第一四話 魔女たちの挽歌
昔々、これは柘榴色の魔女が誕生したときの物語。
とある裕福な国に、派手好きな女がいた。
身体中に海星のかたちをした金細工をつけたり、頭に孔雀のようなたくさんのかんざしをさしたりして、派手に着飾る女だった。
彼女は、友人の娘が初めて立ち上がったことや、歯の痛みが治ったことなどを理由に、夜な夜な晩餐会を開いていた。
なめくじのように細くした目に、道化師のように赤く塗った大きな唇。彼女はいつも来客たちに囲まれ、荒唐無稽な笑い話を繰り返しては注目を浴びた。
豊かにして退屈な国だったので、皆が彼女の存在を面白がった。
夫は身分の高い政治家だったが、派手好きな妻にうんざりしていた。
やがて夫は、愛人の家にばかり行くようになる。そして、あの女の派手さに磨きをかけるぐらいならと、家や馬といった高価な贈り物を愛人に与え続けた。
ある日、夫は失墜する。
愛人の存在が世間に知れ渡り、もともとあった国政への不満や批判のはけ口となった。彼は退任を余儀させられる。愛人は高価な贈り物をすべて持ち去って消えていた。
残ったのは派手好きな妻だけだ。しかし、彼女は失墜した夫と離婚しようとはしなかった。だが、晩餐会は続けた。
夜会が終わったのち、夫婦は余った酒を酌み交わしていた。
そして我慢できなくなった夫は、派手好きな妻に訊いた。
「一体なぜ、今も、こんなくだらない晩餐会を開くんだ? わが家にはもう、財産がないのに」
すると彼女は、細くした目を、一瞬だけ悲しそうにして、こう答えた。
「あなたの票のためよ」
その言葉で夫はハッとした。ずいぶん昔になるが、彼が政界に名乗りをあげたときに、妻は多くの票を集めた。
彼女が身につける金細工はすべて、かつて夫が贈ったもので、特異な格好をするのは、夫が注目されるためだった。
妻は夫のために、道化を買って出ていたのだ。
そして彼女は、夫の再選をあきらめていなかった。
人脈を一人でも増やそうと、家財を売り払い、身を削るような覚悟で、晩餐会を開いていた。
夫は深く反省し、また一から出直す決意をする。
そうして数年後、とある大国との険悪な国交問題を解決するために立候補した。
そして見事多くの支持を獲得し、政界に返り咲いた。
民衆からはその当選に多くの疑問の声があがったが、妻がいればと動じなかった。
ところが、返り咲いた彼のもとに、あの愛人が戻ってきた。
貰った贈り物はすべて金に換えたが、それでも、どうしても生活ができないため頼ってきたのだ。
気の毒に思った彼は、愛人を受け入れてしまう。そうして愛人は、蚊が血を吸うように、わずかに残った財産を少しずつ奪っていった。
侵略は突然だった。砂漠の大国が攻めてきたのだ。
攻められたほうも応戦したが、その国の住民は負の秘法を受けていた。秘法によって永遠の命を得た国民のほとんどは、正常な判断に乏しく、また男女の絆が失われていた。
じょきん、じょきん。
さらに、砂漠の大国には熊の首をもはねる大鋏を持った兵隊がいた。じょきん、じょきん、と刃と刃が擦れる音は、残虐非道にして、屈強な兵士たちが近づく恐怖をもたらし、相対すれば成す術もなく大鋏の餌食となった。
──大国の侵攻に敗れた町で一人、妻は亡き夫を見つめていた。
彼女の髪は焼け、かんざしは折れている。ドレスは破れ、煤で汚れていた。
瓦礫のなかに、夫の姿があった。愛人と一緒に死んでいる。最後に夫が選んだのは、愛人のほうだった。
彼女に神はいない。けれど、その場で膝を突き、手と手を合わせ粛々と祈った。しかしどう願えばいいかわからず、次に両手を地面に突き、鳥の鳴き声のような奇妙な声で泣き、血涙を流して呪った。
それは死んだ夫に対するもので、どうか死ぬ前も死んだ後も、骨すら焼かれるような苦しみのなかにいてくれ、という命令ともいえる呪いだった。
すると辺りに火の雨が降り、一面を火の海にした。大国の兵隊も一時撤退を余儀なくされる。
こうして彼女は、柘榴色の魔女となり、怒りを大国にぶつけた。
しかし、いくら火の雨を降らす魔女であろうとも、大国の兵にはかなわない。彼女は、しばらく故郷の国を陣取ったが、やがて大鋏によって首を切られ、絶命する。
肉色の空が灰色となり、火の雨が、自然な水滴の雨となる。
小さなその国は完全に砂漠の大国の占領下に置かれた。
首を切られた魔女の遺体が、雨に打たれるなか──ぴくりと動いた。
また別の、昔々の物語。
とある貧しい国に、人生のほとんどを怒りで過ごす女がいた。
身体は乳房にいたるまでやせ細り、目はぎょろついている。
彼女は、病人や麻薬中毒者が住む廃墟で世を呪っていた。
怒れる女はその国の警官の娘で、父譲りの正義感に溢れていた。
悪を憎み、それを是正するために行動する勇気もあった。
大人になれば、自分はその国初の女性の警官になると信じていた。
しかしその小さな正義感が、純粋さを維持するには、その国はあまりにも腐敗していた。
その国は、すでに砂漠の大国の占領下に置かれていた。
農作物をはじめとした資源は大国に召し上げられ、有能な人材は奴隷として連れていかれた。
貧しい国では、すべての価値が金銭に還元され、他人の不幸が他の人にとっての幸福となる社会構造になっていた。
そこに絶望する人々を受け止める宗教も多数存在したが、結局は薄っぺらい経典を基に開かれた、教祖一人が幸せになる邪教でしかなかった。
少女は父の背におぶられながら、そのいじらしい瞳に、人々の慟哭を映していった。
やがて父が死んだ。
賄賂を受け取っていた同僚を注意し、逆に刺殺されてしまったのだ。
少女は、自分こそがこの国最後の正義と信じていたが、たまたま同世代に正義感の強い少年が現われ、脚光を浴びる。彼は知恵と勇気をもって、強盗を捕まえたり、政治家の汚職に立ち向かったりして、賞賛される。
太陽の下の灯火は虚しい。
正義であるはずの自分が、自分以上の正義に出合い、彼女は嫉妬した。
しかし嫉妬を向けた正義感の強い少年もまた、なぜか多くの恨みを買い、悲惨な末路を辿った。
時が経ち、彼女のなかにあった純粋すぎる正義感は、怒りの源泉へと逆転する。
世が世なら、恋人と初めて手をつなぎ心はずむ年頃に、あろうことか、彼女はこそ泥を動けなくなるまで刃物で傷つけたり、悪に屈したひ弱な者を見れば侮蔑して唾を吐きかけたりする女に変わっていた。
その界隈では知らない者はいないほど、彼女の性格は怒りと暴力に支配されるようになり、そしてそのまま歳を重ねていった。
付き従う者もいたが、嘘と裏切りにあふれた貧しい国において、人間同士の絆は長くは続かなかった。
そして彼女は大人になり、子を儲け、子が立ち上がる姿に一喜一憂する年頃になったとき、体力を失い、醜くやせ細り、腕や脚が燃えるように痛み出す病にかかっていた。彼女はただ廃屋から世を呪うほかなかった。
あの正義感はどこに行ったのだろう。彼女はいつの間にか、目先の安楽を求め、麻薬中毒者になっていた。
彼女の生命の灯は完全に希望を失っていたが、底知れぬ憤怒だけが彼女の生をつなぎとめていた。
そんなある日、目の前で殺人が起きた。病気の老婆が持っていたわずかな食糧を、強盗が奪って殺したのだ。
しかし彼女は、殺された老婆を見て「ははっ」と笑っただけだった。
砂利の地面を満たすほどの血溜まりができた。
そこにやせ細り、目をぎょろつかせた女の顔が映った。
そこで彼女はハッとした。
彼女が真に怒っていたのは、自分自身だと悟ったのだ。
何よりも、誰よりも、父の望みとはまったく違う成長を遂げた自分に、彼女は怒りを抱いていたことに、このときようやく気づいたのだ。
同時に悔いた。そして絶望した。
もう取り返しのつかない人生に。
その絶望もまた怒りとなり、彼女の視界が真っ白になる──。
──気がつくと、彼女の目の前で、強盗は象に踏まれたかのように平たくなって死んでいた。周囲にいた人々は確かに見た。
怒れる女の足が象のように膨れあがり、強盗を踏み潰した模様を。
こうして貧しいその国に、象牙色の魔女が誕生した。
世界中のあらゆる歴史で魔女の存在は確認されたが、そのなかでも彼女と紺碧色の魔女の異様さは際立っていた。痩せ細った女が、怒りに比例して、脚だけ象のように膨れ上がっているのだ。
彼女はその怒りの矛先を砂漠の大国に向けた。手に槍をくくりつけ釘で留め、脚の指に鋼を撒いた。一人でも多く、大国の住人を殺そうと誓ったのだ。
しかし、大国に攻め入った彼女が見たのは、故郷の貧しい国と同様に、虐げられた民衆だった。
結局は砂漠の大国においても、一部の大臣と、大王一族のみが栄華を極め、民衆を蹂躙していたのだ。
彼女の大足はさらに怒り、多くの兵士を踏み潰して大王がいる本殿を目指した。
そして宮殿内の中庭まできた。彼女の足であと十歩も歩けば、大王の寝室に届く。
しかしそこで、大鋏を持つ精鋭に囲まれ、はじめに彼女の足首が切られた。次に腿の付け根から切られ、そして脳天から股にかけて縦に切られてしまう。
象牙色の魔女は怒りの声をあげ、そして絶命した。
その遺体は大王の命令によってさらに切り刻まれ、砂漠の各所に捨てられる。誰もが、魔女の遺体は、砂漠の熱砂に焼かれ、干からびて砂になると思った。
ところがその夜。彼女の遺体は蟻のように一カ所に集まり、さらに服をつなぐようにして縫い合わされていく。
月夜の下で、キラキラと光る〝糸〟があった──。
砂漠の大国に仇をなす魔女は他にもいた。
雲の上を滑空し、「キャッキャッ」と笑いあう二人の魔女だ。
一人は琥珀色の魔女と呼ばれる存在で、背が小さく童顔で、見た目は幼女とも言える。爪の間から蚊が生まれ、脇の下から猛毒を持つ蜂が飛ぶ、そんな魔女だった。
彼女はもともと平凡な女だった。
夫は海の生き物のかたちをした金細工を作る手先の器用な職人で、彼が作った海星や鯨の金細工は多くの貴婦人に愛された。
彼は、日中は仕事に没頭するため自宅近くの加工場を利用した。妻は夫を立て、献身的に、寝たきりの夫の母親の世話をした。
幸せな日々だと感謝していた。
しかしある日、見知らぬ男たちが家にやってきて、心当たりのない借金について責めたてられる。
そして訳もわからぬまま、砂漠の大国の豪族に売られた。それから長い年月のなかで徐々に真実を知った。
夫の仕事は嘘で、彼は博徒だった。海星の金細工を作るのがうまい職人は世界のどこか、別にいたのだ。
そして大負けを繰り返した夫は、とうとう妻を担保にしてしまう。
幸せな家庭や、夫に抱いた感謝。すべては虚構だったのだ。
心に大きな傷を負った彼女は、畜舎の隅で長い年月をすごす。蝿がたかり多くの昆虫に囲まれたが、海の生き物よりはましに思えた。
こうして静かに、そして徐々に、彼女は絶望し、やがて琥珀色の魔女となる。
もう一人の魔女は翡翠色の長い毛髪を従えた長身で細身、表情も大人びていた。彼女が滑空する雲の下では、野太い竜巻がぐるんぐるんとうなりをあげて、地上のすべてを吸い上げていた。
彼女の夫は大国にいる大鋏の兵の一人だった。
しかしその夫は、妻の首をはねなければならなかった。
その妻は、ただ一言「第一皇子が大王になったら、みな幸せだった」と漏らしただけで、処刑されることになったのだ。
刑執行までの一カ月間、二人は密室ですごすことを強要された。
毎日、二人は泣いた。
そして刑執行の日、じょきん、という音とともに、夫は妻の首をはねる直前に、自分の首をはねた。
自殺した夫を見て、妻は叫んだ。
すると、代わりに別の兵が、妻の首をはねようとした。
そのとき、突風が、妻と、夫の遺体を、雲の上空まで突き上げた。
愛する夫の自殺に絶望した彼女は、毛髪を翡翠色に変えて、竜巻を操る魔女となったのだ。
間もなく、琥珀色の魔女と翡翠色の魔女は出会い、大国を敵視して意気投合し、いたずらをしかけることにした。
毒を持つ虫を大国にばらまき、竜巻で大王がいる宮殿を破壊しようと計画したのだ。
いたずらは成功し、多くの兵士に熱病を広めた。
さらに大王がいる宮殿の一部も破壊に成功する。
二人は上空から「キャッキャッ」と子どものように喜び、手を叩いた。
しかし、砂漠の水場で水浴びをしていたところを多くの兵士に囲まれ──数匹の鹿が通り過ぎた。
鹿は、頭部を交互に入れ替えられた二人の魔女の遺体を横切った。
──琥珀色の魔女は不思議な体験をしていた。
意識が朦朧として思考は働かない。
ぼんやりと見える視界と、振動ともいえる音が聞こえる。痛みはおろか、渇きも空腹も、まったく感じない。
意識は、生きていたころの一割ほどまで縮小し、生き物ではなく壁や石といった〝物〟になった気分を体験していた。
周りを見ると、翡翠の魔女の頭部があった。
どういうわけか、見慣れた身体とつながっている。自分の身体と翡翠の魔女の身体が、首を境に交互に入れ替わっていた。
首のつなぎ目は綺麗に縫われていた。
手足の間接が蝋のように固い。
辺りは薄っすらと白く、景色から気温の低さが窺えた。
他にも、六人の魔女がいた。皆が関節の手前を糸でつながれ、操り人形のように、呆然と床を見つめている。
奥に一人の、小柄な女がいた。
頭部から巨大な角が生えた、寒冷地に生息する牡鹿を思わせる格好の女だった。
「……にじいろ」
七色の魔女たちの心の疑問に答えるように、虹色の魔女は一言だけ、そう言った。
美しい青年、美しい病
美しい青年と真実の青年、煤まみれ、そしてよだれは女の国の女王が住むとされる城を目指していた。
大図書館から城に向かう道中は険しい道のりだった。
穏やかだったり、激しかったりする雪が降り、柔らかすぎる雪の道は、一歩進むごとに一行の体力を奪った。
そして吹雪は、耳に突き刺すような痛みを与え、時折、まるで赤子の泣き声かのように聞こえた。
さらに、後ろから一行をつける何者かの気配があると、煤まみれが不吉なことを言った。
一体誰がつけているのか、美しい青年は聞いたが、彼女にもそこまではわからなかった。
煤まみれはよだれを背負い、美しい青年は、若き曾祖父である真実の青年を背負って進んだ。目覚めることなく、力も入っていない。宝石病に侵され、背中にごつごつと硬い石の感触が当たる。
しかし確かな息遣いとぬくもりを感じた。生きている。
煤まみれは途中いくつもの洞穴に入り、抜け道として利用したり、時にはそこで休憩を取ったりした。
洞穴内は小さな音が乱反射し、風は金管楽器のような旋律を奏でた。不気味さはあったが、突き刺すような寒風がぱったりと止み、青年の背中がずっしりと重くなる。その身体は休憩を欲していた。
煤まみれが慣れた手つきで灯をともすと、よだれが「しゅっしゅっ」と喜んだ。厚手の防寒具を着た小さな姿は、いじらしい雪だるまを思わせる。その姿に、彼女は小さな笑みを浮かべた。
「人の前に明かりをともすと、ともしたわらわの前も明るくなる」
青年は、煤まみれの言葉に関心も寄せず、洞穴の出入り口のほうを見つめた。
「途中には魔女のいる七つの関所があると聞いた。さっき、二カ所の関所らしきところを通り過ぎたけど、誰もいなかった」
煤まみれも洞穴の入り口のほうを睨んだ。
「一つの関所に一人の魔女がいたが、柘榴色と象牙色はもういないからな」
見ると、よだれは鼻息をたてて眠っていた。
それから青年は、炎に手をかざした。明かりが身体を照らすと、陰影が伸び縮みし、彼の容姿をより妖艶にした。
「秘法を目当てにきたのだろう」
煤まみれの突然の問いかけに、青年は「え?」と困惑の色を浮かべた。
彼女は、青年を真っ直ぐに見つめていた。
「母親が年齢を重ね、美しさに陰りが見えたから、お前は、永遠の命を保つ負の秘法を目当てにして、この時代にきたのだろう」
美しい容姿をした青年は、後ろで眠る真実の青年を振り返って、「あ、あはあ」とおかしな笑い声でごまかした。
「い、いや。俺は、曾祖父の物語が気になって……」
しかしそれを遮り、煤まみれは鋭い視線で言った。
「お前の母は、比類なき美しさを持っていたが、金剛の心も持っていた。あの女の美しさの本質はそこにある」
彼女は、自身の顔に塗られた煤を指先でぬぐい、それを美しい青年の顔にひたりとつけた。
「お前は、若さにおごっている」
「な、何を」と青年が顔についた煤をぬぐう。
しかし煤まみれは「ぬぐうな」と厳しい声で、青年の顔に、さらに煤を塗りたくった。
「見た目だけに固執して生きたら、お前の心は粉雪よりももろく人生の苦境に溶けてかたちを失うぞ」
美しい青年の顔が、どんどん黒く汚れていく。
「一体、どうしてそんなこと、俺に……?」
「負の秘法は弱い心につけ入る……自分を律しろ」
煤まみれの言葉は、豪雪で感じる冷たさよりも鋭く、彼の胸に影を落とした。
一行は、短い休憩を取ると、洞穴の奥へ進み、再び山道に出た。
雪は止み、曇天の空と龍の牙のような鋭い峰々の山脈が見える。
煤まみれは岩陰に隠した台車へと青年たちを案内した。
台車にはあらかじめ三つの樽が載っており、大量の砂糖が入っていた。二つの樽はそれぞれに、眠り続ける真実の青年とよだれを入れる。
そして彼女は、自らも台車に乗ると、罪人の仮面を手に取り、美しい青年に奇妙な提案をした。青年は疑問を抱きながらも、彼女に従った──。
──顔に煤を塗った青年が、重くなった台車を引いて山道を進む。
途中から、ぶぅう、ぶうぅ、という嫌な音で飛び回る蜂が近づいてきた。青年が蜂を気にしながら進むと、道を塞ぐ煉瓦造りの関所にたどり着く。
関所の門の前には、一人の奇妙な女が立っていた。
身長は青年と同じほどで細身。紺碧色の服をまとい、胸がふくらみ、手足に加え指もほっそりとしている。
佇まいから女性であることがわかる。
しかし、その女の顔面には何もなかった。
目も鼻も唇も毛髪もなく、二層の花びらのようなものが、蕾のように折り重なって、頭部を覆っていた。
赤子の拳のような頭部に、青年は絶句し、そして恐怖した。
次の瞬間、その恐怖はさらなる恐怖をもたらした。
花びらだと思っていたのは肉の層で、耳だったのだ。
女は巨大な両耳の持ち主で、それを開き、その顔をあらわにした。
さらにその鼻も異様なほど大きかった。南国の巨鳥のクチバシを思わせるほど尖っており、前に突き出ている。
両眼は鼻の穴ほど小さく、口もヘソほどしかない。
土竜が視力を犠牲に嗅覚を進化させたように、その魔女は、耳と鼻が異常に発達していた。
青年の耳にぶぅう、ぶうぅと嫌な音が聞こえる。
見上げると関所の屋根の上に、蟲を操る琥珀色の魔女がいた。
視線を戻すと、紺碧色の魔女の、大きな鼻が青年の目前にあった。
「くんくん」と青年に鼻を近づける。
そして彼を指差して、独り言のようにブツブツと言った。
「くん、くん、煤の臭い。煤まみれ。城の従者の煤まみれ……」
次に台車に乗る人物のほうに鼻を向けて言った。
「男がいる。男の臭いがする、くんくん」
近くで見る紺碧色の魔女の顔はくすんだ土色で、生命感がなかった。油を腐らせたような臭いもした。
彼女は、今度は小さな唇をさらに小さくして「とくん、とくん」と言った。同時に巨大な耳を青年に向けた。
「おや? これは男の音……男の心臓の音が聞こえる」
次に、「くんくん」と再び台車のほうに鼻を向けた。
「獣だね。獣の臭いもするよ」
青年は、樽と紺碧の魔女の間に入った。
そして台車に乗った罪人の仮面を被った人物のほうを指差し、あらかじめ彼女に言われたことを反芻した。
「お、男の国で盗んできた砂糖と、男の国の代弁者です。捕虜にしました」
それから紺碧の魔女は、仮面の人物に鼻を向ける。ぶぅうんと蜂がおかしな音をたてた。すると彼女は言った。
「仮面を、仮面を、外してみろ」
台車に乗る人物が仮面を外すと、頬にそばかすが浮かぶ女の顔が現れる。煤まみれの素顔だった。横から青年が言った。
「男の国の代弁者は、女でした」
同時に、一匹の蜂が、そばかすの女の衣服に入った。
青年は動じたが、彼女はじっとしていた。
蜂は十数秒、彼女の衣服の内側を飛んだり、這い回ったりして、乳房を確認していた。
やがて彼女の裾から蜂が飛び出し、屋根の上にいる琥珀色の魔女の周囲を飛び回った。
どうやら青年のことは煤まみれとして認識し、捕虜も女であると証明されたようだ。
この関所は突破できる。
青年がほっと胸を撫で下ろす一方で、紺碧の魔女は未だに「くんくん、とくんとくん」と樽を覗き込んでいた。
「では、この臭いは? 獣の臭いはいまだにする、男の音も」
青年がそばかすの女を見つめた。彼女はじっとして動かない。
「獣の臭い、獣の臭い」
そう言って紺碧色の魔女が樽に手をかけた。そのとき。
「待ちなさい」という声がした。
一行が振り返ると、新たな台車を従えた一人の女がいた。子育てを終えたころの女性で、白い服に錆色のしぶきが描かれている。
出で立ちから医師を思わせた。
「その臭いは、この男たちの遺体だろ」
彼女は、自分の台車の目隠しを広げた。三人の男の遺体があった。
女は早口で言った。
「少し解剖がしたくてね。男の国から男の遺体を運んだ。不潔だから、獣の臭いもするだろう」
すると、一人の男がずるりと地面に落ちた。
女はその男を「よいしょ」と台車に戻す。
「おや、一人生きていた。だから男の鼓動が聞こえたのかもね。だが見ての通り虫の息さ」
彼女の言葉に納得したのか、紺碧の魔女は一行に背中を向け、耳を畳んだ。
いつの間にか、ぶぅうという蜂の姿もない。関所の屋根を見ると琥珀色の魔女の姿もなかった。
錆色の服を着た女は、台車を引いて、すでに門をくぐっていた。
「あ、あの」と青年が女に声をかける。
すると彼女は振り返らずにこう言った。
「城に行くんだろ。ついておいで」
しばらく進むとさらに二つの関所にたどり着くが、どちらも無人だった。四つ目の関所を司っていたのは琥珀色の魔女だったか、その監視は紺碧の魔女の関所の時点で済ませたようだ。
五つ目の関所が見えたとき、青年は煤まみれに言った。
「彼女が、宝石病を治せる医師?」
煤まみれが大きく頷く。
「ああ。そして賢い魔女でもある」
女の後ろ姿を見る。簡単に束ねた栗色の毛髪に、すらっと高い身長。銀縁の眼鏡をかけ、知識人を思わせる。
白衣には泥と血が混ざった赤錆色の染みがついていた。
「あなたも、魔女なのですか……?」
「ええ」と小さく、錆色の魔女は頷いた。
そうして一行は、六カ所目の関所にたどり着く。
そこにいたのは白銀の魔女で、やはり美しい青年の母によく似た容姿をしていた。肌寒い気候にもかかわらず涼しげな服装をしている。銀色の蝶を思わせる魔女だ。
美しい青年は、遺骸であった白銀の魔女が、なぜ生きているのか疑問を抱いたが、この場で訊くことを控えた。
「相変わらず無口だな」
煤まみれが嫌味のようにそう言った。
しかし白銀の魔女は静かに一行を見つめるだけだった。
錆色の魔女が男たちの遺体を見せると、彼女は何も言わずに一行を通した。
煤まみれは、仮面の奥から悲しそうな目をして、白銀の魔女の顔を見つめていた。
七つ目の翡翠色の魔女の関所においても、錆色の魔女の機転で突破した。
──虎が口を開けたような断崖にその城があった。厳しい気候と外敵への警戒から、女たちはその一カ所に集まっていた。
女の国のすべてはそこに集約されていた。
城のなかはやや温かく、静かで、天井を飛び回る鳥の気配があった。
城と言っても、岩の集合で、さきほど通ってきた洞穴の中とあまり変わった印象はない。見た目は蜂の巣で、中は蟻の巣だった。
城内のそこかしこに、人がいた。しかし誰も動かない。
氷漬けの遺体かと思ったそれらは、宝石と化した女たちだった。
それらを横目に、青年がぽつりと言った。
「治せないのですか?」
錆色の魔女は面倒臭そうに返した。
「なぜそんなことを訊く?」
青年は人の形をした宝石を指差す。
「だって、宝石と化した女性たちが、治らずにいる」
「自ら望んだのさ、美しい宝石になることを」
「自ら? どうして?」
錆色の魔女は足を止め、暗い天井を仰いだ。
「絶望から生と死を諦め、秘法のせいでそれでも死ねない。魔女になっても、やりたいこともない。だから宝石になったのさ」
青年にはよくわからなかったが、思わず訊いた。
「あなたたちの絶望とは?」
彼女は自身の下腹部にそっと手を置く。
「…………言いようのない喪失感。魂と同等かそれ以上の価値。それを失い、なぜ自分は生きているのかと慟哭する。そんな絶望さ」
青年が言葉に困ると、錆色の魔女は再び重い台車を引いた。
「女の国へようこそ。この国は、子を失った女の絶望でできている」
がらんとした城内で彼女の声はよく通った。そしてどこか自虐的に「女の国を説明しておこう」と一枚の紙を取り出した。
「紙幣がある。だがモノの売買よりも問題の解決に使われる。本来の用途は形骸化し、信用の証やお守りといった一種の安定剤のようにして使われる」
錆色の魔女は紙幣をしまうと、饒舌に語った。
「女の国の法律でもっとも厳しいものは、真似。女同士の真似は死刑だ」
煤まみれは黙って聞いていたが、錆色の魔女は彼女に顔を向けた。
「黄金の魔女王は、真似の魔女。出会った魔女の力を盗むという。それは女同士にとって外道。だから他の魔女に至極嫌われた」
煤まみれは堂々とした口調で返した。
「健康な子が成長を止めることができないのと同じで、一度得た才能は消えない。大切なのはその力を何に使うかだ」
錆色の魔女は満足そうに「ふっ、ふっ」と頷くと、女の国について語り続けた。
「女と男は子という絆を失い、互いを嫌悪するようになった。その気持ちは土地すらも巻き込み、島すらも北南で離別した。過去、女は選ばれるほうだった。選ぶ権利は男にあった。男は、自分が女から生まれたことを忘れ、そのくせ女のことを、子を産む機械か何かとして扱った」
いつの間にか、数羽の鳥が、周囲を飛び回っていた。
「あなたは、子の存在を覚えているのですか?」
青年の質問に、錆色の魔女が頷く。
「魔女になったおかげでね」
「……どうしてあなたは魔女になったのですか?」
その瞬間、周囲を飛び回る鳥が悲鳴とともに地に落ちた。
錆色の魔女はこう答えた。
「……鳥には砂嚢がある。そのなかには鉄がね、あるんだ」
「あなたは、鉄を操る魔女なのですか……?」
青年がそうつぶやくと、鳥たちが再び羽ばたいた。
錆色の魔女は鳥たちを見つめた。
「なんてことはない。姉が宝石病だった。闘病を支えたが、助けることができず、あたしは魔女になった……」
一行が通されたのは城の最下層にある一室だった。
その部屋は他と違って温かく、さらに水槽があった。
中央に手術台を思わせる台座があった。壁際には鋏や注射といった鉄製の医療器具が並べられていた。どれもが光沢を放ち、一流の職人が作った器具であることを想像させた。
錆色の魔女は、中央の台を指差し、真実の青年を横にするよう言った。
上着を脱がせる。美しい青年が思わず「うっ」と漏らした。
真実の青年の右肩を中心に、腕と胸まで、フジツボのような宝石で埋め尽くされていたのだ。石の色は純粋な透明色だったが、肌を突き破り肉に食い込んでいるため柘榴を思わせた。
「これならまだ助かる」
そう言って錆色の魔女は背後の水槽を振り返った。
水槽の内側には、星の形をした海星がいた。
彼女は呪文のように、静かにつぶやいた。
「愛や神で病気は治らない。病を治すのはその人間の生命力だ」
次に彼女は、真実の青年の身体にはびこる宝石を睨む。
「そしてこれは病ではない。だからこそ撃退の道が存在する」
「……撃退?」と青年が首を傾げる。
彼女はその一匹を取り出すと、粘土をこねるようにして撫でていった。すると不思議なことに、海星が光を放ち始めた。
「宝石病の正体は──珊瑚だ」
「珊瑚って、海にいる……?」
彼女は海星を見つめたまま言った。
「そう。大国から秘法が贈られた直後に蔓延した珊瑚だ。生き物に寄生し、人ですら美しくて無価値な珊瑚に変えてしまう」
次に彼女は、真実の青年の耳に顔を寄せた。
「……君は、母の身体のなかで命の灯が消えかけ、生まれるはずじゃなかった。だが生まれた。それは石になるためじゃないだろう?」
そして、真実の青年の頬を撫でた。
「君は、果実をもぎ取るように、幸せを勝ち取るために生まれた」
次に、金色に輝く海星を、青年の肩につけて大きく言った。
「珊瑚の天敵は海星。この珊瑚だけを食う海星だ。あたしが育てた」
海星は品定めをするようにゆっくりとした動きで、真実の青年に寄生した珊瑚を撫でていた。やがて「カッ、カッ」と硬い音が聞こえた。錆色の魔女は満足そうにその様子を見つめた、
「じき根元まで食べにかかる」
美しい青年が彼女の背中に一歩近づく。
「あの、あなたは女の国の医師で、魔女なのに、どうして彼を助けてくれたのですか?」
錆色の魔女は真実の青年の手を強く握った。
「女の国も鎖国を貫くが、女王に、医術を研鑽するために、世界中を旅する許可を得た。その旅のなかで、孤児を預かり、子のできない夫婦に預けることもした」
「あなたが……」と青年はつぶやく。
母から聞いた物語のなかに、心当たりがあった。
錆色の魔女は、真実の青年から美しい青年に眼を移し、こう続けた。
「この子とは縁がある。一度助けた命を見殺しにする医者でいたくないだけさ」
城の奥のほうを睨んで、錆色の魔女は言った。
「それはそうと、ちょうど、今、良き友の王と総理大臣の、裁判が行われているよ」
「……裁判?」
城の最奥には虹色の魔女、そして良き友の王がいた。
じょきん、じょきん。
そして同時に、女の国に、大鋏が交差する音が近づいていた。