第一章 動揺 <承前>

「背中を押してくれた。そう思ったんですね」
 偶然と思い込みの産物であることは明らかだ。しかしそれは言えない。
「感じるものでしょう?」
 春来はる きが上目遣いでいてきた。
「何を、ですか」
「どう言ったらいいのか分からないけど、いやな感じかいい感じか。いやな感じだったら、私、お母さんに言えなかったと思う」
「感じ方がよかったから、前向きになれた。元気、いや勇気を与えてくれたってことかな」
「これから自殺しようとしてる人に、私励まされたりしない、です」
 真剣な目で春来はこちらを見た。
 聡明な言葉だ、とけいろうは思った。
ぐらさんが自殺するはずない、と思ったんですね」
「なのにこれには自殺の可能性が高いって。うそです。嘘が書かれているんです。私、どうしたらいいんですか」
 泣きそうな表情になった。
 いま、春来は強い無力感にさいなまれているようだ。自分の背中を押してくれた人に、何もしてあげられないことで、自分を責めている。食事を摂らないのは自傷行為だ。
「どうしても小倉さんが自殺したとは思えないんですね」
「だって、ほとんど毎日顔を合わせてて、初めて手を振ってくれて、私も振り返した。すごく嬉しくて、胸が熱くなって、力が湧いて」
 春来は早口で言いながら、とうとう泣いてしまった。
 慶太郎はティッシュペーパーの箱を春来に差し出し、泣き止むまでしばらく待って、
「気持ちがつながったようだった。そんな感覚ですね」
 と言葉をかけた。
「先生は信じてくれるんですか。自殺じゃないって」
「あなたの話を聞いて、先生も小倉さんが自殺する気でいたとは思えません。でもね、すぐに結論は出せない。それは分かりますね?」
「うん」
「真実を知っているのに、何もできないもどかしさを春来さんは感じている。それなら、あなたにできることを先生と一緒に探していきましょう。そしてできることが見つかったとき、あなたの力が必要になる。だから、いまあなたに身体を壊してほしくないんです。食べないと、健康をそこなう。先生の言いたいことも分かりますね」
 ある意味、食事をしない原因ははっきりしている。うまく対処しないと本当に摂食障害へと進行してしまいかねない。
「……あの人を助けてあげられるんですか」
「ええ、大丈夫」
 と、春来の目を見た。嘘も方便で成り立っている医療なのだとつくづく思う瞬間だ。薬物療法より問診を重視すればするほど、精神科医が嘘をつかなくていい治療はないものなのかといつも考えてしまう。
「今日はこれくらいにしましょう。この用紙に身長や体重、好き嫌い、得意なことや興味をもっていることを書いてください。受付で次の予約をとって帰ってね」
 慶太郎は立ち上がり、入り口まで春来を誘導した。 


     3


 その後、軽度認知症の高齢者と、転職をきっかけにヒステリー球にかかった四十代のサラリーマンの二人の患者を診察した。ヒステリー球とは咽喉頭いんこうとう異常感症と呼ばれ、主にストレスによって喉が詰まったように感じたり、違和感を覚える疾患だ。
 閉院の午後八時まで、小一時間あった。
「ねえ、慶さん、気になったんだけど」
 コーヒーカップを乗せた盆を持って、診察室に入ってきた澄子すみ こが、ソファに座った。慶太郎もデスクから移動する。
 澄子は夜の予約状況を見計らって、慶太郎の食事を用意しておき、実家の家政婦さんに面倒を見てもらっている長男、たかしと食事をする。再びクリニックに戻ってくるとコーヒーをれてもってきてくれた。
「分かってるよ、棚辺たなべ春来さんのことだろう?」
「多感な時期だから、思い込みってこともあるわよ」
「それは否定できないけれど、『これから自殺しようとしてる人に、私励まされたりしない』という彼女の言葉が気になってね」
 の行動から勇気を得たと感じたのを、勘違いや思い込みだと断じるのはたやすい。多感な年頃なら、そんなこともあるだろうし、澄子の意見も間違いだと言い切れない。しかし実際に、春来は母親にダンス教室の件を切り出している。
「死にたいと思っている人間に、だよ。それを無視できないんだよな」
「勘違いからでも、人は動かされるわよ。私たちの結婚のように」
「きついな」
「だって慶さん、僕が目指しているのは単なる医師じゃない、心をいやす詩人なんだって言ったんだからね」
 初めて会った合コンの席上で、慶太郎が澄子に職業を聞かれて言った言葉だ。合コンは友人の恭一きょういちが主催したもので、場所は神戸のしゃれたホテルラウンジだった。当時研修医で、何科の医師になるか模索する中、悶々もんもんとした気持ちを紛らわせようと草野くさの心平しんぺい吉野よしのひろし石垣いしがきりんなどの詩集を読みあさっていた。店の雰囲気に合わせ格好つけようとして、つい口がすべった。
「だから付き合ったわけでもないだろう」
「ううん、ポイント高かったわ。他の人はみな現実主義な研修医ばかりだったもの。六つも年下の世間知らずをかどわかすには十分な台詞せりふだった。二十六歳と二十歳だからそんなに年齢差を感じないけど、小学校六年と高校三年生なら、大変なことだわ」
「それはこっちに置いとけよ。いまは棚辺さんの話をしてるんだ」
「警察が自殺の可能性が高いって思ってるのに、それを違うって言ってもね」
「まずは共感してあげないと治療にならない。何といっても、患者さんとの信頼関係が大事なんだから」
「それは分かるわ。でもね、あの子の心はすでに亡くなった小倉さんとシンクロしてしまってる気がする」
「そうだな」
「自殺じゃないのに、自殺にされてしまった小倉さんの気持ちになって、悔しがってる」
「分かってるよ。だから順を追って治療をしていくんじゃないか」
「そうかしら。順を追ってって感じじゃなかった。約束したのと同じよ、あれは。小倉さんが自殺か、そうじゃないかを調べるって。自殺じゃないって言った春来さんの言葉を証明するって大見得おお み えきったようなもの。思春期の女の子なのよ、先生の言うこと信じ込んでるわ。それにあの子、感性が鋭い。どうする気?」
 澄子は突き放した言い方をした。
「それはまずかったな。うーん、警察関係者に知り合いはいないし、どうすればいいんだ」
 澄子の指摘はもっともだ。
 治療方法に間違いがあるとは思えないが、警察でもない自分が小倉由那の死因を調べられるはずもない。
沢渡さわたりさんにでも訊けば」
「守秘義務がある」
「何も治療の一環だなんて言わなくてもいいじゃない」
 澄子はさっさと席を立った。
 澄子が診察室を出て行くのを確かめてから、慶太郎は恭一に電話した。
 警察に自殺だと判断された女性がいるのだが、疑問をもっている。真相を調べたいので知恵を貸せと話した。
 すると恭一は、なぜか嬉しげに午後十時にそっちに寄らせてもらうと言った。
 恭一の顔を見たらまず、人が亡くなっているのに不謹慎だ、と注意してやろう。


「駅前はいいけど、そこからの道が暗いな」
 平気で三十分ほど遅れてきた恭一が、文句を言いながらクリニックの玄関を入ってきた。
「アンバランスな都市開発だって言いたいんだろう」
 受付カウンターから、スリッパに履き替える恭一に言葉をかけた。
「せめて院内だけでも明るくしておいてくれよ。この薄暗さ、節約か」
「節約しないといけないんだよ、誰かさんの口車に乗ってしまったから。こっちはマジでバイトの求人サイトを閲覧してるんだ」
はその辺にして、話を聞こうじゃないか」
 恭一は丸めがねをハンカチできながら、待合室を通り過ぎて診察室のドアを開く。
「おい、勝手に入るなよ」
 慶太郎もあわてて彼の後を追う。
 恭一が応接セットの奥に座り、
「どうぞ」
 と、慶太郎を促す。
「カウンセリングでもする気か」
「だってお前の診断ミスで女性クライアントが自殺したんだろう? 女房のしりに敷かれた気が弱い慶太郎先生のことだ、心的外傷後ストレス障害だっけ、そんなのになってるんじゃないか?」
 恭一は、ネクタイを緩めてソファーにもたれた。
「勘違いすんな。そんなんじゃない」
 慶太郎もソファーの背に身をゆだねた。
「まあ、言いたくないのは分かる。阪神・淡路大震災のときに助手としてかり出されて以来、お前はずっと自分の無力さを責め続けているんだ。それを分かってるのは、俺だけだ」
 恭一はしたり顔を見せ、一人でうなずいている。
 内科医か外科医、どちらに進むべきかを悩んでいたが、大震災がその方向を決めたことは確かだ。傷が癒えても、心が元気でないと人は前に進もうとしない。本当の意味で、立ち上がれないと感じた。だから心をる精神医学にかれたのだ。
「無力さは痛感してるけど、自分を責めてなんていない。元来、お前は思い込みが激しいんだよ。とにかく俺のクライアントが自殺をしたんじゃない。亡くなったのは面識のない女性なんだ」
 慶太郎は春来から預かった新聞記事のコピーをデスクに取りに行き、ソファーに戻ると恭一に手渡した。
「小さな記事だな」
「まあいいから読めよ」
 と再び立ち上がり、給湯室に行ってコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
 コーヒーを入れたカップを盆に乗せ、応接テーブルに戻る。
「おうサンキュー。なんでこの女性の自殺に疑問がある?」
 恭一はカップに手を伸ばしてコーヒーをすする。
「自殺したと思われる日に、その小倉由那って人を目撃した女性がいるんだ」
 診察で知り得た情報を他言する訳にいかないから、ところどころ誤魔化しながら、春来から聞いた由那の様子を恭一に話した。
「おいおい、お前大丈夫か。理系の人間とも思えないな。すべては見たって言う女性の思い込みだろう。むしろそっちを疑問視すべきだ」
「死のうとしている人間に励まされないって台詞、何か心に響かないか」
「お前って、やっぱり詩人だな」
「ダメ元で調べたい」
 背もたれから体を起こし、
「力を貸してくれ」
 慶太郎は膝に手を置いて頭を下げた。
「その女とお前、何かあるのか」
「アホか、そんなんじゃない」
「澄子さんのいるところでは話せない、女だな」
 いつになく真剣な顔で恭一は身を乗り出す。
「いいや、あいつも知ってる」
「事態はそこまで深刻な状態ってわけか」
「怒るぞ、ゲスの勘ぐりはよせ」
 診察室に慶太郎の声が妙に響く。
「お前の頭の中は、三流週刊誌か、ワイドショーネタしかないのか。しようがない白状する。患者だ」
「あっちゃ、掟破りだな」
「もちろん誰だかは言わん。その患者は、自分に手を振った後に自殺した小倉さんの心にシンクロしてしまって、摂食障害の初期症状が出てる」
 一気にしゃべった。
「自殺じゃないってことになれば、その患者の病状が改善するのか」
「それは分からない。ただ、自殺じゃないのにそうだと断じられて無念だろう、と彼女は思っている。その無念さを知っているのは自分だけだ。なのに何もできないと責任を感じているんだ。摂食障害は無力な自分を責める、しょう行為なんだよ。沢渡」
 慶太郎は恭一の丸めがね、その奥の瞳に訴えるように言った。
「なるほど、無力感を払拭ふっしょくできれば自責の念は軽減されるってことだ」
「ごく単純に言えば、な。乱暴だけど」
 できることはしたんだ、という感触をもってもらえれば改善の余地はあると、慶太郎は信じたかった。
 足の不具合を乗り越えようとしている春来が、せっかくダンスへの挑戦を決めたのに、由那の事件でつまずくのはやるせない。いや由那こそが、春来の一歩踏み出すきっかけをつくった人間だったのだから。
「世間知らずのエリートちゃんが、俺を頼るのは必然ってことだな」
「言ってろ」
 慶太郎は苦笑した。
「ただ警察は苦手だ。別に悪いことをしてるわけじゃないけど、俺だってお近づきにはなりたくないからな」
「目が笑ってるぞ」
 恭一は深刻そうな顔をつくっているが、目だけは正直だ。腹案があるにちがいない。
「かなわねえな、精神科のお医者には。この間、宅配便を使った振り込みでお金の送付先に空き家が使われた事件があったの知ってるか」
 慶太郎はうなずいた。ニュースで聞いたことがあったからだ。
「俺がコンサルでかかわっていた不動産会社がその被害にあった」
 お金を空き家の住所に宅配便で送らせるのだが、指定時間に受け子がいないといけない。しかし下手に借りると足が着くので、ぞくは勝手に空き家に入り込んで荷物を待つ。
 これは一つの物件を複数の不動産屋が仲介するシステムによって可能になったものだ。部屋を見せるために仲介業者はさまざまな物件を案内する。それらすべてのマスターキーを持ち歩くことはセキュリティ上よくないし管理が大変だ。だから部屋を開ける鍵を仲介業者間で共有することになる。
 見学者が来る前に、その隠し場所から鍵を持ち出す。そのほうが急な見学要請に応えることができるという。鍵は暗証番号を入力すると開くケースに入れて管理していた。賊はそこに防犯カメラを設置して暗証番号を盗み見る。そして鍵を入手すると部屋に潜入、住人の顔をしてまんまとお金の入った荷物を受け取るのだ。
「京都府長岡京市のマンションがその被害にあったんだ。幸い宅配業者に流してた空き家情報のお陰で、詐欺グループの未遂に終わったけどな」
「仲介物件ってのも、気をつけなきゃならんな」
「そこに目を付ける詐欺グループがすごいよ。いまはきちんと手を打ってあるけどな。そのとき京都府警のサツ回りの記者と知り合った。確か光田みつた、光田洋平ようへいっていうんだ」
「情報を仕入れるのには打ってつけだけど、そう簡単に協力してくれるかな」
「毎読新聞の若い記者だ。毎読には大学時代の後輩がいる」
「話が見えんな」
「大阪本社で、かなり上のポストに就いてるって言えば、分かるだろう?」
「パワハラになるようなことはするなよ」
 慶太郎は釘を刺した。無茶をされては何にもならない。
「もちろん、くやるさ。海千山千の沢渡さんに任せておけ。それにな、ハッピーショッピーってのに興味がある」
「お前が? 郊外によくあるタイプのスーパーマーケットだよ。昔はよろず屋さんだったんだろうなって感じの。俺はあまり知らないけど、澄子は何度か行ったことがあるんじゃないか」
「いや、駅前に大型スーパーができてるだろう? 一駅先にはもっと母体が大手の店もある。そんな中で、俺も聞いたことのないハッピーショッピーなんて店の経営が上手くいっているとは思えない。いや、もし大型店のあおりを受けていないとすれば、それこそそこに何か経営ノウハウがあるんじゃないか」
「何だ、コンサルとしての興味か」
 と言ってみたが、恭一のことだ、おおかたもうけ話が転がっていないか探るにちがいなかった。慶太郎のクリニック開設の失敗を除き、彼はその方面に鼻が効く。
「あまり目立った動きは困るぞ」
「リサーチしに行くだけだよ」
 恭一がめがねの縁を持ち左右に調整しながら微笑ほほえむ。
「あくまでここだけの話だからな」
「お前を困らせるようなことはしない。俺を信頼してるから相談したんじゃないのか」
「もちろん、そうだ」
 慶太郎は、コーヒーを啜ると、
「ただ、うっかりはちのところがあるからな」
 と付け加えたが、たとえの古さに噴き出してしまった。


    4


 正太しょうたはハッピーショッピーのバックヤードを通って、裏口から駐車場へ出た。きちんと整備すれば、乗用車なら三〇台はめられるだだっ広い駐車場を見渡す。今は七、八台の車しかなく、その向こうは田園風景が広がっていた。田んぼは水抜きされ稲刈りの準備に入っている。たわわに実った稲の金色とぼうに咲く岸花がんばなの赤が美しかった。
 熊井くまい哲治てつじの軽自動車はなかった。腕時計を見ると午後四時少し前だ。正太は胸をで下ろし、煙草たばこに火を付けた。
 歩きながら、快晴の空に向かって思いっきり煙を吐く。秋の風が一気に紫煙を空に舞い上げた。
 側面に青い文字で「熊井産業」と書かれた白い軽自動車が、ゆっくりと駐車場に入ってくる。乗っているのはカトンボのような痩躯そうくの熊井哲治だ。やはりきっちり午後四時だった。
 正太は煙草を捨てて靴で踏み、しゃくをしながら車に駆け寄る。また体重が増えたようで、身体が重い。
「わざわざすみません」
 正太が頭を下げた。
「乗ってんか」
 正太が助手席に座ると、軽自動車が揺れてきしんだ。
「あきませんな」
「このところ運動不足で。さらにメタボが進んでしまいました」
 自分の胴回りを見た。
「そんなことやのうて煙草ですがな」
「煙草をやめるともっと太りそうで、なかなか」
「そうやのうて、ポイ捨てですがな。吸い殻は小さいけれど、環境汚染にはちがいおません。自分のお店を自分で汚してどないしますねん」
 熊井がぎょろ目を向けてきた。六十前の小さな男なのににらまれると言い知れぬ威圧感があった。普段は優しげな表情でむしろ剽軽ひょうきんな「おっちゃん」に見えるだけに、毎度ビクッとする。
 正太は三十九になる今まで、これほどものをはっきり言ってくれる人間に出会わなかった。いちいちうるさく小言をもらうのに、なぜか腹が立たないのだ。鋭い視線は怖いけれど、温かな笑顔に魅力を感じている。それも父親に抱いたことのない感情だった。
 正太は謝り、吸い殻を拾いに出ようと車のドアに手をかけた。
「あとでよろしいで、ぼん」
 熊井は前を向いたまま言った。
 親父がハッピーショッピーの経営をしているため、一人息子の正太のことを「ぼん」と熊井は呼んだ。
 いかにも半人前だと言わんばかりの呼び名で、バカにされているような気がする。しかし、そう感じさせないのは、熊井と惣菜部の「おばあちゃん」こととうサワだけだ。
「ビジネスの話が先や。味付けのことやけど、私は大満足してる。残りもんであそこまでできるのは、ぼんとこの惣菜部だけや。試しに回してもらってる加工品をフクスケホールディングスのチェーン店で販売してるんやが大評判や。他の商品より高いのに、完売する時間がダントツやと言うてました」
「それでは?」
 狭い助手席で姿勢を正す。
「ぼんとこと商売したいと思てます」
 熊井がこちらを見て顔をほころばせた。
「ありがとうございます」
 これで親父の鼻を明かせる。いつもかつかつで、ため息ばかりをつく経営とはおさらばだ。熊井の始める食品加工会社と提携すれば、おばあちゃんの味を全国に発信してやれるし、さらに多くの従業員を雇用できる。停滞したこの地域に活力を与えられるのだ。
「私も嬉しい。あとはお父上をぼんがきっちり説得できるかにかかってますんや」
「熊井さんの理想を話せば、親父もアホやないさかい」
「これこれ、実の父親にそないな言い方したらあかんな。すべては孝行のためや。その孝行が、日本人の食の安全を守ることにつながることを忘れたらあきまへん」
「そうですね、気を付けます」
「言っときます。お身内を説得できないようなお人、誰も信用しまへん。やろうとしていることの哲学が理解できてないか、熱意が足りないか、それとも肉親の信頼すらないか、いずれにしても同じ船には乗りとうない」
「分かってます」
 自然に身体に力が入る。
「よろしい。まあお気張りやす。ただ、ちょっと心配なことが起こりましたな」
 熊井が横目で正太を見る。
「ああ、あれには僕もびっくりしてます。まさか彼女が自殺するなんて」
「事情は分かりまへんが、ぼんとこは今世間で騒いでるブラックなんとかやないやろね」
「うちの店に限って、それはないと思います」
「まあ、ハッピーショッピーの惣菜が、味以外で話題にのぼることは感心しまへん。大事な時期やから、一日もはやく収束させなはれや」
 小倉由那の死が、万が一ハッピーショッピーにかかわるようなことだとしたら、誰よりも早く自分に報告するよう熊井は言った。
「それが原因で提携の話がダメになることもあるんですか」
 熊井のほうを向く。少なくなった髪が側頭部に張り付いている。
「そないにきょうりょうやおまへん。ぼんにやる気さえあったら、このビジネスは必ず成功するんですさかいな。そのためやったら、困難を乗り越える知恵を貸したげます」
「店は無関係やと思いますけど、すぐ確かめます」
「よっしゃ、それでよろしい。で、いつものは?」
「惣菜の売り上げは相変わらず多いんですけど、売れ残りは出ます。それにフードコートの残飯はいつものように」
「そしたら残飯は普段通り回収車でもらいにきます。惣菜のほうは三日分を冷蔵しといてください。再加工はあの方に任せます、ええ腕やから」
 熊井の目が急に優しくなる。
 正太は嬉しくなって、
「僕もあの味で育ったようなもんです。安心してください」
 と胸を張った。
「じゃあ頼みましたよ。私の名前は出さんと、あんじょう説得しなはれや」
 再度礼を述べて正太は車から降りた。
 ゆっくりと立ち去る軽自動車をその場にたたずんで見送る。小さかった車がさらに小さくなり見えなくなった。
                                                   (つづく)