第九話 とある予言、母の執念

 すこし、むかし。
 ある夫婦が母国のしがらみを抜けるため、別の国に亡命した。
 二人は追っ手の目をあざむくため、別々に移動して、目的の国で落ち合う約束をした。
 先に辿たどり着いたのは妻のほうだった。
 夫は目的の手前の国で体調を崩し、数カ月の間、治療をなくされた。妻は夫を待つ間、港町の造船工場で働くことにした。
 彼女は美しくもみにくくもなく、派手な化粧をするわけでもなければ歌がうまいわけでもない。
 ふっくらとした体型で体力があり、気立てが優しい女だった。
 学がなく、数字が苦手だった。そのため、物を運ぶ仕事でも貰えればと思ったが、工場長の奥様のはからいで、夜、近隣の学校の教師に勉強を習う機会を得た。
 彼女は一生懸命まじめに働き、そして学んだ。やがて複雑な計算もできるようになり、びっしりと数字が並んだ書類をまとめて、工場長に渡すのが主な仕事になった。


 
 太陽が工場を照りつける暑い日のこと。男の商人が訪ねてきた。珍しい材木による、新しい建築資材を売る男だった。
 数分後には、工場長が話も聞かずに彼を工場から追い出してしまう。けれどそれまでの間、彼女は、商人を丁重にもてなし、冷たいお茶を出してやった。
 すると商人は女の顔の相を見て、こう言った。
「わたしはいくらか、人の未来をることができます」
「まあ、本当ですか」と女は世間話のつもりで応えた。
「親切のお礼に、少し視て差し上げよう」
 商人は彼女に、まず左手を見せるように言った。
 言われた通りにすると、商人は目玉が飛び出してしまうのではないかというほど、彼女の手のひらをぎょうした。
「貴女は、少し特別な国に身を置いていたようだ」
 女の背筋が凍りつく。亡命したことは誰にも言っていなかった。
 商人は、次に彼女の右手を見た。
「大丈夫、貴女を脅かす者はもういない。待ち人も無事で、間もなく会える」
 彼女がほっとした直後、申し訳なさそうな商人の顔があった。
「けれど、貴女は、少し、子に縁がないかもしれない」
 不吉な予言だった。
 女は何度かき返したが、商人は「子が産まれないか、産まれた子がこの世を去るか」と答え、最後にこう付け加える。
「数奇な運命だ」
 それは母のことか、子のことか。
 間もなく二人の前に工場長が現われた。


 
 それから半年が過ぎ、彼女はついに夫との合流を果たす。
 夫は手先が器用な人間だったので、その工場で船の設計をまかされるようになった。そして、さらに亡命してきた夫の両親とも合流し、家族みな平和に暮らすようになった。
 年月はさらに過ぎ、あの予言を忘れかけたころ、夫はその国の建造物の建築をまかされるほどの優秀な職人となり、妻は小学校で子どもに算数を教える教師となった。
 そして妻は、夫の子を身ごもった。
 しかし一人目の子は流産してしまう。
 二人目も命の芽は成長を拒んだ。彼女は冷たくなった腹をさすって、言葉にできぬ喪失感と、目に見えない不安に襲われていた。
 その心は削られるようにへいし、夫はかける言葉を失っていた。夫婦の間には悲哀しかなく、気遣いがけんの原因となり、互いの不信につながることもあった。
 ──〝不公平〟だ。彼女はそう呪った。
 子が冷たくなることについて、たとえその原因が男にあったとしても、苦しみを背負うのは女のほうだったからだ。
 ──なんであいつらが親なのに、わたしは親になれない。
 教師として子の親と接することが多かった。そのため、ねたみとも言えるそんな思いもよぎった。
 自己の境遇を呪う気持ちと、他者を妬む気持ち。
 彼女の心は、地の底でただ彷徨さまよっていた。
 だが、それでも彼女は、夫の子を産んでやりたいと思った。
 晴れた日の午後。公園で遊ぶ幼児を見て、夫は妻を抱き寄せた。
「あれくらいの幼児になった僕らの子が、未来から会いに来てくれればいいのに。そうすれば、今僕たちが抱える負の感情は、すべて吹き飛ぶのに」
 不思議なことを言う夫だが、仕事は真面目にこなすし、妻が辛いとき、怒るとき、一言も言い返さずに聞いてやった。
 そして自分たちは必ず子を授かると信じていた。
 二人はおさなじみで、互いの苦楽を分かち、性格における良いところを知り、悪い習慣を注意し合える仲だった。
 夫の姿を見て、彼女はこう思った。
 ──女として、生命の連鎖を持つ女性として、自分に、子どもを産めないはずがない。
 その一念が彼女の心を強く押した。
 抱いたのは炎のように燃え盛る感情でも、水のようにとうとうと流れる感情でもない、煮えたぎるマグマのごとき執念だった。
 虹色に輝く希望など描く暇もなかった。あるのは出口が見えない、暗い洞穴をあえて突き進むような、鈍色の覚悟だった。
 身体を休ませることなく、彼女は三度目の妊娠を決意する。
 彼女は母への道を諦めなかった。
 その執念と覚悟が実り、三度目の妊娠の末、出産した。
 しかしその子は予定より早く産まれてしまう。
 父の拳ほど。人と言うことすらちゅうちょする新生児の姿に、夫婦は絶望しかけた。
 母は、我が子に声をかけ続けた。
「生きて、生き抜いて。どうか、生きて。星の数ほどの幸福や歓喜があなたを待っているから。すべての逆境からわたしが守るから」
 どうか生きて、と。
 父は、子を包む布を握り締め、目を赤くした。
「頼む。やることがあるから来てくれたんだろう。どうか、生きて、大きくなっておくれ。負けないで、成し遂げておくれ」
 二人は出産後、寝る間も惜しんで我が子に声をかけ続けた。
 しかし二日目のこと。母がまたたきとも言える仮眠を取り、次に目覚めたとき──その子の身体からだしゅくし、鉄球のように冷たくなっていた。
 母は自分を責めた。夫は妻ではなく自分たちの運命を呪った。
 再び、寒風に身をさらすような悲哀が二人を襲った。
 だが、そんな二人に手を差し伸べる者がいた。
 隣の家に住む女性で、夫婦の悩みをよく聞いてくれる人だった。
 子ができない夫婦に、彼女は言った。
「ある縁があり、これから不幸な赤ん坊を引き取ります」
 はじめ夫婦には訳がわからなかったが、女性はこう続けた。
「あなたたち夫婦は、その子の面倒を、責任をって、見ることはできますか?」
 思いも寄らぬ提案だった。二人は慎重に話し合った。与えられたゆうはひと晩だけだった。
 実子と同じように愛することができるか、いつ実親でないことを打ち明けるべきか、あらゆる懸念を二人は語り合ったが、いずれも引き取ることを前提とした相談だった。
 そして次の日の朝。隣の家を訪ねると、疲れた様子の女性が現われた。部屋の奥に、その子がいるという。
 彼女は試すように夫婦に言った。
「長旅で治療が必要な子でした。しかし何より必要なのは親の慈愛です」
 二人は顔を見合わせてうなずくと、夫が、こう返事した。
「その子の親の許しと、我々にその資格とがあり、誰かが不幸になるようなことがないのなら、わたしたちは喜んで、責任を以って、その子を迎えます」
 女性はその言葉に納得し、まさに玉のような男の乳児を夫婦に預けた。
 その子のぬくもりに触れた瞬間、母の悲しみは喜びへと変わった。
 その子の唇かられる、声とも言えない、けれど歌っているような音を聞いたとき、父は幸福そのものを心に刻んだ。
 二人の心から、悲哀のすべてが跡形もなく吹き飛んでいた。
 あるのはきょうじんな責任感だった。授かったその乳児の生命を、何としてでも存続させ、立派な青年に育て上げる。
 夫婦の強い想いは、子を授けた女性にも伝わった。
 妻が一度だけ尋ねた。
「この子の親は、一体?」
 女性は悲しそうに、寒空を仰いだ。
はるか遠く、西の大国の、血筋を根絶やしにされた家の生き残りです。父親はもういません。母親はこの子を守るために、わたしに託しました。もう危険はありませんが、できればこのことは他言しないでください」
 女性の様子から、夫婦は多くを察し、言われた通りにした。
 それから、その子は健やかに成長した。母の乳房は大きく膨らみ、その子に必要な栄養を母乳によって充分に与えることができた。
 病気をすることもあったが、治りも早かった。
 三度の難を乗り越えた分、両親は三倍の愛情をその子に与えた。
 こうしてその赤子は充分な二人の慈愛に包まれて、聡明で、真実のみを語る子に育った。


 
 子が青年と呼ばれるようになったころ。
 隣の家の女性が、母国へ帰ると言って引っ越していった。
 その女性はいつも白い服を着ていて、痩せた背の高い人だった。鼻が高く、若いころはさぞ美しかっただろうと想像させた。
 あるとき、少年が、彼女の庭の果実を盗むという出来事があったが、彼女は決してそれをとがめなかった。
 彼女が母国に帰る日、少年の母と父は彼女に何度も礼を言っては頭を下げた。
 近隣住民から少し変わった女性と思われていたが、その女性は腕の良い医師でもあった──。


 
 ──青年はハッと目を覚まします。夢を見ていました。
 いつか、母から聞いた自分が生まれたときの夢です。
 ここは男の国。城の上階にある、書斎の一室でした。
 青年は自分の母国の言語と、男の国の言語を照らし合わせる仕事をしていました。
 文字と向き合うことは得意なことでしたが、彼には職人的な技術はなく、はじめてやる作業は試行錯誤の連続です。
 寝る間も惜しみ、もう何日間もお風呂にも入っていません。
 毎朝、鼻たれが食事を運んで来てくれました。
 鼻水が垂れ、腰が痛くなります。身体が重く、心も重くなります。
 身体のなかにある言葉がすべて外に吐き出されたような気分で、もう一文字も読みたくないし、書きたくもない。
 それでも青年はその仕事を続けていました。
 どうしても作業をしたくなくなると、白い余白に〝目〟を描きました。それはあの日見たすすまみれの瞳でした。
 彼に絵心はありませんでしたが、夜空を走る流れ星のようなあの瞳は、今でも鮮明に覚えていたのです。
 描いた目を人差し指で小さくでると、彼女が目をつむります。
 その様子を最後に、青年もまた目を瞑るのです。
 彼は一度夜風にあたりに行くと、書斎に戻り、水を少し飲みますそして作業を再開することにしました。
「ごほ、ごほっ」
 小さな咳とともに彼の背中に痛みが走りました。
 手についたそれを見てみると──砂粒のように小さく、そして赤く輝く、宝石でした。