第十二話 黒き獅子、黄金の魔女王

 
 ──時をさかのぼること、仮面の青年が生まれるよりさらに数十年前。
 砂漠の大国に、多くの手下を従える悪童がいた。
 民の家畜を盗んだり、人妻をからかったりして、逆らう者がいれば、その太い腕で殴り飛ばした。彼は、自分さえ楽しければ人のことなど、どうでもいいと思っていた。
 きんこつりゅうりゅうの日に焼けたたいに、黒々とした毛髪。多くの妻を持つ。
 さらに弓矢の名手で、彼が放つ矢は雲に届くと言われた。
 その見た目から、悪童は黒獅子と呼ばれた。
 ある日、黒獅子は、国に美しい女の旅人が来たという知らせを手下から聞く。彼はその女を自分のものにしてやろう、と自分の下に連れてくるよう命令した。


 ──くたびれたちくしゃが黒獅子一味の隠れ家だった。
 そこに手下に連れられ、噂の女がやってくる。
 黒獅子は金銀財宝の山の上であぐらをかき、女を見下げて「どこから来た?」と訊いた。
「遥か未来より」
 ちょうじゅうですらうっとりするような、美しい声だった。
「どうやってだ?」
 女は真っ白な手の甲を差し出し、つねる仕草を見せる。
「手のここを少し抓って」
 言葉と同じくらい、女の格好は奇妙だった。全身を黒い布で覆い、さらに目もとは黒いすすを塗りたくっている。それでも隠しきれない品位と、目の輝きを放ち、男たちの興味をそそった。
 黒獅子は、問答を払いのけるように言う。
「おうおう、旅の女。お前の素肌が見たくて仕方がないぞ」
 それから手下に命令し、女の服を脱がした。
 女の身体からだあらわになると、あまりの美しさに皆の視線はくぎけになった。彼女の身体は、まるで名曲を描いた旋律のような曲線美で、共に踊りたいと思わせた。
 普通の女なら泣き叫び、命乞いをする。しかし彼女は動じた様子を見せるどころか、犬をしつけるような大声で言った。
「砂漠の国に、始末に負えない迷惑な王子がいると聞いてきた」
「俺様を探してきたのか。良い心がけだ」
 しかし女は、黒獅子ではなく、天井に開いた穴を見上げた。
「しかし噂よりつまらん。お前より穴から見える空の形のほうがおもしろい」
 黒獅子は勢いよく立ち上がり、女を指差した。
「何おう! おい、水をかけろ!」
 何人かの手下が、同時に、女に泥水をかけた。
 すると彼女の顔に付いた煤が流れていった。
 途端、「おお」「おおお」と手下が次々と、歓声を上げた。
「何と、美しい……まるで黄金でできた女神像だ」
 男たちの目に飛び込んできたのは、黄金色の毛髪だった。
 長い髪は丁寧に折り重なり、一本一本が絹の如き質感を思わせる。
 頬、唇、首は、若々しい生命いのちの輝きに溢れ、目や眉の位置は智慧の豊かさを感じさせた。
 手下のなかには歓喜のあまり涙を流す者までいた。
 女の美しさは、宇宙をぎょうしゅくし、その身に内包させたような奇跡を思わせ、どういうわけか見る者に感謝の念すら抱かせた。
 天井の穴から漏れた太陽の光は彼女に反射し、隠れ家にあった金銀財宝を照らしている。
 さすがの黒獅子も、その美しさに心奪われた様子だ。
 彼女は濡れた髪をしぼり、自身の手脚や腰のくびれをでた。
 次の瞬間、さらに奇妙なことが起こった。
「お、親分、寒くないですか?」
 手下が、黒獅子にそうらした。黒獅子もぶるりと身体を震わせる。暑い国出身の彼らが感じる、生まれて初めての冷気だった。
 冷気は彼女の周囲から吹き出し、彼女の身についた水滴は硬い衣服となっていく。
 畜舎の気温はどんどん下がっていき、黒獅子は肩を震わせて女を指差した。
「め、めめめ、めんような女だ。な、な、何者だ、お前!?」
 女はれいほほみを黒獅子に向けて、こう言った。
「わらわは黄金の魔女王」
「ま、魔女の王だと? お、俺様を殺しに来たのか?」
「それも悪くないが、この国に負の秘法があると聞いてきた」
 その秘法は、黒獅子にも聞き覚えがあった。
「し、し、城の地下にそんな秘法があったかもな。見つけてどうする気だ?」
「破壊する」
 黄金の魔女王はそう言って、城があるほうをにらんだ。
「負の秘法は、時代毎、様々なかたちに変化し、宿主を変えてきた。あるときは永遠の命と苦悩を与える本、あるときは宗教を隠れみのに国を戦火に巻き込んだ政治家の服、またあるときは特定の人種を苦しめる法律。いずれも初めは人が求める姿を取る。だがその本質は多くの人間を絶望の底に追い落とす〝不幸そのもの〟だ」
 黒獅子は「へっ」と鼻で笑った。
「ま、魔女の存在は違うってのかい?」
 魔女王は自身の両肘に手を置き、真っ直ぐに黒獅子を見つめた。
「わらわは善玉の魔女だ。恩ある人々の縁に触れ、地獄の心を太陽に入れ替えた。人の心を晴れとするため、時代を超えて旅を続けている」
 黒獅子は背筋を伸ばすと、寒さを跳ね退けた様子で、魔女王の目の前に立ち、胸を張った。
「へっ、俺様のことはいいのかい? 俺様だって、人を困らせるのは得意だぜ?」
 すると魔女王は、黒獅子のつま先から頭の天辺までじっくりと見つめ、不思議な予言をした。
「貴様は、今はまさに黒き獅子だが、いずれ白き老獅子となる」
「どういう意味だ?」と黒獅子が訊くと、魔女王はこう続けた。
「後の歴史書が語る事実だ。貴様は後の世で、ある国の命運を左右する。そのたぐいまれな才気を正しいことに使ってな。その種をくため、わらわは貴様に会いに来た」
 黒獅子には、魔女の王が言っていることがわからない。
 ただ、近くで見た彼女はやはり恐ろしくれいだった。黄金の頭髪にみずみずしい白桃色の肌。漂う香りは赤子の乳臭さを思わせる。
 そのすべてに心奪われ、黒獅子は、己の訴求を口にする。
「それだったら、俺の女になって、その種とやらを教えてくれよ」
 魔女王は愚かな黒獅子の気質に合わせ、こう答えた。
「ああ、いいだろう。弓矢の勝負でわらわに勝ったらな」
 黒獅子は「ほほう」と思わず歯を見せた。
「いいぜ。弓矢は得意だ。的は何にする?」
 魔女王は天井の穴を真っ直ぐに指差して、こう言った。
「負の秘法だ」


 ──黄金の魔女王は、こうして、黒獅子を利用し、砂漠の国の城の地下にある、秘法の間に案内させた。
 ひんやりとした金庫内。金銀財宝はもちろん、絵画や壺、祖先のに至るまで、あらゆる宝があった。
「あれが負の秘法だ」
 黒獅子が指差す金庫の中央に、布に包まれたのっぽな秘法が置かれていた。黄金の魔女王は、真っ直ぐに布の向こうを睨む。
「布を広げるか?」と黒獅子が訊く。
 魔女王は首を横に振った。
「対象を負へと変える存在だ。見る前に破壊する」
 すると彼女の手に水分の凝固によってできた弓矢が現れる。
 それから、黄金の髪の毛を数本束ね、弓の両端にくくりつけた。
 さらに彼女は、右手の親指をむ。
 すると血玉が浮かび、間もなくそれは高硬度のあかい矢じりとなった。
 黒獅子も、部下が二人がかりで運んできた大弓を構える。
 矢そのものが赤子の拳ほどに太く、彼の怪力を以って鹿に放てば、角を二本同時にへし折るほどの威力を秘めていた。
「先に破壊したほうが勝ちだ」
 金庫の端に立つと、黒獅子と魔女王は同時に弓を構え、ぎりぎりと矢を引いた。
 二人とも、常軌を逸した怪力を見せ、堅い糸が限界まで緊張する。
「放て!」という手下のかけ声で、二人が同時に矢を放った。
 朱い矢に続いて、太い矢。二本の矢が秘法の中央に激突する──しかし、硬い音を立てるだけで、秘法は破壊どころか、倒れることもなかった。
「なんだ、引き分けか」
 とのん気な様子の黒獅子に対し、魔女王は焦った様子を見せる。
「わらわの矢でも、射抜けぬだと?」
「お、おい」と黒獅子が声をかけるなか、魔女王が秘法に近づき、布を剥がした。
「これは……!」
 そこに置かれていたのは、一枚の大鏡だった。
 負の秘法の正体は、鏡だったのだ。
 すると鏡から光が放たれ、魔女王の全身を包んだ。
 不気味な、重い色の集まりによる光だった。七色の絵の具をぐるぐる混ぜたような大理石模様で、見る者に余命を宣告されたような焦りを与えた。
 ──不気味な七色はすぐに鏡に戻っていく。
 その場にいた黒獅子と手下の何人かは夢から覚めたような顔をした。魔女王は、大鏡の前で、じっと立ち尽くしている。
 黒獅子が、彼女の背中に声をかけた。
「おい、魔女の王。次の勝負は何にする?」
「……勝負は、お預けだ」とだけ彼女が返す。
 心なしか、彼女の背たけは縮んで見えた。
 ゆっくりと、魔女王が振り返った。氷の衣服は水となり、漏らしたように、床を濡らしていた。氷の弓も溶けている。
 そして魔女王の姿にも、大きな異変が起きていた。
 黒獅子は驚きを隠せずにいた。
「……誰だ、お前?」
 振り返った彼女の姿は、そばかすに、くるくるの毛髪の少女だった。彼女は自身の両手を見て、力ない声で言った。
「鏡に、力を……吸い取られてしまった」
 黒獅子は手下に向かっておもむろに、「脱げ」と命令した。
 手下が自分の衣服を少女に羽織らせる。
 黒獅子は訊いた。
「それで、いつになったら、さっきの、美しい姿に戻るんだ?」
 少女は首を横に振って、こう言った。
「わからない。黒獅子、馬を用意してくれ」
「どこに行く気だ?」
「図書館だ。とある国にある、世界最大の図書館。そこに帰る」
 すると「親分!」と背後から手下の声が。
「何だ?」と黒獅子が振り返ると、「ギャア!」という悲鳴とともに、手下の一人が倒れた。
「おい!」と黒獅子が倒れた手下に駆け寄ろうとすると、新たな一団が現れる。
「やあ、兄上」
 かっぷくの良い一人の青年が先頭にいた。
 その人物は、この国の第二皇子にして黒獅子の弟だった。
 第二皇子と多くの城兵が、金庫の出入り口を封鎖したのだ。
 黒獅子は腹違いの弟をにらむ。
「おい、てめえ、俺様の手下を切るとは覚悟できてんのか?」
 第二皇子は、細い目をさらに細くして、そばかすの少女を覗く。彼女は黒獅子の背後にいた。
「兄者。あなたが魔女に、秘法を渡そうとしている、という密告があったものでね。ちんは、国の秘法を守るため、駆けつけたのですよ」
「ぶっ壊そうとはしたが、盗むなんてことはしてねえぞ」
「同じですよ。重罪を犯したのですよ、兄者は」
「だったらこの第一皇子の俺様に免じて、てめえは引っ込んでろ」
 第二皇子は不気味な様子で、ニタニタと笑った。
「できませんよ。先ほど父君が言っていました。子のできない兄者に、王を継ぐ資格はない、と。次期王権は、朕にあるんですよ」
「おい待て。子なら授かったぞ」
 第二皇子は「あーっ」と天井に目をやり、人差し指を立てた。
「そう言えば、今朝、はらんだ女を一人、国外へ追放しましたなぁ」
「何だと?」
「黒獅子一味のせいですよ。彼女は、あなた方の犯罪をほう助した重罪人として、追放したのです」
 きょうで無慈悲な第二皇子の言動に、黒獅子は怒った。
 しかしそばかすの少女にはわかっていた。すべては黒獅子の、日頃の行いから生じた罰とも言うべき結果だと。
 第二皇子は部下にこう命令した。
「捕まえろ。全員、盗人ぬすっとだ」
 こうして黒獅子は、多くの妻と、一人の子を失う。だが、その悲しみや戸惑いを抱く間もなく、国を追われる身となってしまった。
 黒獅子は数人の手下とともに、数百の兵に挑むが、あっさりと敗れ、そばかすの少女を連れて泣く泣く砂漠の大国を後にした──。




   白き老獅子、七人の魔女




 ──七色の魔女に襲われた男の国。
 その光景は怪奇そのもの。多くの男に、国の壊滅を知らしめました。
 空は肉色と化し、火の雨は次第にその大きさを増します。
 辺りはあっという間に火の海となり、炎は黒煙を吐きながら木造の民家を食べるように燃やし、石の噴水を熱で割りました。
 屋内では大小の昆虫が湧き、隠れた人の肌を噛んだり、刺したりして、毒をきます。巨大な女の足を目撃した者もいました。
「王よ、早く城の中へ!」と総理大臣が叫びます。
 城の裏で行われようとした捕虜の処刑は中断され、王と総理大臣は、城の中に隠れようとしていました。
 しかし、涙屋がそれを止めます。
「王よ、籠城は危険です!」
「では、どこに行けばいい!?」
 と総理大臣が涙屋を睨みます。涙屋は港があるほうを指差します。
「船で、獣の森に行きましょう、あそこは中立地帯です、刺客も不用意に追ってきません!」
 涙屋と総理大臣が「王よ!」と同時に叫びます。
 王は一度涙屋のほうを見ますが、間もなく……城の中へと入って行きました。総理大臣もそれに続きます。
 ここに来て、結局、涙屋を信用しなかったのです。
 涙屋は悲しそうにうつむきました。
 けれど瞬時に頭を切り替え、気絶した青年の様子を確認します。
 青年は硬い仮面のお陰で銃弾を跳ね返し、息がありました。
 しかしほおを叩いても目覚めません。
 涙屋は、すぐに忠実な三人の兵士を呼びました。
 そして一人目の兵士に、この国でもっとも大きな弓矢を持ってくるよう命令をします。兵士はすぐに城の武器庫へ向かいました。
 そして二人目の兵士に気絶した青年を背負わせると、共に町の港に向かいました。
 いつの間にか、七人の捕虜の姿は、こつ然と消えていました。混乱に乗じて、女の国の魔女によって逃がされたのでしょう。
 この騒ぎは、恐らく、女の国の女王が同胞の処刑を察知し、魔女を使いに出したものだと、涙屋は思いました。


 涙屋一行が町に辿り着きます。
「……むごい」と涙屋は町の様子を睨みました。
 火炎が天を舐め、数年かけて建設された建造物は一瞬で破壊されていました。逃げ惑う男や、刃物を持ってうろつく血走った目の男もいました。ある者は虫の毒による突然の発熱にうなされ、ある者は巨大な足によって破壊された建物の下敷きに。またある者は火災に巻き込まれ大火傷を負っていました。
 町の七カ所に、同時に魔女が現れ、多くの兵や、男たちが応戦しているようです。そこかしこから叫び声や怒声が聞こえました。
 さらに、涙屋が港に辿り着いたとき。
「涙屋殿!」と弓矢運びの命を受けた忠実な兵士がやってきました。
 兵士は合流早々、「あれを!」と海のほうを指差します。
 涙屋が目を凝らして見てみると、港から見える海面に、ざく色の魔女がいました。彼女はつま先立ちで円を描くようにして、海面でくるくると舞を踊っています。
「……あれが、火の雨を降らす魔女か」
 涙屋は、そう言いながら、兵士が用意した大弓と一本の矢を受け取ります。彼はあらかじめ、三人目の兵に命令し、港に停泊している船から油が入った袋を持ってこさせていました。
 涙屋は矢の先に油袋をくくりつけると、
「歳は食ったけど、一年に一回くらいなら」
 とぶつぶつ言って、矢を引きます。そのとき彼の腕は何倍にも膨れ上がり、弓と糸が悲鳴を上げました。
 最大まで糸が緊張したとき、矢を放ちます。
「おお!」と三人の兵が感嘆の声を上げました。
 矢は甲高い音を置き去りにするほどの速度で、海上の宙を裂き、見事に柘榴色の魔女の肩に命中。彼女の踊りを中止させるとともに、魔女を転ばせ、大量の油をかけました。どうやら海面にはイカダを敷いていたようです。
 柘榴色の魔女が起き上がろうとします。
 涙屋は大きく息を吸い込んで言いました。
「火の雨を止めなさい! さもないと、あんた、燃えるよ!」
 ところが、彼女はぐるぐると大きく右肩を振り、それから悠々とした様子で、火を降らす舞を再開しました。するとそれまでよりさらに大きな火の玉が空から降ってきました。
 火の玉は柘榴色の魔女も襲い、火炎が彼女を包みます。
 嫌な臭いのする黒煙が海上に漂い、魔女が影になっていきました。
 その様子を見て、涙屋はあることに気づきます。
「見たぞ、女の国の、魔女の正体……!」
 間もなく、兵士が一隻の小舟を見つけ、涙屋に報告しました。
 涙屋はその小舟に気絶した青年を置きます。
 直後、ゴロゴロロ、ゴロゴロロ、という地を鳴らすごうおんとともに、大きくて汚れた球体が転がってきました。
「おお、君は、鼻たれくん!」
 その物体から、鼻たれの顔が飛び出します。
「ああ、爺さん、生きてたんだね」
 鼻たれは「よいしょ」と起き上がります。男の国でもっとも丈夫な男が、今は傷だらけでした。涙屋は彼のほこりを払ってやります。
「どうしたんだ、こんなに傷ついて?」
 鼻たれは、鼻血を拭きながら言います。
ぞう色をした爪の、巨大な足に、町の端から端まで、蹴りに蹴られてさ」
 涙屋には意味がわかりませんでしたが、鼻たれは巨大な足に蹴られ、港まで転がってきたそうです。常人ならにくかいと化す仕打ちでした。
 涙屋は小舟を見て言います。
「一緒に船に乗ろう。逃げるんだ」
 ところが鼻たれは首を横に振り、城があるほうを睨みます。
うれしいけどできないよ。王はもちろん、この国を守らないと」
 鼻たれは真面目で義理堅く、責任感のある人物でした。
 彼はニッコリと笑って、気絶した青年を見つめます。
「仮面の彼を救うんでしょう。獣の森に行くのが一番いい。鼻たれに構わず行って」
 涙屋は鼻たれの肩をさすると、苦しそうな顔で言います。
「鼻たれくん、命を、粗末にするなよ」
 鼻たれは大きく頷きました。
 それから涙屋も小舟に乗ると、鼻たれは船の出航を助けます。
 三人の忠実な兵士も、鼻たれとともに男の国に残りました──。


 ──涙屋と青年を乗せた小舟が、獣の森に辿り着きます。
 涙屋が予想したとおり、女の国の魔女も、ここまでは追ってきませんでした。
 すると小さな少年、よだれが海岸で二人を迎えました。
「少し手伝ってくれるかね、よだれくん」
 よだれは「しゅっ、しゅっ」と返します。涙屋の言葉を理解した様子です。青年の身体を支え、移動を手伝いました。
 森に入る手前で、涙屋は一度、海の向こうを振り返ります。
 黒い煙を吐く男の国の島が見えました。炎はすべてを焼き、悲しみを人の心に植えつけます。
 彼はその光景を目に焼けつけ、森のなかへと進んでいきました。


「よっこいしょ、と」
 森のほぼ中央に、よだれの住処すみかがありました。住処と言っても、巨大な大樹の根を屋根にした粗末な洞穴です。
 涙屋は青年をそこに降ろすと、自身もあぐらをかきました。
 さらに、背中から書類を取り出します。涙の秘訣です。弓矢を持ってきた兵士が、涙屋のために持ち出してくれたものでした。
 青年と、涙の秘訣の無事を確認すると、彼は安堵しました。
 その安堵は、彼の意識をもうろうとさせます。熱っぽく、吐き気がしました。「ごほっ、ごほっ」と咳が出ます。
 首の裏に手を触れさせると……虫に刺された跡がありました。
 それは琥珀色の魔女が放った害虫によるもので、健康な成人なら数日間、風邪の症状を与えるだけですが、老人や子どもにおいては著しく体力を奪い、死に至らしめる毒を持っていました。
 よだれが「しゅっ?」と、心配そうに涙屋の顔を覗き込みます。
 様々な思いが涙屋の脳裏を駆け巡り、ポツリと溢れました。
「叶うなら……子を、抱いてみたかったなぁ……」
「だが、希望は残した。黒獅子よ」
 どこからともなく、甲高い女の声が聞こえました。
 涙屋は、その声を聞くと、目頭が熱くなりました。
「ああ、お久しぶりですなぁ……」
 涙屋が顔を上げると、洞穴の出入り口に一人の女が立っていました。
 現れたのは──煤まみれです。彼女は老いた獅子に言いました。
「今は白き老獅子か。あれから、お前にとって永い年月が経ったな」
 涙屋は白髭をもごもごとさせ、煤まみれの瞳を見つめます。
「あれとは、貴女の隠れ家まで送ったことですか? それとも、それからあたしを、弟を恨まないまでに成長させた、勉強会のことですかな?」
 涙屋は、一秒でも長い彼女との会話を望み、思い出を手繰り寄せました。さらに、にっこり笑うと、こう言いました。
「けれど、貴女は今も変わらない、若い姿なのですなぁ」
 煤まみれが自分の顔を撫でます。すると顔についた煤がさっぱりとなくなり──頬にそばかすを浮かばせた女性が現れました。
 彼女は言います。
「今のわらわは、貴様と離れて間もないわらわだ」
「時代を超える力を、取り戻したので?」
 そばかすの女は自身の両手を見つめます。
「いいや。今も、あの鏡に魔女としての力を取られたままだ。人間の女であるこのそばかすの姿が、何よりの証拠だ」
 涙屋は首を傾げます。
「では一体、どのようにして、この時代へ?」
「また別の秘法を利用して、この時代に来た」
「他にも、秘法が?」と涙屋が眉をしかめます。
 そばかすの女は、女の国があるほうを指差しました。
「ああ。女の国の大図書館の、地下にある。白銀の魔女の遺骸だ。死してなお、時を超える力を持つ」
 涙屋は苦しそうに、大きく溜息をきます。
「よく、わかりませんが……何のためにこの時代に来たので?」
 そばかすの女は「世界を晴れにするため」と言って続けます。
「負の秘法……あの大鏡を破壊する。それを叶える真実の矢が、この時代、ここにあることが大図書館の本でわかったのだ」
 そのとき、そばかすの女は気絶した青年を見つめていました。
「真実の矢を手に入れるには〝宝石病が鍵〟とあった……つまり」
 彼女の言葉を遮るように、「ごほっ」と涙屋が咳をしました。
「彼は、違いますよ」
「……何だと?」
 涙屋はぬくもりに満ちた、優しい笑顔で青年を見つめました。
「限りなく真実を吐くが、大人になり、嘘も覚えた」
「嘘?」とそばかすの女の顔が曇ります。
 涙屋は穏やかに続けました。
「宝石病にかかっているのに、健康を装った。彼はあたしを心配させまいと、優しい嘘を覚えてしまった」
 そばかすの女は一歩、洞穴に入ります。
「だが、歴史書のとおりだ。宝石病となったこの青年が、負の秘法を破壊する、真実の矢の……〝矢じりそのもの〟となる」
 涙屋は、おもむろに、そばかすの女に、涙の秘訣を差し出します。
「どうか、受け取ってくだされ」
「どうしたのだ?」
 そばかすの女は戸惑った様子で涙の秘訣を受け取ります。
 次に涙屋は、守るように真実の青年に身に寄せ、その手を握りました。
「そして、彼を導いてほしい。かつてあたしを導いたように。彼を女の国に運び、治療を受けさせてやってください」
 そばかすの女は、その書類と青年を交互に見つめ、冷酷な様子で言います。
「……では、真実の矢はどうすればいい? 負の秘法を野放しにすれば、この先も多くの人々が虚しき永遠を歩むぞ」
 すると涙屋が再び「ごほっ、ごほ」と咳をしました。
 老いた老獅子は、手のひらを彼女に見せました。
「あたしが、その〝真実の矢〟になりましょう」
 その手のひらには、赤く輝く無数の宝石がありました──。




   美しい青年




「──続きは? 物語の続きは?」
 美しい青年が母にそうせがんだ。
 そこはとある国の民家。教師をする母と、物を造る父。
 二人の間には、美しい容姿をした一人の青年がいた。
 夕げを終えると、母と息子は談笑し、そのなかで時々、母は不思議な物語を息子に聞かせた。
 息子が小さなころには、老婆が少年に語る、五つの国の出来事を通した物語を伝え、息子が少し成長すると、魔女が旅した危険な三つ国の物語を聞かせた。
 そして息子が青年と呼べるほど成長したとき、母はこんな物語を語り始めた。
「これはお婆様から聞いた、不思議な二つの国と、獣が住まうとされた森の物語……」
 しかし中途半端なところで、物語は終わりを迎える。
 息子の憤りに、母は残念そうに首を横に振った。
「ここから先のお話をする前に、お婆様はいなくなったわ」
 青年は矢継ぎ早に訊いた。
「仮面の青年や、涙屋、それに良き友の王に、代弁者は一体どうなったの? 女の国は? 獣の森のよだれは?」
 再び、母は首を横に振る。
「続きはわからない。お婆様しか知らないから」
「じゃあ何故、その物語を俺にしたの?」
「わたしの祖父母であり、あなたにとっての曽祖父母の物語。自分を知るいいきかけになると思って……」
 母の言葉は矛盾していた。自分を知る手がかりにこそなっても、結末がない。それは何とも寝つきの悪い印象を青年に与えた。
 さらに、青年は大きな疑問を抱かざるをえなかった。
 自分の曽祖父は、一体どうやって生き延び、また、曾祖母は誰なのか──?
 疑問。それが青年の旅の始まりを手伝った。
 美しい容姿をした青年は、準備を整えると、学校が長い休みに入ったのをきっかけに、とある国を目指すことにする。
 そこは、かつて女の国があったとされる島。
 美しい青年は、そこにあるとされる大図書館を目指した──。