんだと主任さんは言ってました」
「悩みを抱えていたんですか」
「平岡さんはある男性のことではないかと」
三十四歳の独身女性が、男性とのトラブルを抱えて一時的な感情で死を選ぶケースは残念ながらある。
「深刻なものだったんですかね」
「裏を取る必要があるでしょうが、そのようです」
「それをその平岡さんに相談していたんですか」
「いえ、具体的にはなかったようです」
「じゃあ、誰なんだろう?」
「どういうことですか」
「さっき読んでもらった遺書に、自分が楽になりたいだけじゃなく、支えてくれた人たちのために決心したという文言があったでしょう。あれは誰のことなのか」
支えてくれた人がいて、その人は由那の悩みを知っていた。そして自分の決心はその人のためにもなるんだと言っているようにとれる文面だ。
(つづく)