第七話 真実の青年、良き友の王

 島の南の小高い丘の上に男の国の城がちんし、そこから北へ向かって伸びる林道を経て、男達が住む町がありました。
 林道の途中、道をそれて林のなかを少し行くと、木こり小屋がありました。
 王は青年をそこに案内すると、今まで着ていた服を脱ぎ、質素な格好に着替え、さらに、熊の毛皮を羽織りました。熊の頭部が王の顔の横から現れ、毛皮からはツンと鼻を突くけものしゅうがします。
 王は、「どうだ」と胸を張りました。
「我輩は、今から猟師だ」
 青年は首を傾げます。
「どうして、そのような格好を?」
「良き友でいたいからさ」と王は歯を見せるだけした。
 次に王は、青年がつけている仮面を指差し、ニヤリと笑います。
「その仮面も、自分の正体を隠すためにつけているのだろう?」
 青年は少し考えてから「いいえ」と答えます。
「では、何故つけている?」
 青年は仮面に触れて、なるべく簡潔な言葉を選んでこう言いました。
「つけていたほうが安心するもので」
 王は大きくためいききます。
「ふむ。町であまり目立ちたくない。できれば外してくれないか?」
 青年は少し悩みましたが、一国の王の頼みなので、自ら仮面を外しました。王は満足そうに言います。
「ほう、なかなか、せいかんな顔つきをしているじゃないか」
 青年は顔をごしごしといて、仮面を小屋に置くと、町に向かう王に続きました。


 その日は曇天で、雨は降っていませんでした。
 青年が思い描いた男の国の城下町は、そこら中にゴミが散らかっていたり、治安が悪かったり、乱暴な町でした。
 しかし、実際の城下町は道に敷かれた石から建築物に使われている石まで、一つひとつがよく磨かれ、れいで、清潔な様子でした。民家から商店まで、大抵の建物は優れた建築法によって頑丈にできており、質素ながら美しい見た目をしています。
 午前中の城下町では、通りに椅子が並べられ、あちらこちらで、男達が酒を飲んだり、賭け事をしたりしていました。
 王は彼らに「やあ」とか「久しぶり」と率先して喋りかけます。
 賭け事をしている二人組には「どっちが勝っている?」と双方の肩に手を触れ、酔っ払いから酒を勧められると、それを一気に飲み干し、歓声を背にまた歩き始めます。
 王に声をかけられた男達は皆嬉しそうでした。
 青年は、気さくな王の様子を不思議に思います。
「皆、あなたの正体を知っているのでしょうか?」
「知っている者もいれば、どうでもいい者もいるだろう」
 町の中央にある広場には、露店が並んでいました。果物や野菜、椅子や服なども置かれています。しかし、店には誰もいません。
 青年は疑問をつぶやきます。
「働いている人がいないのは何故ですか?」
 王は空を見上げます。
「今は曇りだから、曇りを崇拝する者は、休息を取る時間だ」
「雨の日に働くのですか?」
「そうだ」
「では、晴れの日はどうするのですか?」
「働くとも。決まっているだろう」
「その、何というか、それでこの国は成り立つのでしょうか?」
 王は誇らしげに、胸を張ります。
「この国は信用と友情によってできている。今までもこれからも、すべての問題は信用と友情が解決してくれる、としている」
 それから王は、広場の中心にある噴水彫刻のふちに座り、青年に隣に座るよう言いました。
 王はおもむろに、筆と紙を取り出しました。
「本当は嫌だが、どうしても仕方がないので、溜まった仕事を消化する。会話することに問題はない。気にしないでくれ」
「曇りのときは休むのでは?」
 すると王がぴんと指を立てます。青年が空を見上げると、雲の隙間から日差しが漏れているのが見えました。
 それから王は書類をめくりながら、青年にこう言いました。
「君は針だ。この国にとっての針だ」
「僕は、針のような危険な人間ではありません」
「違う違う。この国も女の国も、多くの問題をはらみ、もう破裂寸前だった。君はきっかけ、きっかけという意味での針だ」
 王は続けます。
「いろいろと話は聞いたよ。女の国との交渉を、代弁者に〝反対〟したそうだね」
「は、反対? あの、何か誤解があるようです」
 良き友の王は、筆の先をぺろりとめ、紙に斜線を引きました。
「ほうほう、やっぱりそうか」
「どういうことでしょうか?」
「我輩を助けるため、女の国に歩み寄る交渉を代弁者が発案し、君が反対した、と代弁者が言っていたものでね」
「そんな、それはうそです。代弁者は嘘をいています」
「心配しなくていい。君と会って、それはよくわかった」
 王はそう言ってくれましたが、青年の怒りは収まりません。
 そう言えば代弁者は、獣の森においても、靴の心配ばかりして、子どもを殺そうとしたり、青年も亡き者にしようとしたりしていました。そして今度は、王が帰還した功績を独り占めしようとしているのです。
 青年が不満そうにしていると、王は「ハハハ」とごうかいに笑って、こう言いました。
「許してやってくれ、あいつはあれでも、なかなか使える奴なのだ」
「そうは思えません」と青年は唇を尖らせます。
「政治には、ああいうきょうな性根も必要で、厄介な隣国がいるときはなおさらなのだよ」
 青年が何かを言う前に、王はこう続けました。
「代弁者に交渉の提案をし、状況に進展をくれたのは君だ。感謝している。そして、その功績を讃えて礼を用意しよう」
「お礼、ですか」と青年。戸惑いつつも、大きな期待感を抱きます。
 ところが、王のお礼は青年の想像を遥かに超えたものでした。
「君を、我が国の代弁者に任命したい」
 その瞬間、青年の脳裏に、背の小さな代弁者が履いていたピカピカの尖った靴が浮かびます。
 それから数秒間、言葉を失いました。
 やっとの思いで、青年は、自分を指差します。
「ぼ、僕が代弁者ですか?」
「うむ。これにはいくつか理由があるが、最も大きな理由は、これから国が揺れることにある。この国の存続と繁栄のため、君と、あの老人の知恵が必要なのだ」
「老人とは、涙屋のことですか?」
「そうだ。もう牢屋や、使用人の部屋に住む必要はない」
 それから王は、代弁者になった際の特権を教えました。
 この国では、常に三名の代弁者が存在しているのですが、王が帰ってきたとき既に他の二人は解任され、青年をいじめるあの小男の代弁者だけが残っていたそうです。
 代弁者の主な仕事は、その役職の名の通り、王の意思を国民や国の大臣に代弁することですが、その次に王のご意見番として、王に助言することでした。
 国の状況を王に教えたり、国の行く末を共に案じたり、王の悩みを訊き、王が誘拐されるなど有事の際には王の代わりを務めることも代弁者の仕事です。
 代弁者には高価な召し物や、金銀宝石など装飾品も与えられます。
 住まいは、城の敷地のなかに小さな城を新築してもらえます。
 もちろん、好きな時間に好きな食べ物を好きなだけ食べることができ、休日も自分で決めることができます。
 また、百人もの部下が付きます。護衛の兵士が五十人に、荷物持ちや掃除番、料理人、ばくから調べものが得意な学者まで、五十人の召し使いが付きます。
 また、代弁者になることによって、国の利益や防衛に関係することに限り、外国との行き来が可能になります。船が貰えるのです。
 牢獄住まいから、お屋敷を与えられるほどの出世に、青年は困惑します。王に疑問を訊くことにしました。
「いくつか質問をしてもよろしいでしょうか?」
「許そう」
「どうしてそれほどの役職を僕に? 必要なのは涙屋の老人では?」
 王は紙に視線を落としたまま、まずこんな前置きを話しました。
「聞いた話から判断したわけじゃない。人から聞いた話や、見えない者がささやく噂をみにする者は、愚か者だ」
 青年が深く頷くと、王はこう続けました。
「君の素顔を見て、二、三の会話を交わして判断したのだ」
「それだけで涙屋のことも信用に足ると?」
「そうだ。君を通して彼を見た」
「僕の振る舞い次第で、涙屋の未来も決まっていたのですか」
「言い換えればそうなる」
 青年は胸に手を置きました。重い鼓動が伝わります。
「何だか重い、責任を感じます」
「それでいい。船乗りであろうと王であろうと、仕事には責任がつきまとう。存分に緊張したまえ。緊張は成長に繋がる」
 王は書類をめくり、何かを書き込みながら言います。
「涙屋という老人には知恵が、君には勇気がある。でなければ牢獄に囚われた外国人が、あの頑固な代弁者に意見して、さらに彼を動かすことなどできまい」
 王はくったくのない笑顔を青年に向けます。
「我輩は、君達二人ともに、この国の明日に必要だと判断した」
「光栄です。あの、もう一つ質問をしても?」
「許そう」
 そして青年は、今抱えているなかで、もっとも大きな疑問を訊きました。
「今この国は鎖国状態では? 僕達を迎え入れるのは平気なのですか?」
 すると王は声を低くし、熊の頭部に注目します。つられて青年も熊の毛皮に注目しました。
「これは大きな声で言えない。だから、この猟師の姿として言う」
「はあ」
「我輩は、国は開くべきだと思っている」
「どうして開くべきだと?」
 王は、視線を落としたまま答えます。
「当然、この国の発展と国民の幸せのためだ」
「では、そうするべきでは? あなたは王ではないですか」
「勘違いするな、あくまで一人の、猟師としての意見だ。王であろうと、我輩一人の一存では決められない」
 青年は子どものように首を傾げます。
「何故です?」
「我輩個人の独断で国の一大事を決めれば、国民に独裁者や暴君だと思われてしまう。我輩は人に嫌われることを避けなければならない。何故なら、王だからな。とにかく、そういった国民の心への重圧は、ぼうどうに繋がる」
 そのとき見せた王の表情は、今まで見せた豪快で無邪気な男の様子と打って変わり、叱られた子のようにおくびょうな様子でした。
 王は筆をすばやく走らせながら続けます。 
「その反面、議会には例の反対党が多くいる。現在、開国に反対する意見のほうが多く、この国全体に『鎖国を守るべきだ』という風潮が続いているのだ」
 青年は広場のほうを見ました。天気が良くなったからか、仕事に戻る男達の姿が見えます。
「国民の、皆さんの考えは?」
「関係ない。それに見えない未来への興味も薄い。議会にいる大臣や有識者の意見こそ今のすべてだ」
 青年が何も言えなくなると、王は明るい調子でこう続けました。
「話が変わってしまったが、とにかく、君達がこの国に居続けることにおいては心配するな。君達は特例とする。この国の発展に繋がる仕事に従事することを条件に、特権と居住権を与える、という特別な措置だ」
「特別、ですか」
 青年は、話の途中から大きな喜びを抱くだけになりました。
 王と秘密を共有したこと、一国の未来を案ずること、名誉ある役職を与えられたこと、王に強く求められていること。
 若い心臓に流れ込んできた数々の波は、鼓動を速くさせ、瞬間的に、無上の喜びを抱かせました。
 男の国の王は青年を求め、その輝く瞳に見つめられた者は王への働きを歓喜とする。この国は信頼と友情によって構築されているとはこのことか、と青年は思います。
 すると素直過ぎる彼は、その心の熱を、あるいは命を、全力でこの国のために使おう、と考えるようになります。
 青年は大きく呼吸をすると、王にもう一つの質問をしました。
「あの、最後に、もう一つ訊いてもいいでしょうか」
「ああ、許そう」
「あなたが、女の国に誘拐されたというのは本当ですか?」
 筆を走らせていた手が止まりました。輝く瞳が青年をにらみます。
「うむ。誰にも言わないか?」
 王の低い声に、青年は固い唾を飲み込み、恐る恐る言います。
「涙屋の老人にだけ、言ってもいいですか?」
「正直な青年だな。うむ、彼だけならよかろう」
 王は女の国がある方角を見つめ、次に太陽を仰ぎました。
「妃、いや、今は女王を名乗るあの女に会いに行った」
 青年は「やっぱり」という一言をぐっとこらえ、さらに訊きます。
「何故、今になって?」
「発端は数カ月前。あちらの国の、とある姫の召し使いの女が、我が国に来たのだ」
「召し使いの女? どういうことですか?」
 王があごひげでると、ゾリゾリと硬い音がしました。
「不思議な女だった。あちらの国とこちらの国の法を破り、たった一人で男の国に密入国してきた。苦労したのだろう、すすにまみれて真っ黒な顔をしていた。少女か老女かもわからなかった」
「煤って、煤まみれの、あの女性ですか」
「そうだ」
「か、彼女は一介の召し使いだったのですか?」
「いかにも。だが、きょっこうげっこう、自然界にある光の奇跡をすべて詰め合わせたような瞳をした女だった」
 王はふと、青年の目を見つめました。
「君の目に少し似ている。物腰や喋り方はまったく違うが、知性と誠実さ、そして不屈の闘志を燃やしたような、その目に。女の国もこういう者ばかりなら、と我輩に思わせた」
「光栄です。けれど、一介の召し使いである彼女が、どうしてこの国で要人のりょになったのでしょうか?」
「その煤まみれは、我輩に直接、あることを伝えるためにこの国に渡って来た。彼女は、我輩と二人きりの、ほんの数秒だけのえっけんを目的とし、それに成功した」
「彼女は、なんと言ったのでしょうか?」
「それはたったの一言。だが、もし本当なら至極重大な言葉だった」
 王ですら少し緊張した様子でした。
 青年が次の言葉を待っていると、王はさらに低く、そして小さな声でこう言いました。
「『女の国に、虹色の魔女がいる』という一言だ」
「虹色の魔女?」
「そうだ。例えや冗談ではない。女の国には本物の魔女が存在する。煤まみれは命懸けでそれを伝えに来た」
「それから、一体?」
「代弁者が煤まみれを捕えた。我輩は彼女を丁重に扱うよう、代弁者に言った。よって要人として扱われた」
「つまり、彼女が灯台の、特別に用意した牢にいたのは、王の命令によるものだったんですね」
「ああ。それに女の国が、何度も煤まみれを取り返そうと交渉してきた」
「一介の使用人を、何故ですか?」
「わからない」と王が言っても、青年はさらに訊きます。
「それで、あの、魔女とは一体?」
「魔女は『絶望を知った女が成る者』。涙屋殿も知っているだろう、詳しくは彼から聞くといい」
「わかりました」
「話を戻すぞ。それで我輩は煤まみれが言ったことが気になり、女の国に自らおもむき、直接女王に事の真相を訊こうとした」
 突然、王は大きな舌打ちをして、重いためいきを吐きました。
 青年が何事かと思うと、王は唇の端を下げて、愚痴を吐くように言います。
「ところがあの女、わざわざ出向いてやった我輩を、こともあろうに軟禁したのだ。あとは知っての通りだ」
「そうだったのですか。それで、あの、魔女はいたのですか?」
「魔女、ああ、魔女は・・・」
 そのとき王は、筆が折れてしまうのではないかというほど、拳に力を込めていました。
 青年の視線に気づくと、気を取り直した様子で言います。
「それについては、代弁者になった際に教えてやろう」
 青年は、王の様子から、魔女は実在するのだと思いました。
 それから王はこう続けます。
「とにかく、我輩が直接女王に会いに行ったことも、そして捕まったことも、国の恥に繋がる、と代弁者が配慮して、もろもろのことを内密にしたりしたりしたのだ」
 王が「さあ、これで満足か?」と言うと、青年は「はい」と大きくうなずきました。
「では、本題だ。代弁者になったあかつきに、とある仕事を頼みたい」
「政治についてですか?」
「城に戻ったら説明する。君の得意なことだ」
 王はゆっくりと立ち上がると、青年に手を差し伸べて言います。
「それでは、代弁者になる件を涙屋殿にも考えてもらうよう、君の口から彼に報告してくれ」
「王から言ったほうが良い気がしますが?」
「君の口から言ったほうが、君らが相談する時間ができるだろ。返事は我輩に直接答えるよう、言ってほしい」
 青年は再び大きく頷き、王と固い握手を交わしました。


 それから山小屋を経由して城に戻り、青年は王からある仕事の説明を受けます。
 それが終わると王は寝室に戻り、青年は再び涙屋の部屋に向かうことに。
 回廊を歩く間、青年の心はこうようしていました。
 緊張していてつい忘れていましたが、話のわかる王なので、秘法を受けて永遠の命を得ることも、お願いすればかないそうです。
 国を開き、秘法の力さえがあれば、女の国を目指さなくても、両親を助けられます。青年は、家族とともに、この国で暮らすことが幸せなのではないか、と考えるようになりました。


 扉を開けると、部屋の向こうの寝床に涙屋の姿がありました。
 白い髭を波のように揺らして寝ています。
 青年は涙屋を叩き起こすと、真っ先にこう訊きました。
「魔女とは何ですか!?」
 涙屋は目をごしごしと拭きながら言います。
「えーと、魔女とは『絶望を知った女が成る者』です」
「魔女になるとどうなるのですか!?」
「魔女になると不思議な力を持つと言われています」
 青年は海賊船から見た、女の国を守る火の雨を思い出しました。
「そう言えば、海賊の誰かも、女の国は魔女の国と言っていました。じゃあもしかして、女の国の、あの雨を火に変える力、あれは本当に魔女の仕業ですか?」
「あたしにもわかりませんが、もしかしたら、船を難破させた嵐を呼んだのも、魔女かもしれませんね」
 青年は目を輝かせました。
「貴方は、魔女に会ったことがあるのですか?」
 涙屋は大きくあくびをして、眼鏡をかけます。
 そして遠い目をしてこう答えました。
「ああ、そういえば、ええ、一度だけ。黄金色に輝く美しい魔女の王と会ったことがあったような、ないような」
 青年はさらに目を輝かせました。
「黄金色の、しかも魔女の王なのですか。怖い存在ではないのですか?」
「本来は恐ろしい存在だから魔女と言われているのだけれど、彼女は魔女の王を名乗るだけあって太陽のように温かな存在でした」
 青年はまだ見ぬ魔女という存在に好奇心を募らせました。
 それから早口で王と会った件や、代弁者にばってきされた件、そして代弁者の特権について報告しました。
 涙屋ははじめ不機嫌な様子でしたが途中から「うん、うん」ときょうしんしんな様子で話を聞くようになりました。
 ところが、青年の話が終わりを迎えるころには、再び不機嫌な顔に戻り、まずこう言いました。
「あたしゃ断ろうかな、それ」
「ええ? 代弁者になれるのに、何故ですか?」
「昨日今日来たばかりの外国人が何故、そんな偉い地位になれる?」
「王は、海賊をらしたことを褒めてくださり、僕と二、三話して判断されたと言っています」
 涙屋は自分の髭をさすって言います。
「この国の政治がたんしているからでしょう」
「他に、任せられるような人間がいない、ということですか?」
「それ以上はわからないけれど」
「やりましょうよ」と青年は涙屋に詰め寄ります。
 涙屋はお尻を浮かすと、青年から少し距離を置きます。
「王とはまだそんなに仲良くないし」
「そんな子どもじみたこと言って、城のなかに小さな城を貰えるし、家来がたくさん付くんですよ」
 興奮気味な青年に、涙屋は言います。
「あたしゃ失うものが少ないからいいけれど、君は注意しないと。君の行動次第で、ご両親の未来が懸っているんですよ。目的を忘れず、冷静になりなさい」
「僕は冷静です」と青年は大きく息継ぎをしてこう続けます。
「早速、大切な仕事を貰いました」
「仕事?」
「ええ、見てください」
 青年は二冊のとても厚い本を取り出します。
 涙屋が一冊をめくると、この国の国語辞典であることがわかりました。
 しかし、もう一冊のほうをめくってみるとすべてが白紙でした。
 涙屋は首を傾げます。
「こっちは辞典のようだけど、白紙のこちらは?」
「翻訳するんですよ、この国の言葉と、僕の母国語を」
 涙屋はけんに深いしわを刻みます。
「既に受けたのですか、代弁者の任を」
 青年は誇らしげに続けました。
「はい。王は『君の母国と近付く日が来るかもしれない』と言ってくれました。そのいつか来る橋渡しの準備のため、栄誉ある翻訳の仕事を僕にまかせてくれたのです」
 涙屋は二冊を両手で持ちます。ずっしりとした重みです。
「けど、この作業量は膨大だよ?」
「大丈夫です、言葉は、僕の得意分野です」
 涙屋は白紙の辞典をめくると、青年に言います。
「これを今、君がする必要はあるのか?」
「何故そんなことを言うのですか?」
 涙屋は大きな溜息を吐くと、窓の外を見つめます。
 遥か向こうに、大きな山が見えました。
「そびえ立つ山は風にも嵐にも、一切の揺れを見せない。そんな人間でいたいとあたしは願います」
 それから青年を見ました。
「人の心を揺さぶり、目標など、最も大切なものをかすませてしまうのは何か。知っていますか?」
 青年は少し考えました。真っ先に浮かんだのは、おびえる代弁者の姿でした。
「脅しや、恐れですか?」
「報酬や栄誉です」
 涙屋は続けます。
「目先の利益、時には特権や役職もまた、大事なものを見失わせます。両親の治療を忘れたでしょう」
「いえ、そんなことは」と青年が続けようとしても、涙屋は許しません。
「君の目的はこの国で栄誉ある仕事をまかされることじゃない。両親の病を治すことだ。でも君は、王から栄誉ある職を与えられ、一瞬でも両親の存在を忘れた」
 涙屋の言っていることはまさしく図星でした。
 青年は本を強く握り、何も言わなくなりました。
 数秒か数分か、青年が辞典の背表紙を睨むだけになります。
 涙屋にもわかりました。青年は今、怒りを押し殺している、と。
 青年からしてみると、栄誉ある仕事に高揚し、てっきり涙屋が自分を褒めてくれると思い込んでいました。
 ところが実際は栄誉ある仕事にケチを付けられ、さらに大切な両親のことを忘れている、などと指摘されてしまいます。
 青年も、頭のどこかで理解していましたが、それらを素直に認め、反省するには時間が必要でした。
 やがて、青年はこんな言葉を残して部屋を後にします。
「もう少し褒めてくれたって、良いじゃないですか」
 バタン、と扉が強く閉まります。
 それから涙屋は、ポツリと呟きます。
「うらやましい。でも良くない。心の色をそのまま言葉にするのは」


 それから間もなく、部屋に鼻たれが入ってきました。
 鼻たれは涙屋の顔をのぞき込みます。
「仮面の彼、じゃなかった、仮面の代弁者と喧嘩したのかい?」
「怒っていたか?」と涙屋。
「いんや、与えられた仕事部屋の隅で、いじけているよ」
「ふふ、そうか。まるで子どもだな」
 涙屋が笑顔になると、鼻たれも笑いました。
「そのコドモって言葉、この国にはないけど、聞くと心がわくわくするな」
「忘れているだけだよ」
 涙屋は優しい瞳のまま、鼻たれの顔を見つめました。
 そして次にこう言いました。
「ところで、王に謁見したい。取り次いでくれるか?」
「ああ。わかったよ」