飯田橋外濠の春の花森安治
飯田橋外濠の春の花森安治
暮しの手帖社社長、大橋鎭子を題材にした、NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」の放映開始日に合わせて、4年前に白水社より刊行した『花森安治の青春』を、朝ドラサイドストーリーとして、このたび潮文庫から上梓させていただいた。
この本の中で著者の私が、とびきり気に入っている1シーンがある。
戦後「暮しの手帖」編集長として、同誌を発行部数90万部の国民的雑誌に育て上げる花森安治は、戦前北満洲戦線に派兵され、抗日義勇軍と戦うことになる。
敵に囲まれた夏の闇の中、決まって彼が思い浮かべるのは、当時住んでいた飯田橋にある外濠の春だった。
「外濠の両岸の土手の桜が、薄い水色の空を背景に、左右対称にどこまでも咲き誇っている。春になるとボートに乗り、濠の一番奥めがけてオールを漕いだ。春を切り分けていく爽快感があった。来年の春にはもう一度あのオールを握れるだろうか。握りたい」
その想いだけで、彼は暗闇の見えない敵に銃を向け、撃って、撃って、撃ちまくる。
闇の一夜を無事生き延び、兵舎に帰還した花森は、妻と娘を思い浮かべながら従軍手帖に書く。
「あなたが生きられるだけ、わたしも生きたい」
若い日、この町にある大学に通う女学生とボートを漕いだ。以来50年、この濠は私の東京お気に入り水辺ベストスリーに入る。なかでも桜の季節、皇居をウォーキングして、飯田橋まで足を伸ばし、お濠のカフェで食べる春野菜のサラダランチはことさら贅沢だ。
昨年9月、突然の癌宣告で胃全摘手術をこの濠沿いに建つ病院で受けた。10月半ば潮出版社から『青春』文庫化の申し出があった。次の朝ドラの主人公が「暮しの手帖」の大橋鎭子になったことをまったく知らなかった私は、その偶然を癌の快気祝いと信じた。
満開のお濠端で、完成した文庫本を開くのを楽しみに、私は文庫化の準備に取り組んだ。
最終校正ゲラを編集部に渡した翌日、食事摂取障害からくる膵臓炎で緊急入院の身になった。精密検査で肝臓への転移癌がふたつ発見され、発売日の前週が手術日になった。
出来上がった文庫本を家人が病室に持ってきてくれた。飯田橋のお濠全体が見渡せる8階の窓際にふたりで立った。
届いたばかりの『花森安治の青春』を開き、新しい印刷の匂いに包まれながら、お気に入りのシーンを、私は声を出して読み上げた。
左右対称に桜が咲き誇る窓辺には、薄い水色の空を映した水面を、春を切り分けるように、ボートを漕ぐ男の姿があった。私は目を凝らして男を見やった。
男は花森安治だった。いや、若い日の私だった。そして私は心のなかでつぶやいていた。
「あなたが生きられるだけ、わたしも生きたい」
あと何冊の本を出せるのだろう。潮文庫『花森安治の青春』。
忘れられない一冊になった。 (2016年『潮』7月号より転載)
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